東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヘブル4章14-16節「まことの神、まことの人」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/07/12

ヘブル4章14-16節「まことの神、まことの人」

 *** 7/11(日)主日礼拝 説教概略 ***

ヘブル4章14-16節「まことの神、まことの人」


 職場で異動があったり、学校でクラス替えがあったりすると、新しいよく知らない人たちと仲良くやっていけるか不安ですよね。さらに言うと、ほとんど誰も知り合いがいないという環境に入っていくことは本当に恐れを伴うものではないでしょうか。教会に初めて足を踏み入れる時も、わからなくて不安がありますよね。
 
 これらは「未知」ゆえの不安、恐れ、緊張ではないでしょうか。

しかし、そこで良い出会いに恵まれ、友人ができるとそこは安心できる居場所にさえ変わります。そして「居場所」というのは、整った建物やきれいな草原などというよりも、自分が受け入れられ、大切にしてくれる人々がいるところです。


何よりイエス・キリストは、ご自身が私たちの居場所になろうと来てくださった方であり、私たちを招いていてくださっているのです。

しかし、教会に長く集ってさえいれば、イエス様と親しい友人になっているかと言うと、必ずしもそうではありません。長年近所に住んでいても、挨拶ぐらいしか交わしたことのない方っていらっしゃいますよね。同じクラス、同じ職場にあっても、あまり親しくない方というのは必ずいらっしゃいます。同じように、長年教会には来ている。聖書もそこそこ読んでいる。でも、イエス様をまだまだ知らない。そういうことはあり得ますね。

ですから、今日、私たちは求めをもってイエス様を知る機会としていきましょう。イエス様はあなたと、もっと親しくなりたいと願っておられます。あなたがイエス様を知り、そこにあるいのちの輝きを受けて、幸せにイキイキと歩んで欲しいのです。

「まことの神」であり、同時に私たちと同じ「まことの人」となられた救い主イエス様について、みことばから教えられましょう。そしてだからこそ素晴らしい救い主であるという確信を深め、イエス様とさらに親しく歩ませていただきましょう。

 

1. まことの神

 実は昔から、イエス様についての間違った理解は少なからずありました。
 キリスト教の異端では、特にイエス様を神に劣る存在と教えている群れも多くあります。けれども、聖書をまっすぐに解釈し、そして聖書全体からキリストを知るならば、キリストが父なる神と全く同一の神性を持っておられるということは明らかです。

 イエス様のなさった数々の奇跡は、聖書が記録しているだけでなく、イエス様を信じないユダヤ教徒の文献の中でさえ、「彼は数々の魔術を行った」として記録されています。言い方こそ「魔術」ですが、人の力を超えた不思議なわざをなした事実は、否定したい者たちの証言によって、かえって明らかにされているとも言えます。

 さて、今日のみことばにおいても、イエス様がただの人間ではなくまことの神であることを示唆する内容が語られています。14節では、「もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられる」とあります。 

「神の子イエス」と語られ、もろもろの天を通られたと語られます。修辞法で天の広大さを表現しつつ、そこを通られ父なる神の右に座し、天におられる偉大な大祭司となられていることを示しています。父なる神の右に座り、私たちのために弁護し、とりなしてくださっています。これは人にできることではありません。

 そして、15節では「罪は犯しませんでした」ということばがあります。短くも非常に重要なことばです。その生涯において罪を犯さなかったというのは、人には不可能なことです。この世界に罪のない人はいません。聖書はすべての人が生まれながらにして「罪人」であると言います。

 私も4人の子どもたちには正しい良い人になって欲しいと願って育てて来ました。「罪の犯し方」を教えたことも、塾に通わせ受講させたこともありません。それでも、幼いうちから自然に他人の物を奪い、ウソをつき、親をコントロールしようとし、言うことに逆らいました。

 また、聖書でなくても、実はこの世の中の常識としても、一つも罪を犯さない聖人はいないというのが前提にあると思うのです。例えば、「就職適正試験」を私も受けたことがあります。そこでは、こんな問いかけが出されることがあります。

「あなたは今までにウソをついたことがありますか?」。これに「ない」と答えると、おそらく不合格でしょう。なぜでしょう? すべての人が大なり小なり、誇張するなり、ウソをついたことがあるという前提だからです。1回もないと断言するこそ、ウソつきだと考えるので「ない」と答えた人を人格的に問題アリとして採用しないと言われます。

それは聖書が、誰もが生まれながらに罪人だと語ることと一致している現実ですね。ところが、ここまで人の罪を明確に教えている聖書が、イエス様に関しては平然と「罪は犯しませんでした」と証言するのです。それはイエス様が、まことの神であるゆえに、罪をひとつも犯さず、だからこそ人の罪を赦せる唯一の「聖なる方」であることを示しています。

そして、十字架で死んでよみがえられた事実こそ、死にさえも勝利されたいのちの主、神様でいらっしゃる客観的な証明ともなりました。この真実は私たちの信仰にとって、どれほど重要でしょうか。イエス様が神様でなかったとするなら、十字架の死はただ一人の人間が死んだという事実以上の何ものでもありません

同じ罪人、同じように死ぬだけの人。その人に他の人を救うことはできません。そこに罪を赦す力も永遠のいのちもないことになります。私たちは、イエス様が確かにまことの神様であるからこそ、この方による罪の赦し、神の子とされる特権、とこしえのいのちがあると信じられるのです。

 

2. まことの人

 しかし、一方で聖書が明確にしている「もう一つの事実」があります。それはイエス様が「人となられた」という真実です。私たちはイエス様が、完全な意味で人間でもあったのだと信じます。本日のみことば15節を改めてご覧ください。

ヘブル人への手紙4章15節
私たちの大祭司(キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです

 先ほど紹介したように「罪は犯さなかった」という神のご性質があると同時に、私たちの弱さに同情できる方であると語られます。それはなぜかというと、人としての弱さを確かに持ったからです。後半に「すべての点において、私たちと同じように試みにあわれた」と語られています。

 イエス様はまことの人間となって、この地上で歩まれました。「完全に」とか「まことの人」と表現するのは、イエス様が人間と神の中間に位置する「超人」のような存在ではなく、私たちと全く同じ人間なのだということを意味します。

 イエス様は私たちと同様に、お母さんのお腹の中から生まれてきました。おしめも替えてもらう必要がありました。ルカの福音書2章ではイエス様の身長が伸び、知恵も成長していることが語られています。また、マタイ4章2節では「空腹を覚えられた」との表現もあります。ヨハネの福音書11章35節では、イエス様が涙を流された様子が明確に記されています。「イエスは涙を流された。」(ヨハネ11:35)。イエス様は私たちと同じように母マリアのお腹から生まれ、成長し、お腹もすくし涙も流される弱さを身にまとったお方となりました。

  しかし、なぜ、神である方が私たちと全く同じ弱い人間になる必要があったのでしょう。

 第一に、人間とならなければ死ぬことができなかったということがあります。神は永遠の方、死のない方です。ゆえに、私たちの身代わりに死ぬためには、人間となる必要がありました。そのために神のお姿さえ後にして、そこにある栄光さえも置き去りにして、人となってくださいました。私たちの苦しみのただ中に来られたのです。そこにどれほど深い愛と犠牲があることでしょう。 

 第二に、私たちと同じ弱さを担い、同じように試練を通り、本当の意味で私たちの代表者となって、救いを達成するためでした。イエス様は、罪は犯しませんでしたが、私たちと同じように、弱さを持ち、苦しみ、涙を流すお方でした。だからこそ、私たちの痛みを知り、私たちを励まし、私たちを救うことができるのです。

 今日のみことばに続く5章1-2節では、一般の大祭司の役目、意義が語られています。人々の代表として「自分自身の弱さを身にまとい」、弱い人々に優しく接することができると語られます。 イエス様が人となられたのは、他にも信者のモデルを示すためであり、また神のご性質を人の姿で啓示するという意味もありました。

 

ご一緒に、まことの神、まことの人であるイエス・キリストについて教えられて参りました。これ以上の「謙遜」はありません。神である方が、人となるだけでなく、最も身分の低い犯罪者がかかる十字架の刑にまで従ってくださいました

神として持っていた栄光、その全能の力をも鞘に納めて、弱さを身にまとって私たちの罪の汚れの中に来てくださったのです。人を救うために、神の栄光ある立場を平然と捨てて、飛び込んで来てくださる救い主です。弱さを良くわかり、涙される方だからです。

本間俊平という信徒伝道者がいました。山口県で大理石事業をしながら、刑務所の受刑者たちを見舞う働きをしていました。彼が刑務所に来ることは受刑者にとって本当に楽しみでした。ある日、刑務所の広間には千数百人の受刑者が集まっていました。

本間さんが講壇に上がると、がばっと頭を下げ、涙をぼたぼたと流しました。

そして受刑者に行ったのです。「諸君。すまなかった。」いきなり彼は謝罪します。

なぜでしょう?

彼はこう言ったのです。「わしがもう少し早く神の愛と、イエス・キリストの十字架の救いを伝えていたら、諸君はここに来なくてよかったのに。すまなかった。」と。

それを聞いた受刑者たちは皆泣き出しました。罪を犯した者のために、上から目線ではなく、頭を下げて痛みを理解してこんなにも優しい愛のことばをかけてくれる存在に、彼らは心を打たれたのです。

本間さんはこうも言いました。「ここを出て行く所がなかったら、わしの所にきなさい。味噌汁と飯はあるから」と。実際に彼を頼った人々もいました。

 神である方が人となって、救いを成し遂げられた。それは、高いところから釣り糸をたらす救いではなく、罪の泥沼の現実の中に来られ、一緒に痛みを担いながら、正しい救いの光を示す歩みでした。罪のない聖なる神の子であるイエス様にとって、人のあらゆる汚れた罪を背負い、汚名を着せられるとは、なんと耐えがたい苦しみだったでしょうか。

 しかし、私たちへの愛ゆえに、その苦しみを喜んで引き受け、罪人の身代わりとなられました。信じる者の罪をことごとく赦し、永遠のいのちを与え、神の子としてくださるためです。これ以上のへりくだり、尊い犠牲はありません。これ以上の愛はありません。



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