東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰテサロニケ5章14-15節「寛容さと善を行なうこと」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/06/30

Ⅰテサロニケ5章14-15節「寛容さと善を行なうこと」

*** 6/30(水)祈祷会 説教概略 ***
Ⅰテサロニケ5章14-15節「寛容さと善を行なうこと」

 先週語られたみことば、12-13節では、ひとりひとりがみことばの指導者に対して十分に尊敬を払うことを教えられていました。そして今度は、自分たちが人をケアする立場、指導的立場でもあることを意識させられる勧めとなっています。


 やはりパウロは12節と同じように「兄弟たち、あなたがたに勧めます。」と上から目線ではなく、へりくだって「勧めます」とのことばで語っています。さて、その具体的な内容はどのようなものだったでしょうか?

Ⅰテサロニケ5章14節
兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい

  様々な弱さや課題を抱えている人々に対する接し方について語られています。

怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をするように」と語られています。

「怠惰な者」とは、どういう人々でしょう。私のことだなと思います(笑)。反対のことばは「勤勉な者」とか「忠実な者」と言ったら良いでしょうか。勤勉さや忠実さがなく、なすべき事をあれこれ理由をつけてやらないでいる人のことでしょう。そのような人々を諭すようにと語られています。

特に当時のテサロニケの教会では、すぐにでも世の終わりが来るから仕事をしても仕方がないといった歪んだ終末観があったと考えられます。ですから、それを理由にして仕事をしないで、他の人に頼り切ってしまうといった問題もあったようです。

次に「小心な者を励ますこと」が語られています。これはおもにメンタル面の話であろうと思います。臆病な人、気の弱い人を励ますようにと教えているのです。誰もが弱気になることや、落ち込むことはあるでしょう。そういった人々を励まし力づけることが語られています。励ますことは案外簡単ではないですよね。励ますつもりがかえって落ち込ませてしまったことも思い出されます。相手を理解できるよう祈り主から教えていただき、主の愛で寄り添うことが必要です。

3番目は「弱い者の世話をすること」です。今度は心の弱さよりも人の助けを必要とする社会的弱者のことでしょう。ハンディを抱えている人、病の中にある人、やもめや孤児などが念頭に置かれているかも知れません。そのような人々に必要なのは「諭し」や「励まし」ではなく、具体的な「ケア(お世話)、助け」であるということでしょう。それぞれにふさわしい関わり方があり、パウロの細やかなことばの配慮にも気づかされます。そこには御霊による上から知恵があることでしょう。

そして、より大切なことが同時に語られています。パウロがどの人々に対しても忘れてはならないこととして、語っていることが2つあります。

第一に、すべての人に対して「寛容」であるようにと教えられています。これは先に登場した怠惰な者にも、臆病な小心者にも、弱い者に対しても、すべての人に対して寛容であるようにと教えられています。なお、寛容とのことばは「辛抱強く待つ(忍耐して待つ)」という意味があります。原語では同じことばがマタイ18章26節で、借金をしている家来が「もう少し待ってください」というところで使われています。お金を貸している側が犠牲を払って不利益を被りながら「忍耐深く待つ」ということが言えるでしょう。

Ⅰテサロニケの5章に戻りましょう。ここにある「寛容」・・・それはこう言うことができるでしょう。相手の中にある弱さを、こちら側で引き受けて、待っている側が傷つきながら耐え忍ぶということです。

それは何でも許可するという安易なものではありません。
主のもとに本人の意思で立ち返れるよう忍耐して祈り待つ姿勢です。

放蕩息子の帰り胸を痛めながら待ち続け父親の姿はまさにこれに当たるでしょう。

 昔歌ったことのある賛美曲の中に、このようなものがありました。

「主よ あなたの気持ち知らず 過ごした日々でさえも (あなたは)傷つき耐えられた」

 私たち罪人が神様のみ思いを少しも理解せず、自分勝手な歩みをしていた際、神様が忍耐深く、ご自身の心を痛めるようにしって待ってくださったのです。

 このように、実に「寛容」というものの本質は「いいよ、いいよ」と口先で示すものではありません。むしろ、犠牲を払って相手を待つというものです。それによって不利益があっても忍耐して待つのです。

 人々が主に取り扱われ、変えられて行くのには時間が必要です。私などはせっかちなので、早く結果を見たくなります。待てないのです。

 でも、神様は私たちのためにどれほど忍耐深く待ち続けておられることでしょうか。私たちのうちにある根深い罪の性質を、私たちが真摯に悔い改めるのを・・・。それに引き換え、私たちの「堪忍袋」はなんと小さく、その緒がなんと切れやすいことでしょうか。不寛容な自分自身に気づかされます。

そして、このような不寛容な心で満ちている時、15節にあるように自分に対して悪いことがなされると、感情的に悪をもって返してしまい傷つけてしまうことさえあります

Ⅰテサロニケ5章15節
だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい

 「悪に対して悪を返さないように気をつけよ」と語られています。それどころか「すべての人に善を行なうように」と語られているのです。

「やられたらやり返す権利」があると私たちの心は思っています。それどころか同じ仕返しでは気が済まず、より多く相手を苦しめようとしてしまう罪深さが私たちの中にあるかも知れません。試しに「どんな悪が来ようとも、ぜんぶ神様の喜ばれる善でお返ししよう!」と心に決めて、一日、いや一日と言わずせめて1週間ほど行動してみたらいいと思うのです。いかに難しいことかと気づかされます。

それでも、キリスト者にしかできないこの恵みのわざです。悪に善を返すのは、人間の感情では難しい。キリストにある御霊のみわざ以外何物でもないのです。

Ⅰペテロ2章のみことばが思い起こされます。2:20-24です。

Ⅰペテロ2章20-24節
20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。21 このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた

 どんな悪がなされようと、神様の喜ばれる善で返した。それはイエス・キリストのお姿そのものです。十字架こそ、そのクライマックスです。キリストにある弟子は、そのように歩むことができる者とされているのです。

 「そうしなければならない」のではなく、キリストの愛と恵みを受けた者だからこそ、御霊の助けを存分に受けられる者だからこそ、喜んでその道を選び取れる者とされているのです。なんと嬉しいことでしょうか。
 確かに簡単ではありません。葛藤します。悩み傷つきます。忍耐をもって、寛容な心で相手を待ち続けることほど大変なことはないかも知れません。しかし、主がまず私たちを待ってくださった。今も待っておられる。その愛を注がれた私たちです。

 「小さなリース」という絵本があります。小さな少女と独裁国家の将軍の話です。この将軍は独裁者で、多くのキリスト者を迫害し、牢に入れあるいは殺害しました。自分の従わない者をことごとく攻撃し、自分の思うがままに。けれども、彼はとても孤独でした。誰も逆らえないけれど、同時に誰も本気で彼を愛して従う者はいなかったのです。

 そんな折に、彼の自宅のドアには小さなクリスマスリースがかけられていました。プレゼントです。毎日のように!そこでこの将軍は誰の仕業かと見張っていたのです。すると、小さな女の子がかけているとわかりました。

 「なぜ、お前はこんなことを?」と将軍は言います。少女は実は、自分の両親を将軍に殺された。憎くて仕方がなかったのです。でも、彼女の両親はクリスチャンでした。少女は憎しみに支配されそうなときに、その両親から教えられていた聖書のことばを思い出したのです。「あなたの敵を愛しなさい」とのみことばでした。

 それで決心しリースをプレゼントしました。そして「こうして話せたのだから、もうお友達よね」と彼女は伝えました。将軍はこの愛に触れ、悔い改め変えられて行ったのです。これは実話をもとにして絵本であるとのことです。

 まさに悪に、全き愛、善で返したモデルです。こんなことは人間わざではありません。 

 でも、私たちには主の愛が既に注がれています。主の寛容のゆえに赦され、救われました。悪に対しても愛に満ちた良いわざで返される主の弟子とされました。この恵みに歩める者とされているのです。ここに歩ませていただける恵み、なんと幸いでしょうか。


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