東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカ23章32-38節「十字架上のイエス、その愛」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

2021/07/19

ルカ23章32-38節「十字架上のイエス、その愛」

*** 7/18(日)主日礼拝 説教概略 *** 

ルカ2332-38節 「十字架上のイエス、その愛」

 小説「ナルニア国物語」の作者であるC.S.ルイスが「愛」についてこう語っています。

 「愛するということは、傷つきやすくなることである」

 それはメンタルが弱くなるという意味ではありません。「傷つく事を恐れず、傷つきやすいところに心を差し出す」ということでしょう。

 
 彼は続けてこう言います。「自分の心を無傷のままで保ちたいのならば、誰にもあなたの心を与えないでいるしかない」と。
 
 そして、「自己中心という名の小箱の中に心をしまって鍵をかけておくといい」と言いました。つまり、都合よく少しも傷つくことなく人を愛することなど出来ないという事です。

 むしろ、傷つくことを恐れているから、愛が全きものとならず、人を励まし助けることもできないという真理です。本当にそうだなと思います。

 完全な愛を持っておられる主イエス様を見上げるのならば、まさにこの通りでした。この世界にイエス・キリストほどご自分の心を差し出し、傷つきやすいところに身をささげてくださった方はいません。愛する友のためにいのちを捨てる。これにまさる愛はないと聖書は語ります。安全なところから「がんばれ」と叫ぶのではなく、罪人のただ中に共に歩んでくださいました。十字架はその愛のクライマックスです。

本日のみことばでは十字架上のイエス様の姿に目を向けて参ります。そこに他者の痛みに寄り添う「キリストの愛」があることを教えられます。ともに教えられて参りましょう。


 

1. 背いた者たちとともに数えられた

 
ルカ23章32-33節
ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた

 十字架刑がなされたのは、「どくろ」と呼ばれる場所でした。アラム語で「ゴルゴタ」、ラテン語では「カルバリ」と呼ばれます。

 十字架刑を執行した丘の形状がドクロのようだったから、あるいは処刑場だったためにそう呼ばれたなど諸説あります。そのゴルゴタの丘にて、イエス様と二人の犯罪人が十字架に架けられました。

 ここでは、聖なる罪なきイエス様が二人の死刑囚と同列に扱われていることが語られています。

 ただし、イエス様と両隣の二人には天と地ほどの差がありました。片や罪が一つもない。それどころか、愛と真実に満ち優れて良いお方、イエス様。
 片や非常に大きな罪を犯した者。重罪人・死刑囚でした。

 その両者が、同じ十字架刑に並べて処せられるというある種、奇妙な光景です。
 しかも、その真ん中にイエス様が磔にされました。まるで、イエス様こそが最も罪人たちの頭(かしら)であるかのようにさえ見える構図です。罪人の代表となられたゆえのポジションに思えます。

 しかし、ここにこそ旧約時代から備えられていた神の救いのご計画がありました。十字架の預言の一つである、イザヤ書53章をご一緒に開きましょう。イザヤ書5312節後半です。4行目から

イザヤ53章12節後半
彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする

まさに2人の死刑囚と一緒にイエス様は十字架に架けられました。この預言の通りになりになったのです。もちろん、イエス様は少しも背いていません。犯罪はもとより、父なる神の前に、何一つ罪のなかったお方です。

それにも関わらず「背いた者たちとともに数えられた」のです。それは、キリストがご自分の意志で罪人の側に立ってくださったということです。ここに愛があります。罪を犯していないにも関わらず、罪人の側、さばかれる者の側になってくださったのです。

私たちはどこかで、大きな罪を犯した人を見る時に、高慢にも「同じ罪人とはいえ、私はあなたほどではありません。一緒にしないでください」という心さえ持ちかねません。

しかし、十字架にあるのは、罪深い者と一つになってくださるイエス様の姿です。形ばかり、口ばかり「あなたの味方です」と言うのではありません。自ら最も汚れた残酷な罪の報いの中に、そののろい、そのさばきの中に身を置いてくださったのです

それが十字架でした。

そしてイエス様はこれまでも、普段から、罪人や虐げられている者とともに歩まれました。取税人のマタイを親しい弟子にさえ加えました。当時、取税人は不正に税金を絞り取り、汚れた裏切り者の職業、汚れた者と考えられていました。そのマタイを弟子にとったイエス様は、案の定、多くの人々から強く叩かれました。何も悪いことをしていないイエス様でしたが、罪人たちの汚名をイエス様が皆お引き受けになったのです。

私たちの多くはこう思うかも知れません。「このような人々の仲間だと思われたら、自分もそういう人間だと思われるかも知れない。自分も叩かれかねない」と。それゆえに、少しずつ、そのような交わりからフェードアウトしてしまうことがあります。

でも、イエス様はこれらの汚名を全部引き受けられた。その愛に罪人たちは心を動かされたのです。本物だとわかったのです。だから悔い改めに導かれたのです。

子育てクラスの中で「親の体裁」という問題も、何度か扱わせていただきました。日本では「親の顔が見たい」、「親のしつけがなってない」等の言い回しがありますね。親は子どもの態度次第で、他人からそうした批判を受けることがあるでしょう。親も傷つきたくありません。批判されたくないのです。私の望む「いい子」で居続けなさいという無言のプレッシャーを与えている事が少なくありません。

それは「愛」ではなく、自分の名誉を守るための保身ですよね。このような親が批判を受けたくないからという動機で、親の体裁のために、子に「いい子」でいさせることこそ、子どもに愛が伝わらなくなる道です。

それを思う時、主イエス様は、ご自身の立場も名誉も、神としての栄光も後にして、むしろ不名誉なそしり、批判をも自ら引き受けたのですから・・・なんという深いご愛でしょうか。

 

2. キリストのとりなし

 このようなイエス様の愛があるからこそ、その「とりなしの祈り」に心が打たれます。そこにある愛はなんという愛でしょうか。ルカの福音書に戻ります。

ルカ23章34節
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

イザヤ書の預言の通り、背いた者たちの側に立ち、彼らのためにとりなしをされたのです。自分を苦しめる者たちが目の前にいて、滅多打ちにされているのに、なお彼らのために赦しを願い祈りました。 

しかし、その姿をよそに、人々は意味もわからずイエス様をあざ笑い、ののしります。
35-38節です。

ルカ23章35-38節
35 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった

 自分を正しい者の立場に置き、さばき主であるかのように人を批判する人々の姿がありあす。彼らは言います。「お前が神のキリスト、救い主で他人を救うと言うのなら、自分をも救えるだろ?見せてみろ」と。兵士たちも同様でした。バカにし侮辱し「お前が本当にユダヤ人の王だと言うのなら、自分を救ってみろ」と。

「ユダヤ人の王」と書かかれた札も、イエス様を嘲笑するために掲げられたものであって、ユダヤ人の王として認め、敬意を払うようなものではありませんでした。

これらの中にあっても、キリストが自分を救わなかったからこそ、私たちに救いの恵みがもたらされたことを忘れてはいけません。イエス様はいつでも自分を十字架から救うことができました。悪霊を追い出し、嵐さえも言うことを聞くイエス様の権威です。天の大軍勢を呼ぶこともできました。

それでも、その力は自分を救うためには一切行使しませんでした自分を救うためにはどんな奇跡もなさいませんでした。主イエス様が十字架の苦しみを避ければ、誰が身代わりに私たちの罪を背負うことができたでしょうか。こうして、自ら十字架の上でさばきを引き受けてくださいました。傷つくことを恐れることと、愛することとは対極に位置します

すべての罪人の身代わりの犠牲、愛のみわざです。この愛が十字架にはあります。死刑の道具だった十字架が、今では病院のマーク、平和のしるし、国の国旗、アクセサリーとして愛用されるようになった理由が、十字架に示されたキリストの愛にあります。この愛をいつも覚えるため、十字架を見上げます。

イエス様は、あなたのために祈ってくださっています。盲目な罪人のために。自分のしていることが分からない「霊的な盲目状態」であることを理由として、父なる神様に「あわれみをお示しください」ととりなしています。

 「自分が何をしているのか、分かっていない。」これは、私たち自身にもあることでしょう。後になってあの時はひどい事をしてしまったと後悔することがありますよね。なぜ、自分はあの時あのような罪を犯してしまったのだろうかと、自分を見失っていたことに愕然とすることがあります。まさに「後悔先に立たず」で、後になって冷静になって振り返ると、自分は何をしていたのだろうと苦しむことがあります。

 けれど、主はそのような私たちのために十字架で祈られ、いのちを犠牲にされました。しばしば道を踏み外し、脇道にそれてしまう私たちのために祈られました。だから私たちは「後悔」して終わりではないのです。「後悔」だけならば希望がありません。過去を悔いるだけですから。そんな希望のないむなしい歩みをしないようにと、主イエス・キリストは十字架で私たちのために苦しんでくださったのです。


 私たちは主のこの愛をいただいているのですから、後悔ではなく「悔い改め」に進んでいきましょう。「悔い改め」とは、罪を悔いて終わりではなく、キリストとともに新しい光の道を歩み始めることです

 過去の失敗を悔いて改め、そこから学び、キリストの道へと方向転換するのです。
 そのために、主イエス様は十字架で身代わりとなり、私たちに罪の赦しと新しい道を備えてくださったのです。




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