東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱテサロニケ1章1-4節「最後まで健全な信仰を保つ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/07/22

Ⅱテサロニケ1章1-4節「最後まで健全な信仰を保つ」

*** 7/21(水)祈祷会 説教概略 ***

Ⅱテサロニケ1章1-4節「最後まで健全な信仰を保つ」


 テサロニケ人への手紙第一が終わり、第二の手紙にそのまま移って参ります。この手紙を学ぶにあたり、少しその背景を知ることが、中身を理解する手助けになるでしょう。

 この第二の手紙は、第一の手紙と共通する点として、読者はテサロニケの教会、そこにいるクリスチャンたちでありました。そして、Ⅰテサロニケ5章の最後で、すべての兄姉に読んで聞かせるようにと命令があったように、一部のクリスチャンではなくテサロニケにいるすべてのクリスチャン。あるいはさらに、テサロニケに限らずあらゆる地域のキリスト者にも!ということで、現代では全世界で広く読まれているのです。

 手紙の送り手は、1節にある通りです。パウロ、シルワノ、テモテから・・・そして中心はパウロでしょう。同じメンツが名前を連ねており、このメンバーで一緒に行動していたのは、第二次伝道旅行時(50-53年頃)です。そして、この手紙の内容的にも、第一の手紙とそこまで大きな違いがないこと。そうした点から、第一の手紙から近い時期に書かれたと考えられています。同じようにコリント滞在時に半年ぐらいの時差で書いているのではと考えられています。

 なお、テーマについては、第一の手紙以後に、少し新しい情報が入ってきて、その必要を覚えたということだと思われます。この手紙を読んでわかるのは「主の日」の理解、解釈についての問題が生じていたということです。「主の日」、すなわちキリストの再臨の日は、もうすでに来たという誤った考えが起こったようです。そのために混乱が生じ、落ち着きを失い、もう働く意味もないといった極端が起こっていたのです。これは第一の手紙の時にも触れられていて問題の根はあったのでしょう。けれど、それがより深刻化した中で、第二の手紙を書く必要が生じたということがあったのでしょう。

 

1. 愛のあいさつ(1-2節)


 いつもの決まり文句のような挨拶で始まります。それでもこうした挨拶を読むたびに、キリスト者の挨拶は本当に特別だなと思うのです。この手紙の送り手は誰でしょうか。
 1節にあるように、パウロ、シルワノ、テモテです。確かに実際に書いて送っているのは彼ら3名が中心です。しかし、2節をご覧ください。「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように」とあるではないですか。

手紙の送り手からの挨拶だけで終わらないのです。三位一体の神様からの恵みと平安があなたがたにありますようにと、祈りのことば、祝福のことばが出だしの挨拶から始まっています。しかも、その恵みと平安は、この世では得られない、クリスチャンの特別な恩寵です。自分たちからの挨拶で終わらず、神様の恵みと平安があるようにとの相手の幸せに直結する尊いことばで始まるのです。

 クリスチャンになってからこのすばらしい手紙の書き方を学びました。メールでも、LINEでもそうですが、最初に尊い主の御名を賛美しつつ、いつも主にあってお交わり出来て感謝であることを伝えつつ、そして手紙の最後にも主の平安がありますようにとか「主にありて」ということばで締めることができます。

 この世の手紙では、神様がこの手紙のただ中に入って来るということはまずありません。人間が人間のことばだけで、お互いの安否を尋ねあい、そしてどこに祈るかもわからないのに、健康をお祈り申し上げますと伝えたりする。

 でも、私たちには保証と根拠があって、手紙の書き出しから最もすばらしい神の恵みと平安が、あなたがたにあるようにと、これ以上ないほど良いことばで始められるのです。

「平安」ということばは、ヘブルでは「シャローム」ですね。シャロームこそは、神様との関係が最高に良い状態を指すもので、心も体も霊も信仰もすべてにおいて主との親しい交わりのうちにあって、満たされる状態です。

  

2. 感謝し、成長を喜ぶ(3-4節)

 やはり挨拶の続きと言えますが、3-4節では「感謝」ということばが登場します。

 感謝で始まり、感謝で終えられる。

 それがクリスチャンの手紙の特徴でもあります。色々苦難があろうとも、また、実際この手紙ではパウロは「主の日」についての誤解を説き、正しい教えを伝えようと使命があって書いている。けれども、それでも尚、まずは主にある感謝の心を伝える姿勢。そこに読む者への敬意があり、神様に目を向けるように促す牧会的配慮があると言えるでしょう。

 私たちにとっても自分の存在を感謝されることは、とても嬉しく励ましをいただくことです。そして、私たちが何かの課題に取り組む際にも、いきなり問題そのものに目を注ぐべきではありません。パウロも、課題があるにしてもテサロニケの兄姉たちの信仰の成長を喜び、愛が増し加わっていることを当然のこととして感謝しています。

 それどころか、神の諸教会の間で「あなたがたを誇りに思っています」とのことばは、パウロたちの弟子であるテサロニケの兄姉たちにとって、大きな喜び、励ましとなったことでしょう。色々な課題があることを知りながら、なお、「あなたがたを誇りに思う」と述べることは、深い愛に根ざしていることばだと言えます。これから課題を指摘しつつ、教え導くという中にあって、ここまでの深い愛を表わすことに教えられます。

 成長は中々自分では分からないものです。でも、みことばに歩み、礼拝を続け、神とともに歩む日々の中で、必ず人は変えられ成長してまいります。牧師として見て入れば、人々の日々の成長は関心があるからこそ、本当によく見させていただき恵みをいただいています。成長していない人はほとんどいない。このように変えられている姿を見ることは幸いなことですし、それは日々、みことばに生きている実りですから、誇らしいものです。

 何よりも・・・

 問題を解決すること自体が目的にならないようにしたいものです!
 
 一緒にどこに向かって歩んでいるのかその課題に取り組むのは誰のため、何のためであるのかに目を向けたいのです。それは主なる神様のみこころのゆえ、主のご栄光を現すため、そして主を知るためであります。

 いつもそこに目を注ぎ、ぶれない歩みをしたいのです。

 むしろ、問題は神様の恵みが現れる機会、神の栄光が現わされるチャンスでさえあります

 実に、私たちの指導の考え方がいつでも「問題解決型」になりがちです。

 カウンセリングを頻繁に行い「問題を解決すればうまくいく」というのは、案外短絡的で危険な思想でさえあるように思います。もちろん、問題解決に取り組むことは決して悪いことではありません。むしろ必要であり、有益です。

 しかし、人を育てようと思うのなら、課題や問題点をどう改善するかに終始しないようにすることも重要です。その人の賜物を引き出し、良さを発見し、どう生かされるかをともに考える「成長促進型」の関りも大切です。それを「メンタリング」と言うべきかと思います。

 私はカウンセリングと同時に、メンタリングが必要だと思っています。

 その人の良いところを発見し、それを励まし、それを主の御用のために用いられるよう励ましていき育てます。 確かにパウロは問題に取り組まなければいけませんでした。しかし、問題解決に終始するのではなく、やはり彼らの良さを理解し、感謝し、励ましていることを忘れてはなりません。特に、あらゆる迫害がある中で、苦難に耐えながら、忍耐深く信仰を保って来たことは、間違いなくパウロらの目に称賛に当たりするものでした。


3. 最後まで信仰を保つ(4節)

 
 ヘブル11:13 このみことばは、キリストを既に信じている者たちにとって、間違いなく覚えておくべき重要なものだと思います。

「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました」
と語られています。

 非常に重要な真理を語っているみことばです。旧約の信仰者たちの名前を出し、一時期は燃える信仰者であったという人たちではなく、信仰者として生涯を終えたと語ります。

 ある一時期は信じていた。洗礼も一応受けた。でも、晩年は・・・??

 ではなく・・・「信仰の人として生涯を終える」、これを大切にしていただきたいと思います。

 人生においては色々な事があります。信仰生活においても様々な試みを通ることと思います。あるいは、異端的な教え、歪んだ教理に流されていくケースもあります。これは本当に胸が痛みます。 慌てず、踊らされず、落ち着いて主のみこころは何であるかをいつも祈り求めましょう。

 2:2後半に「すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください」とあります。2:3でも「どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません」と。 

 誤った教えに流されない道は明確です。聖書を神のことばとして信じて、最初から最後まで学び続けることです。みことばを人生の土台として生活の中に保ち、真実であることを絶えず日々の歩みの中で体験し続けることです。そして、感情で走らないで、真実に根ざした信仰で人生を歩みましょう。そこに感情は神様の守りのうちについて来てくれます。



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