東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰテサロニケ5章16-22節「神の望み」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/07/07

Ⅰテサロニケ5章16-22節「神の望み」

*** 7/7(水)祈祷会 ***
Ⅰテサロニケ5章16-22節「神の望み」

 今日の前半のみことばは、多くの人に親しまれているみことばで、暗唱されている方もいらっしゃるみことばですね。賛美にもなっています。

 短い文章で、端的でリズミカルに語られていて、覚えやすいですよね。
 ギリシャ語でも16-17節は2語、18節前半は3語と、短く少ない単語で構成されています。

Ⅰテサロニケ5章16-22節
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい



この勧めのみことばが、歴史の中でどれほどキリスト者を強め、励まして来ただろうかと思います。そして読んでわかりますように、これらはいずれも命令形で書かれています。特に「喜ぶ」ということを命じられているのは聖書ならではとも思うのです。

一般に「喜び」というものは自然と湧いてくるものとか、与えられるものという受け身的な発想があります。ところが聖書ではたびたび「喜びます」と動的に語られ、あるいは今日のみことばのように「喜びなさい」と命令形で登場するのです。

そこが世の価値観とは大きく異なる部分ですよね。

少女パレアナ(ポリアンナ)という小説があります。彼女は牧師家庭で育ちましたが、孤児となってしまい親戚の家に預けられました。でも、そこでお父さんに教えてもらった「どんなことでも喜ぶゲーム」をし続けます。

苦しい状況、過酷な試練さえもそこに喜びを見出し、感謝するゲームです。

例えば、彼女が住まわせてもらったのは、綺麗な1階の部屋ではなく、汚く狭い屋根裏部屋でした。最初は泣いていた彼女でしたが、そこにある喜びを見出し、鏡がないから自分の顔を気にしないで済むとか、屋根裏部屋なので景色がいいなど、そこにある恵みを喜ぶことにしました。それが彼女の生きる力となり、それだけでなく親戚のおばさんや、町の人の心を溶かし、励ましていくことになります。

私たちの人生は小説のようにはいかないでしょうけれど、私たちも主にあって、意志をもって喜んでいく者となるよう召されています。喜べる状況になったから喜ぶということではなく、どんな時でも神様の恵みを覚えて喜ぶということでしょう。

あらゆる時に、主の良きご計画があると信じて期待して歩むことではないでしょうか。これらのことばには「いつも」「絶えず」「すべてのことにおいて」とそれぞれ語られていますよね。

「いつも」「絶えず」「すべてのことにおいて」。どれも、「どんな時でも、あらゆる状況下」においてということですよね。例外なくこれらは大切にされ、そのように生きていきましょう!と励まされています。

とはいえ、これらを実行することは時に難しいものです。頭ではわかっていても「できない」と思えることが私たちにはあります。そのような時に私たちを励まし、正しく導いてくれるのもまた、みことばです。18節の後半の一文が重要な意味を持ちます。

Ⅰテサロニケ5章16-22節
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです

これらが人から出た命令ではなく、神様の望んでおられることなのだと語られています。神様が私たちの幸せを願ってのことです。しかも、それは「キリスト・イエスにあって」と大切なことばが加えられていますよね。

私たち自身の「努力によって」ならば、とっくに挫折してしまったことでしょう。しかし、「キリストにあってこれらをしていく」とは、それができるようその力をも主が与えてくださるということです。いや、むしろキリストを見れば、喜びや感謝が当然に湧いてくるものです。祈りの力や恵みを知るならば、祈らずにはいられないのです。むしろ、私たちは祈るのをやめよと言われる方が、今では辛いでしょう。喜ぶことや感謝することが活力でもあるので、それをやめよと言われる方が、もはやしんどいのではないでしょうか?

先日の礼拝でも、神様の三位一体のご性質のことを学びました。実に、喜びも、祈りも、感謝も「三位一体の神様の導きの中で、させていただけること」だと言えます。祈りについては日曜日に、父なる神様に向かい、聖霊がうちにあって祈りのことばを与え導かれ、イエス様が仲介者となってそのお名前を通して祈ると学びました。

喜びや感謝もまた、主の御霊が私たちの内側から恵み教え気づかせてくれますし、キリストの十字架を見上げれば、罪が赦されている喜び、愛されている感謝があふれます。

 19-20節では、「御霊を消してはいけません」「預言を軽んじてはいけません」と続きます。御霊を消すとは、せっかく内住されているキリストの御霊を無視して生きること、軽んじて生きることです。そうなれば当然、喜びも祈りの感謝も失われる歩みです。御霊を片隅に追いやるのではなく、むしろ「御霊に満たされなさい」と語られているように歩みたいですね。

「預言を軽んじてはならない」とは、「神のみことばが余すところなく、まっすぐに語られること」を大事にするようにとのことです。「預言」の働きは、占いようなものでは決してありません。神のみことばを曲げたりせずに、まっすぐに伝える働きです。語る者がみことばをまっすぐに語れるように、皆が祈りつつ、その働きが尊ばれる必要があります。

Ⅱテモテ4:3-4はまさに、預言を軽んじる姿勢の表れだと言えます。

Ⅱテモテ4章3-4節

というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。

人が気ままに望む方向に引っ張られ、神様のご意思、神様のみ思いが軽んじられていくことです。みことばを語る者は様々な誘惑を受け、流される危険が絶えずあります。人間である以上、間違いもあります。勘違いも起こります。

ですから、みことばを聴くひとりひとりも盲目ではなく、みことばをそれぞれによく学び、味わい、吟味することも必要です。21-22節でこう語られています。

Ⅰテサロニケ5章21-22節
21節 ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。
22節 あらゆる形の悪から離れなさい。

それは「審査」ではなく、各自がみことばをよく味わいよく理解することです。

みことばから来ているものか、それとも人の個人的な思いからのものか。聖書が本当に語っているのか。吟味することは大切です。

そして、信仰者たちが祈りのうちに教えられ、本当に「みことば通り」だ「良いものだ」と示されたものは「良いものとしてしっかりと保たれる」必要があります。本当に良いものは、人に良い影響をもたらします。すぐにではなくても、ひとりひとりのうちに「いのちの水」となって、生きる力、神に栄光を帰す歩みへと導きます。

その良いものは、しっかりと意識して保つ必要があるのです。皆さんも、それぞれにご自身が語られ、良い影響を受けたみことばは、他の人に分かち合いたくなりますよね
 
 ご一緒に語られて参りました。救いの恵みにあずかっているということは、なんと幸いなことでしょうか。喜ぶ力、祈りの恵み、感謝する心。どれも主が与えくださり、心からそれをさせてくださいます。

 主がそう願っておられるので、私たちもそう願い求め、この道に歩ませていただきましょう。そのために御霊の助けが必要です。みことばをまっすぐに受け、キリストについて行くことが必要ですね。こうして悪いものではなく、良いものを広め、継承していくことで教会は成長し、また宣教が進んでまいります。 



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