*** 6/30(水)祈祷会 説教概略 ***
Ⅰテサロニケ5章14-15節「寛容さと善を行なうこと」
先週語られたみことば、12-13節では、ひとりひとりがみことばの指導者に対して十分に尊敬を払うことを教えられていました。そして今度は、自分たちが人をケアする立場、指導的立場でもあることを意識させられる勧めとなっています。
やはりパウロは12節と同じように「兄弟たち、あなたがたに勧めます。」と上から目線ではなく、へりくだって「勧めます」とのことばで語っています。さて、その具体的な内容はどのようなものだったでしょうか?
Ⅰテサロニケ5章14節
兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。
様々な弱さや課題を抱えている人々に対する接し方について語られています。
それは何でも許可するという安易なものではありません。
主のもとに本人の意思で立ち返れるよう忍耐して祈り待つ姿勢です。
Ⅰテサロニケ5章15節
だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。
「悪に対して悪を返さないように気をつけよ」と語られています。それどころか「すべての人に善を行なうように」と語られているのです。
Ⅰペテロ2章20-24節
20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。21 このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
どんな悪がなされようと、神様の喜ばれる善で返した。それはイエス・キリストのお姿そのものです。十字架こそ、そのクライマックスです。キリストにある弟子は、そのように歩むことができる者とされているのです。
「そうしなければならない」のではなく、キリストの愛と恵みを受けた者だからこそ、御霊の助けを存分に受けられる者だからこそ、喜んでその道を選び取れる者とされているのです。なんと嬉しいことでしょうか。
確かに簡単ではありません。葛藤します。悩み傷つきます。忍耐をもって、寛容な心で相手を待ち続けることほど大変なことはないかも知れません。しかし、主がまず私たちを待ってくださった。今も待っておられる。その愛を注がれた私たちです。