東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰテサロニケ5章23-28節「この手紙を聞かせよ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/07/14

Ⅰテサロニケ5章23-28節「この手紙を聞かせよ」

*** 7/14(水)祈祷会 説教概略 ***

ネイティブアメリカンのことわざに、こういうものがあります。

「あなたが生まれて来た時、あなたは泣いていて(オンギャー)、みんなは笑っていたでしょう(誕生の喜び)。あなたが死ぬ時、あなたは笑い(満足)、みんなが泣いてくれる(惜しまれる)人生を送りなさい」

あなたが自分の人生を振り返り、満足して笑顔で去ることができるように。そして、周囲の人々はあなたを慕うがゆえに、別れを心から惜しんで涙してくれる。そんな人生を歩みべきだという教えでしょう。


その通りだと思います。

私たちもキリストの再臨の時、あるいは地上の生涯の終わりの日に、心から自分の歩みを神様に感謝し、満足しながら天の御国へ凱旋したいのです。同時に、あなたとともに歩んでくださった皆さんが、心からあなたとの別離を惜しんでくれるような愛される歩みをぜひさせていただきたいと思いませんか。

しかし、私たちが自己中心的で、自分の利益ばかり追求する歩みをしていては、このような生涯の終え方は難しいことでしょう。自分のために生きる人生では、終わりの時に何も残らないのです

 ですから、私たちは本当の愛に生きる必要があります。パウロは、主と出会い、主の愛を学び、その愛をもって宣教者として歩みました。このテサロニケ人への手紙を読んでいれば、それが伝わってまいります。今日は、この手紙の最後の挨拶の部分となりますが、教えられて参りましょう。


1. 最後まで聖く保たれますように
 
 23節には「パウロの祈り」が語られています。平和の神があなたがたを完全に聖なる者としてくださるようにと。「聖なるものとする」とのことばは「聖別する(聖め別たれる)」と訳せることばです。キリストにあって救われたあなたがたが、この世の波風に流されてしまうのではなく、そこからしっかりと分離され、聖なるものとして取り分けられて歩めようにとの祈りです。

「この世と調子を合わせてはいけません」ともみことばは語っていますが、まさに世の風潮に安易に流されず、聖なる歩みを大切にできるようにとの「とりなしの祈り」です。

世と異なる価値観に歩んでいるからこそ、キリスト者の存在意義があります。実際、キリスト者として歩む時に、人々はその違いに気づき、興味を持つことが多くあります。「何かが違う」と思っていただき、興味を持つ方が起こされるなら嬉しいことです。

 そして「その霊、たましい、からだ」=「人を構成するもの」 これらすべてにおいて、キリストの来臨の時に責められることがなく、良い状態に保持されるようにとの祈りです。

 この祈りは私の中にもすごくあります。なぜなら、主イエス様を信じたその時は盛り上がってイキイキとするという人がいます。けれど、信仰がいつまでもしっかりと保たれ、それどころか日々豊かにされている人は必ずしも多くはないからです。

 キリストが再びこの地上に来られるその時、世の終わりの時に、堂々と信仰を堅く保ってそこに立っている。人々がみな、そういうキリスト者であるようにとの祈りは牧師ならば、当然すぎるほどの祈りです。

 教会から離れてしまったように見える人々も中にはいます。お会いする機会がないから、他の教会に移られた方がその後、どうなっているのかもよく分かりません。あるいは、キャンプや修養会で出会った人、以前関わりのあった人がいます。彼らのことを風の便りで聞いて、その後救われたと聞いたり、奉仕に励んでいると聞いたり、活躍されていると聞いたりすると、すごく嬉しくなりますね。離れて歩んでいても、そこで主に忠実に歩んでおられたら、これほど嬉しいことはない。

人間なので、すべての人のこの地上での信仰生活の終わりがどうであるのか?そこまで堅く信仰が保たれているのか?豊かにされているのか?見極めることなどできません。

けれども、その信仰が最後まで保たれるようにとは祈らずにはいられません

 パウロにとって、この祈りは当然の祈りであり、誰からか頼まれなくても、命じられるまでもなく、切に神様に祈っていることなのです。そして、感謝なことに、私たちは関わった人たちの意志の強さや、信仰の強さをアテにすることはできませんが、真実な神様にあって委ねることができるのです。

Ⅰテサロニケ5章24節
あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。

 パウロはこれを信じており、また、それを読者に伝えています。あなたがたは大丈夫ですよ!なぜなら、あなたがたを召し出してくださった方、主は真実な方だから救いの恵みの約束をまっとうされるのだということです。「真実」とはことばと行いの一致。約束を必ず守るということ。主が召された以上、矛盾することはされない。この確信が読者にもたらす励ましとして、どれほど豊かなものでしょうか。

 

2. 私たちのためにも祈ってください

 そして、パウロはテサロニケの兄姉に向かい、謙遜の限りを尽くして友情を示しています。
Ⅰテサロニケ5章25節
兄弟たち、私たちのためにも祈ってください。

 謙虚でなければこのお願いはできません。祈って欲しい、祈られなければやっていけない。それは、自分の弱さ、自分の足りなさを自覚している者の姿です。

 祈られることなしにはできない。実にこの謙虚な姿勢こそが、神様の豊かな祝福を受けて歩める道です。「自分は大丈夫」というどこかおごる姿勢があるとき、つまずきが起こります。自分は多くの人から祈られないとすぐに倒れてしまう。祈っていただくことなしには誘惑に敗れ、また良い働きなど少しもできないとの自覚が必要です。

「牧師」という立場は、信徒のために、求道者のために祈り続ける立場です。その責任があると思っています。ただ、ともすると私は祈り支える側、皆さんは牧師の祈りに支えられる側という、一方通行のような考え方も生まれがちです。

しかし、牧師だからこそ、祈られなければやっていけない。無力で足りない私だからこそ「皆さんの祈りなしには良い働きなどできない」という自覚が本当に大切です。

自分たちは大丈夫という心のどこかにある慢心を捨て、どうか私のためにも、私の家族のためにもお祈りしてくださいと頭を深く垂れて、皆さんにお願いする必要があります。

そんな謙虚で対等な交わりの中で、愛によって結ばれた「祈りの交わり」がここにあります。私たちも祈るだけでなく、祈ってくださいと頭を下げてお願いできる謙虚さと、実際にそれに応じて祈り合う親しい交わりを持って参りましょう。

 

3. この手紙を読んで聞かせよ

そして結びのあいさつの中で、27節のことばは注目すべきでしょう。

Ⅰテサロニケ5章28節
この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるよう、私は主によって堅く命じます。

 すべての兄弟たちに読んで聞かせること。それを「堅く命じる」と言って祝福の祈りとともに筆を置くのです。この手紙の中で、パウロは謙虚に「お願いする姿勢」もよく示してきました。それでも、なお強調すべきところは力強く命じているのだと気づかされます。

 それは、とにかくこの手紙を兄弟姉妹に「読んで聞かせよ」ということです。

 このことばについては、パウロは優しいことばではなく、はっきり強く命じています。一部の人で読んでお終わりにないで欲しい。「すべての兄弟たちに」に読み聞かせよと言うのです。それは、ここに記した主の教えこそが、すべてのキリスト者の信仰の土台だからです。揺るがされてはならないからです。私たちも、この聖書を神様からの愛の手紙として受け取りました。これを読み聞かせるようにと命じられていると言って良いでしょう。

 この世には本当に多くの情報が氾濫しています。しかし、その情報はあなたを愛する愛によって書かれているでしょうか?あなたという人を知る者が、愛をこめて、あなたの最善を願って語られているでしょうか。魅力的で、私たちの心を楽しませる情報は多くあるでしょう。でも、あなたのすべてを知った上で書かれ、あなたを心から愛し、あなたの幸いを願う切なる思いをもって書かれたものは、この聖書以外にはないのではないでしょうか。

これを私たちはもっと大切に、そしてもっと多くの方に伝える使命があります。

最後にパウロはキリストの恵みがともにあるようにと祈りをもって終えます。

Ⅰテサロニケ5章28節
私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。

迫害や暴動も起こっています。パウロたちもマークされています。もう会えないかも知れない人々です。パウロの愛のことば、愛の祈りがここにありました。現代の私たちにもこの手紙は届けられ、こうしてともに味わっています。

 





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