東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ほっとカフェ 心のケアと人間関係「バウンダリー2」 
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/07/20

ほっとカフェ 心のケアと人間関係「バウンダリー2」 

*** 7/20(火) ほっとカフェ講演 ***

「心のケアと人間関係」というテーマでいつもお話をさせていただいています。

 リクエストがありまして「バウンダリー(境界線)」のことについて、前回はお話をさせていただきました。本日もその続きで、バウンダリーのことをより具体的に教えられていきたいと思います。

境界線とは他者と自分を区別し、自分が何者であるかを定義します。そして、自分の責任範囲を定めつつ、他者との健全な関係を生み出します。特に「支配」と「共依存」からあなたを守ります。(『境界線』ヘンリー・クラウド、ジョン・タウンゼント共著) 

  健全なバウンダリーの形成ができると、人間関係において責任の範囲が明確にされ、必要以上に背負いすぎず、また他の人からのことばや介入に右往左往せず、自分らしく歩むことができるようにされていきます。


Ⅰ. 前回の復習 

1.神様との境界線を確立する


神と人との間には、決して超えることのできない境界線があることを謙虚に受け止め、完璧主義をやめましょう。人は万能ではありません。計画を立ててもその通りにできないことも多いのではないでしょうか?神が曲げたものを人がまっすぐにすることはできません。小さな人間であることを真摯に受け止める時自分を必要以上に責めたり、重荷を背負ったりしないようにされていきます。  
私たちは神の前に必要以上に思いあがらず、謙虚に歩みましょう。

2.人間関係における境界線の確立

バウンダリーの大切な機能として、良いものを許可し、悪いものをシャットアウトする機能バウンダリーの確立した成熟した方は、これができるという事でした。良いものは受け入れ、悪いものはお断りする。ここをはっきりすることで、自分らしさが健全に保たれ、心が守られていきます。

3.人間関係が改善するノー

「ノー」を上手に伝えること。相手のノーを受け入れることを学びました。
嫌われたくなくて「ノー」を言えない日本人が多い。でも、聖書が教える「愛」に立つ。
どんな時にも神様はあなたを決して見捨てないという、愛の土台の上に立ちましょう。

 


Ⅱ. 本日の学び
 

1.神の声を受け入れ、的外れな批判を受け流そう(セルフイメージの向上)

  境界線は四方八方を囲まれた壁ではありません。きちんと門や入口のドアを築いて、良い物は受け入れ、悪い物は受け入れないという役割を果たさせることが大切です。まず、常に積極的に受け入れて良いものがあります。これを知っているというだけで、本当にすばらしいことです。それは神のことばです。

  あなたを愛してやまない神の愛のことば。愛に満ちているだけでなく、そのことばは真実なので、あなたをすべての支配から自由にします。


ヨハネの福音書8章31-32節
イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 しばしば私たちは人のことばの奴隷になります。

 境界線が明確でなく、セルフメージが低い方、確立されていない方はとても他の人のことばに影響を受けてしまいます。しかし、人のことばは、真実も含まれていますが、それぞれの思い込みや自分勝手な考えも多く含まれています。そのことばを聞いて、聖書と照らして真実だなと思うものは受け入れ、ちょっと的外れだなというものは「受け流す」ということを身につけられたら最高です。

例)「あなたは短足で微妙よね」と言われた。

 短足がそもそも微妙かどうか?それも魅力の一つである。なお、サッカー選手は短足の人が多いと言われる。エビデンスはないが、足が短い選手の方がバランスを取りやすく、ボールの扱いも上手い印象がある。案外長いと扱いにくく不便なこともあるのではないでしょうか?そもそも神様は、その人の様々なバランスの中で、それが最善であると決めてデザインなさっているのです。

 人から言われた「正しくないことば」を心に歓迎し過ぎて、それをずっと引きずって生きるということが起こります。でも、それが数十年たってから、真実でないと気づいた時、なんとショッキングなことでしょうか?

 人の意見にカンペキなものはありません。
 一部の個人的な意見に過ぎないのです。
 場合によっては嫉妬心から言っているかも知れません。
 勘違いや言い間違いも山ほどあります。

 聖書には次のことばもあります。心の片隅に覚えておいてください。

伝道者の書7章21-22節
また、人の語ることばをいちいち心に留めてはならない。しもべがあなたをののしるのを聞かないようにするために。あなた自身が他人を何度もののしったことを、あなたの心は知っているのだから

 人の話を聞くなという話ではありません。きちんと聞いたら良いと思います。しかし、「いちいち心に留めてはならない」とのことばは示唆に富んでいます。よく聞いたとしても、心に留めるべきことだけを留めればいいのであって、不要なものは「受け流して良い」のです。むしろ、不要なものを受け流すからこそ、大切なことを心にしっかり留められるのです。

 できればですが・・・あなた自身のことについて神様がおっしゃることばを、たびたび確認することをお勧めします。

 歪んだ鏡に自分を写しても、正しい自分の姿を知ることはできません。聖書という真実の鏡によって、あなたを見るという習慣を身について欲しいのです。

 そこでは、あなたはわたしの目には高価である。尊い存在であるとあります。わたしはあなたを愛していると主は言われます。あなたは神に造られた、神の作品。神のかたち、神が心に留め、神が決して見捨てないと約束してくださる存在。どんなに失敗しようと、神様はあなたを赦し、救うお方。思い煩わないで代わりに感謝せよと。すべての良いもので、あなたの一生を満たすと言われる。あなたを守り、あなたを支え、あなたを導くと語られています。これらの真実のことばを受け取り続けてください。

 

2.背負いこみ過ぎから解放されましょう

セルフイメージが低い人ほど、必死に自分の存在価値を確かめようと頑張りすぎてしまいます。断ったら嫌われる、価値が下がると思うので、なかなか「ノー」が言えなくて疲れてしまうのです。何でもできることはすべきと思いこんでさえいます。

そういう人は、一般には「いい人」と言われます。別の言い方をすれば「八方美人」と言われるかも知れません。

反面、とても燃え尽きやすい人だと言えます。

 それはもう少し言うと、他の人の責任まで背負い過ぎてしまっているということ。

他の人が心配すべきことなのになぜかあなたが心配しすぎてしまう。

結果、頑張りの割には達成感もなく疲れ燃え尽きてしまうというケースです

これは案外、まじめなクリスチャンに多いかも知れませんね。それは相手の境界線を自分から越えて入ってしまっている人の姿です。他の人の家の敷地のごみ拾いまでしているのです。疲れますよね?

他の人の責任をあなたが背負い過ぎることは、他の人の様々なチャンス(成長など)を奪うことを知りましょう。

 

例1)友人の大切なおもちゃを借りて来て、なくしてしまった(あるいはひどい扱いをして壊した)子。子に代わって、親が謝ったり、親が弁償したりしない方がいい。子どもに反省の機会を与え、きちんと謝罪させ、できるならばお小遣いやお年玉など子どもの財によって、愛の償いをさせる。そのことで初めて、自分のしたことの意味を知り、借りたものには責任があり、大切に扱う必要があるのだと子が学び成長できる。そして自分の誠実な態度次第では仲直りできる喜びも体験できるでしょう。

例2)ギャンブルで借金をしてしまった人。「もう二度としないからお願いします!と言うので仕方がないとお金を出してあげた。これはその人がギャンブル依存や借金依存から助け出す効果を全く期待できない選択肢です。優しい人ほど、泣いて助けを求められ、可能な範囲だと思うと手助けてしてしまう。特に身内であれば余計にそう。しかし、本人が痛い思いをして刈り取らないので、直らないのです。

 様々な依存症からの回復のためには、その痛みを学ばないといけません

  他の人が「見かねて」代わりに責任を負ってあげるなら改善しません。依存状態が心地よいので続けるのです。しかし、依存している状態が本当に厳しい、きつい、痛いならばそこから抜け出そうとようやく必死になれます。依存的な傾向の人ほど痛い経験をしないといけません。

今のだらしない状態を続けることがこんなに苦しくて、ひどい結果を生み出すのだと心と体で理解したとき、人は変化しようとし始めます。

自分を変える大変さ < 現状維持の大変さ = 「変えていかなきゃ!」

蒔いた種によって痛みを刈り取ることになるなら、次はそうならないようにと自分の歩みを変えるようになるのです。

 

ガラテヤ6章7節
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。

 これは神様が定めたことです。それを他の人が何でもかんでも刈り取ってあげてしまうと、刈り取りによって大切なことを学ぶ機会を奪ってしまいます。

 良い種の刈り取りも、悪い種の刈り取りも経験することが人には必要です。

 現代はネットで匿名で言いたい放題の面がある。これは刈り取りがされていないので、どんどん悪くなってきました。だから、きちんと発言者が責任を負う仕組みを整備しないとネットバッシングで人がどんどん倒れていくのです。ことばのナイフで刺してしまった人は、何らかの責任を取れるようにすることで初めて改善されるのではないでしょうか。

実はそうさせたあげることが本当の意味で愛ではないでしょうか。

本人が自分の過ちに気づき、その点について責任を負う。

そのことから、本人が本気で悔い改め、正しい道に戻ろうとしていけるのです。

神様の救いはその点、最高のバランスがあると言えます。

イエス様の十字架の赦しは圧倒的な赦しの力です。どんな罪をも赦される。

ただし、大切なことがある。

その人が自分の罪を心から認め告白すること、悔いて改める姿勢を持つこと

がどうしても必要です。

 ということで、他の人の責任範囲にまで踏み込んで、あなたが背負うと疲れます。あなたには、自分のなすべきことが多くあって、引き受けても「できないことがたくさんある」と受け止めましょう。その人自身が負うべき責任を、いい人になることだと誤解して、代わりに背負わないように。その人自身が負うべきものが神様によって与えられているのです。


マタイ25章23節
主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

 神様は各人に賜物とそれを用いる責任をお与えになりました。各人に与えられたのであり、他の人のものを取ってきてやるのではありません。大切なことは、あなた自身に与えられたもの、ことについて忠実であることです。他の人の責任に手出しをするあまり、自分のなすべき大切な責任を果たせないなら、本末転倒ですよね。

 与えられていることに忠実でありましょう。他の人を愛するべきですが、愛し方が共依存的であるならば、かえってその相手の成長を妨げ、その人が豊かにされる機会をも奪ってしまいます。 

 より良い人間関係の構築のために、少しこれらのことを見直してはどうでしょう。少し楽になりますよ。そして、他の人にとっても良い影響がもたらされることでしょう。



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