東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱテサロニケ1章5-7節「神の国のために」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/07/28

Ⅱテサロニケ1章5-7節「神の国のために」

*** 7/28(水)祈祷会 ***

Ⅱテサロニケ15-7節「神の国のために」

 私たちは「聖書が教える救い」を伝える時に、「キリストを信じれば、苦しみも災いもなくなり、すべてが上手くいきますよ」とは言いませんよね。

 なぜなら、それは真実ではないからです。


 聖書が教える救いは、都合のいいご利益宗教のようなものではありません。
「じゃあ、信じても仕方がないじゃないか?楽にならないのでは?」との反論があるかも知れません。確かに「苦しみや試練がなくなる」ということではないので、そういう意味での楽な人生にはならないでしょう。

 しかし、信じていても、信じていなくても私たちは必ず苦しみや試練を通りますよね。
 そうであるならば、苦しみや困難さえも神様の御手の中にあることを信じて、そこにも神様の恵みを見出して歩めるならば、それはとても大きいことだと私は思うのです。

 つまり、希望のない苦しみではなく、希望に満ちた苦しみ(試練)として歩んだ方が確かに良いと私は確信しています。むなしい意味のわからない苦しみは耐え難いものです。しかし、良い目的のための労苦や犠牲は、その時は苦しいけれども、大きな喜びや平安に必ず至るという希望にあふれています。 本日のみことばは、迫害下で試練や苦しみの中にあったテサロニケの兄姉たちへのパウロの励ましのことばです。教えられて参りましょう。

この励ましの土台にあったものはなんと「神の正しいさばき」でした。

Ⅱテサロニケ1章5節
それは、あなたがたを神の国にふさわしいものと認める、神の正しいさばきがあることの証拠です。あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです

「さばき」ということばに、やや否定的な響きを感じるかも知れません。ところが「正しいさばき」というものは、私たちを幸せにする、愛に満ちたやさしいものであります。想像してみてください。どんなに悪いことをしても、逮捕もされずペナルティもない社会。殴っても何も言われず、盗んでも誰も咎めず、殺しても何の罰もない。そんな社会は平和でしょうか。弱者にやさしいでしょうか。恐ろしくて住めないですよね。「正しいさばき」で守られているので、力のない者も安心して過ごせるのです。治安が良いということは、悪に対して良いさばきが存在している証拠です。

パウロは迫害を受けている兄姉たちに、「神様の正義」があることを伝えています。神様ほど正義と公正に満ち、悪を野放しにされない方はいらっしゃいません。ですから、今、悪に対する正義のさばきが十分になされていないように見える理由は、神様が忍耐深く人々の悔い改めの機会を待っていてくださるゆえです。

Ⅱペテ 3:9を開きましょう。 

Ⅱペテロ3章9節
主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです

「さばきが遅れている」と人々に思われる理由はこれです。
主は人々の悔い改めの機会をより長くして、忍耐深く待っておられるのです。

しかし、それでも終わりは近づいています。すべての悪がさばかれ、良い者に正しい報いが与えられる時が来ます。6-7

Ⅱテサロニケ1章6-7節
神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えることです。このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります

 ここにあるように、イエス様が天使たちを連れて天から炎のうちに現れる時が来ます。世の終わりであり審判がくだされる時です。最終的に悪魔とその配下のすべてに対しても主は勝利を治められます。

 もちろん、これが完成の時であって、それまでの日々においても、主は悪にはそれに伴う苦しみを備えておられ、良い働きにもそれに伴う様々な報いや喜びも与えておられます。

「正しいさばき」とは、悪に対する刑罰だけでなく、良いことに対する正当な報酬が与えられることでもあります。信じる者が天の御国に凱旋できることもその一つですが、それだけではなく、労したことへの報酬やねぎらいを受ける事でもあると言えます。

 ですから、今の時の様々な苦しみが神の国のためであるならば、私たちの苦しみも犠牲も、決してむなしく終わることはないのです。

5節後半にはこうありますね。「あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国ためです」と。

教会の働きも順風満帆ではありません。教会開放日も人が集まらないこともあります。
中高生イベントの準備も、コロナ下ゆえに神経を遣い多くの時間を準備にとられます。

「やるか、やらないか」「集まるか、集まらないか」から議論しなければいけないので、大変時間がかかり、しかも中々結論がでないのです。

また参加者も揺れ動き、幾人かのキャンセルも出ます。

そういう時、一生懸命準備をしている者としては胸が痛みます。

せっかく「こんなに頑張っているのに、またキャンセルか」と。

私はもう20年以上、若い世代の働きに関わってきましたが、ある意味、参加者の直前キャンセルとの戦いでした。揺れ動きやすい中高生に対して、忍耐深く説得を続け、あきらめずに祈り続け、そうやってキャンセルからさらにもう一度、いや・・・もう二度以上粘って、来られるように祈りつつ導きました。

散々迷っても「参加できて良かった」と彼らが心から言ってくれた時、そこから変えられていく姿を見る時、神様からの「形ではない報い」をいただいたと慰められ、喜びにあふれます。

教会の様々な奉仕もお金にはならない働きです。

思い通りにならない働きです。

何のためにしているのかを見失うと、不平・不満がたまり、感謝も失われます。でも、私たちの労苦のすべては神様に知られています。この世からの報酬がなかったとしても、人々からの感謝がなかったとしても、神様からの格別な報いがあります。これは私たちが見失ってはいけない恵みです。 

「3人のレンガ職人」という話があります。旅人が町外れの道を歩いていると、一人の男が難しい顔をしてレンガを積んでいました。「何をしているのですか?」と旅人は尋ねました。「レンガを積んでるのさ。朝から晩までね。腰は痛くなるし、手はこのとおり。なんでこんなことをしなければならないのか。」と職人はつまらなそうに言いました。旅人はさらに歩き続けた。もう少し歩くと、一生懸命レンガを積んでいる別の男に出会った。旅人は聞きました。「何をしているのですか?」と。「大きな壁を作っているんだよ。これが俺の仕事だからさ。この仕事のおかげで俺は家族を養っていける。仕事があるだけマシさ。」旅人はまた歩き続けた。もう少し歩くと、別の男が活き活きとレンガを積んでいるのに出くわした。旅人は尋ねました。「何をしているのですか?」 職人は答えました「ああ。俺たちは、歴史に残る大聖堂(教会)を造っているんだ!ここで多くの人が神の祝福を受け、悲しみを喜びに変えていただくんだ!素晴らしいだろう!」

 3人とも同じレンガ職人です。仕事内容は同じです。でも、その心はまるで違いますね。

真に働きの目的を理解し、その働きの価値を理解し、そのために喜んで労することが出来る人は幸せです。何のために労しているのか。何のために痛み苦しんでいるのか。その理由と目的を見失わないようにしたいのです。

 何のために苦しんでいるのか。それは、滅びることのない愛と恵みに満ちた「神の国」のためです。永遠のいのちに至る働きです。

一人でも多くの方が神の国に入って幸せになれるように、主は私たちを選ばれました。パウロもこの時、テサロニケの兄姉の様々な苦労を思い浮かべながら、その苦労が「神の国」のためなのだと教え、励ましているのです。そうである以上、すべてを知り尽くされている神様が、あなたがたの苦労を知って、正当に報いてくださるのだと言います。

 6節では、神様の働きにともに労する者には、報いとして「安息」が与えられることが明言されています。すぐに消え去る一時的な安心ではありません。なくならない安息です。 

ヘブル1211節にもこうあります。

 21章25-26節
すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます

 その時は喜ばしいとは思えないことは少なからずあります。頑張っても報われないと思える時があります。

 でも、結論を焦ってはいけません。主はすべてご存知です。

 主は良いお方です。

 川の中に石を積む作業は、石が水の中にある間は外からは見えないのです。でも、確実に石は積まれています。見えないからと言って途中でやめては、それまで積んだものが無駄になるでしょう。

 私たちには一切不正をなさらず、完璧に公正な神様がおられます。主のためにささげていること、労していることに、神様は必ず恵みをもって答えてくださいます。



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