東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカの福音書23章39-43節「死刑囚でも天国へ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/07/26

ルカの福音書23章39-43節「死刑囚でも天国へ」

*** 7/25(日)主日礼拝 説教概略 ***

ルカ23章39-43節「死刑囚でも天国へ」


 「3-A組」というドラマがありました。再放送で見たのですが、3-A組のとある女子高生が自死をしてしまうという出来事が起こります。そこに絡む関係者が次々と明かされて行きますが、最終的に彼女を追い込んだのは彼らではありませんでした。名前もわからない人々です。それは、ネット上で匿名にて彼女を批判する無数の人々でした。このドラマはそのような無数の匿名の人々による暴力の問題を取り扱っていたのです。

 現代の社会の大きな課題でしょう。ネットで叩かれて復帰できない、やり直しができない状況に置かれる人々が後を絶ちません。そのようなやり直しができない社会になりつつあることは、本当に残念なことです。しかし、神様は人に何度でもやり直せる赦しの福音を人に伝えてくれています。最後まであきらめないで、主の救いの恵みによって歩みたいのです。



1. 悔い改めた死刑囚


 本日のみことばは十字架につけられた二人の犯罪人とその真ん中につけられているイエス・キリストとの会話について語られています。ここから私たちは、どんな罪人であっても、自らの罪を悔い改め、イエス様を信じるならば救われるのだという救いの恵みの大きさを知ることができます。39節です。

ルカの福音書23章39節
十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った

 二人の犯罪人のうちの一人はイエス様を十字架に磔にした人々と同じようにイエス様をののしって言いました。「お前はキリストなのだろ?それなら自分と俺たちを救え!」。客観的に見ても非常に上から目線な言い分ですよね。人はしばしば、無意識のうちに神様に対して上から目線でいることがあるように思います。
 
 私も信じる前の自分はそうでした。自分を中心に物事を考えて生きていたので、神様に対する恐れや尊敬がなく、どうしても自分を基準にし「神様がいるなら祈りに聞いて助けてくださいよ」と偉そうに考えてしまうのです。さらには「愛の神様、全知全能だと言うなら、信じない者までもみんな救えばいいのに!」と、これまた自分勝手な言い分を持っていることもあるでしょう。お前が神なら奇跡を見せてみろ、試しに私の願いを叶えてみろ!救ってくれるなら信じてやろう!と、まるでギブ&テイクであるかのように。この時の一人の犯罪人はまさにそうでありました。
 
 ところが、十字架につけられたもう一人の犯罪人は全く違う考えを示しました。
40-41節です。
ルカの福音書23章40-41節
すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」

 彼はもう一人をたしなめつつ、自分の本当の姿を謙虚に受け止めています俺たちは死に値するような悪いことをしたからここにいるのだ。それは滅んで当然の行為。自分に下されたこの死刑の判決は、まったくもって「正しい」と。それを棚に上げて、まるで自分を神より偉い者であるかのように、救われる権利が当然あるかのように、「自分と俺たちを救え」と命じる。それは「神をも恐れぬ傲慢の罪だ」言うのです。

 そして、彼はこうも考えました。「だがこの方は、悪いことは何もしていない。」
 彼は決してイエス様を詳しく知っていたわけではないでしょう。それでも残酷な死が目の前に迫る状況下で、イエス様を間近に見ていました。その表情、態度、ことばを横でつぶさに見て、明らかにこの方は他の人とは全く違うとハッキリわかったのでしょう。お見受けするところ何も悪いことをしていない聖なるお方だと。この方こそ約束されていた神の子、本物の救い主ではないかと。
 
 それを裏付けるかのように、彼のイエス様に向かって発せられた42節のことばは、ごく短いものですが、実に大切な真理が含まれています。
ルカの福音書23章42節
 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」

 ここに救いのために大切な二つの真理が語られています。

 第一に、彼はこの状況下でイエス様が神のキリストであると信じたのです。彼はこう言いました。「イエス様。あなたが御国に入られるときには」と。つまり、イエス様は、この十字架で死んで終わりではないと理解しているのです。イエス様が天の御国に入る方だとを信じているのです。だから、その際には私を思い出してくださいと願うのです。誰でもイエス様を神の遣わされた救い主、キリストだと信じるならば、その人は神の子とされ、罪赦され永遠のいのちが与えられます。

第二に彼は心から自分の罪深さを悔いているのです。彼は自分を「御国に入れてくれ」とは言いませんでした。彼が言ったのはただ「私を思い出してください」でした。「御国に入れてくれ」などと偉そうな事は、彼には言えなかったのです。自分のしてきた罪を考えたら「天国に入れてくれ、救ってくれ」とは言えなかったのです。自分の罪深さを心底悔いていたがゆえに、これらの刑罰は当然の報いだと思っているがゆえに、「私を思い出してください」と言うのが精いっぱいだったのではないでしょうか。
もう一つ考えられることは、その謙虚さと同時に、イエス様の権威を彼なりに信じていたゆえに、思い出してくださるだけで十分と考えたのかも知れません。いずれによせ、己の罪深さを心底悔いて、ただイエス様のあわれみにおすがりさせてくださいという謙虚な姿勢がここにあります。彼のような人が救われていいのかと、かつての私は思ったものです。でも、その考えの方が傲慢なのかも知れません。罪の重さや罪の数を比較し合い、勝手な基準で自分をマシだと考えるのはなんと愚かなことでしょうか。それよりも、救われるに値しないほど汚れた自らの心を神様の前にさらけ出し、私をあわれんでくださいと主に求める者に、主は目を留めてくださるのです。

 

2. 死刑囚でも天国へ

 
 イエス様も彼の心を見ておられました。43節。
ルカの福音書23章43節
 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

 不思議な神様の救いの道です。表面的に見ると、「救え」と言った者が救われず、「救え」と言えなかった者が救われたという結果です。「救え」と偉そうに言う者は、自分を神より上に置き、自らの過ちにも向き合えてない者でしょう。一方、真摯に罪を受け止め、神様の前にへりくだる者こそ、神様の目には救いに近い者なのです

救われた犯罪人は、おそらく聖書もろくに学んだことがない人です。イエス様のことも詳しく知るわけではないでしょう。それでも自分の過ちを深く悔いて、イエス様を救い主だと信じた。それだけです。けれど、それで「救われるのだ」ということを改めて気づかされ、大きな慰めと励ましをいただくのです。

実にここにある恵みはなんと大きいことでしょうか。死の直前でもこうして救われる者があったという事実は、例外なくすべての者に差し伸べられた救いなのだという意味を持ちます。この世には、自分のような者は救われてはいけないと思い、その重荷を背負い続けている人も多くいます。もしかしたら、真面目な人だからこそ自分を赦せず、自分を責め、だから自分は救われるに値しないと考えているかも知れません。本当に苦しいことです。でも、この犯罪人の救いを知るならば、「こんな私でさえも救っていただけるのですか」と求めることができるのではないでしょうか。私たちが本当に自分の罪深さに涙するとき、心底自分の愚かさに絶望する時、人に消えない傷を負わせたと嘆くとき、死刑囚でさえ救われるという真理はどれほど慰められることでしょうか

分からない中でも、自分の罪深さを真摯に認め、必死にイエス様にすがりつくならば、主はこう言ってくださるのです。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と。 

だからこそ、私たちは死の間際まで、愛する人々に主を呼び求めることを伝えたい、伝えるべきだとも思わされるのです。神様は誰一人滅びるのを望まない方です。最後の最後まであわれみ深く待っておられるのです。

 同時に、人生の99%以上を散々罪深い歩みをしてきて、残りの1日で信じれば救われるなんて都合が良すぎるのではないかと思う人もいるかも知れません。真面目に罪を犯さないよう努力して歩んできても、罪を自由に犯してきても、最後は同じ天の御国に行けるなら、ある意味不平等ではないかと。私もそんな風に思ったことがありました。

けれども、散々罪深い歩みをし続ける人生は本当に幸せなのでしょうか?

犯罪者のほとんどが、本当の意味で愛されることを知らずに生きて来た人だと言われます。愛されることなく、必要とされることなく、信頼され期待されることもないからこそ、悪に走ってしまうという面が少なからずあります。そして罪の結果は悲惨なものです。罪悪感に悩まされ、人からの復讐を恐れます。罪は人を傷つけ、自分をも傷つけます。そして人々からの批判、さばきを恐れて生きるのです。喜びや平安、感謝、愛、真実とはほど遠い人生です。そこに解決も赦しも、あわれみも励ましもない。

天国に行くだけなら死の間際でいいかも知れません。でも、救いは天国にく前からもう始まっている。今日と言う日を神様の深い愛の中で歩めることはなんと幸いでしょうか。神様の愛を知らず、赦しを知らず、真の喜びや平安も知らない歩みはあまりにも「もったいない」のです。この犯罪人も十字架にかけられるよりずっと前に、主イエス様をこうして信じることができたなら、その人生も大きく変わったことでしょう

 死のギリギリがいいのではなく、少しでも早い方がいい。死刑囚でさえ天国へ招かれるほどの大きな救いの恵み。深い神様のご愛です。だからこそ、少しでも早く知って欲しい。私たちもこの救いの恵みの大きさを知り、まただからこそ、まずは多くの方に知っていただけるよう祈り、証しをさせていただきましょう。



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