東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱテサロニケ1章11-12節「パウロの祈り」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/08/11

Ⅱテサロニケ1章11-12節「パウロの祈り」

*** 8/11(水)祈祷会 説教概略 ***

Ⅱテサロニケ111-12節「パウロの祈り」

 地上での日々には苦しいこと、大変なことが多々あります。
 それでも、やがて主の再臨があり、キリストを信じる者たちの群、教会は美しく飾られた花嫁として整えられるのです。主の愛と真実が完全になる日がやがて来ます。

 それを知っているゆえに、キリスト者はあきらめずに祈り、主に期待して歩むことができるのです。パウロもまさに、そのような信仰のゆえに、この祈りをささげています。

 第一の手紙の方では「絶えず祈りなさい」とパウロが教えていましたが、まさに彼は祈りの人であり、しかもいつも他の兄姉たちのために祈っていたことが伝わってきます。パウロはここで2つのことを祈っています。


1. 召しにしてふさわしくしてください

 第一に「あなたがたを召しにふさわしくしてください」との祈りです。
 11節前半。

Ⅱテサロニケ1章11節前半
こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、

「私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしくしてくださるように」と祈っていると伝えています。「召し」とは神様が私たちを選ばれたということです。教会を意味する「エクレシア」というギリシャ語には、「ある目的のために召し出された集まり」という意味があります。ただの集まりではなく、目的があって呼ばれた者たちなのです。

そして、神の選びには間違いもなければ、偶然もありません。それどころ神様の愛と真実に満ちた計画の中で、選ばれて神の子、神の協力者とされた私たちなのです。ですから、自分など何の役にも立たないと自己卑下することは、神様のご計画自体を否定することでもあります。神様は私たちを必要だと考え、それぞれ、ふさわしい時に召し出してくださったのです。このお互いの出会いも偶然ではありませんね。キリストを信じていなければ、出会えなかった者たちとの交わりです。そう思うと、こうして出会えたことは主の恵みであり、それ自体が尊いことでもありますよね。

 その召しにふさわしく歩むとは、どういうことでしょうか。目的を見失わないということです。あなたの存在意義を見失わないということです。

 神様はあなたを通して栄光をお受けになります。

 キリストの証人であり、神の栄光を現すために歩むことは、すべてのクリスチャンに共通することでしょう。それは同じこの手紙の中でも確認することができます。

 2:14-15のところです。

Ⅱテサロニケ2章14-15節前半
そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせてくださいました。ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。

みことばをしっかりと守り、この教えの上に堅く立つ時、私たちを通して、神様が栄光をお受けになります。また、その栄光に私たちもあずからせていただけます。神に栄光を帰す者は、神からの栄光を受ける者ともなれるのです。

 サッカー選手がよく両手で点を指している姿が見受けられます。違う宗教の人もいるかも知れませんが、それらの人々の多くはキリスト者で、神をほめたたえながらグラウンドに入り、ゴールを決めると天を指し、神に栄光を返します。試合に勝ってもですが、忠実な人は試合に大敗しても神様に向かって感謝をささげています。

 サッカーを通してキリストに栄光を現そうとしている姿です。彼らを見る者が、神様を見ることができるようにと願います。

 

2. 善を求める願い、信仰から出た働きの実現

 第二に「善を求める願いの実現と信仰から出た働きの実現」を求める祈りです。
 11節後半です。
Ⅱテサロニケ1章11節後半
また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように

 思うだけで終わること。信じているだけで終わることが度々あります。それをパウロはよく知っているのだろうと思うのです。

 私自身もそうです。「こうなるように」と良い願いをいつも持ちます。神様を信じているがゆえに「こうできればいいな」とよく考えます。ただ、それが実現されないままになることも非常に多い私です。生来の私は、消極的、引っ込み思案なのです。

パウロのここでの祈りは、それらが「実現されること」です。

どんなに良い願いもどんなに良い信仰も、それが生涯心の中だけに留められてしまうのならば、その信仰は生きているとは言い難いでしょう。私たちは信仰を告白して歩むようにと召されているのです。

あるいはこう考えることもできるかも知れません。クリスチャンの歩みには消極的側面と積極的側面の両方があります。消極的側面は、罪を犯さないように、神の御名を汚さないように等です。例えば、人が嫌がることをしないようにという具体的なこともあるでしょう。

一方、積極的側面もあり、イエス様はそれを特に大切にするよう教えておられます。隣人を愛するように、福音を伝えるように、神の栄光を現すようにという歩みです。パウロの祈りは積極的側面が現わされるようにとの祈りかも知れません。イエス様は、人が嫌がることをしないという教えで終わらず、自分がして欲しいことは他の人にして差し上げなさいと積極面をより教えてくださいましたよね。

「服」をくれと言う人には「コート」もあげなさいと。1ミリオン(1.5km)行けと強制する人がいるなら、その人と一緒に2ミリオン(3km)行ってあげなさいと。そのようにして、いやいやながらすることから守られ、同時に積極的に人を愛していきなさいとイエス様は教えられました。 

思いを持つだけで、実際には実現しなかったことはきっと山ほどあると思うのです。それを具体的に祈り、ぜひ実現していきたいですね。もちろん、人間的な力のみで努力せよとパウロは思っていません。むしろ、神様が御力によって、実現してくださるようにと祈っているのです。主の力により頼みましょう。

 でも、祈るということは、その実現に向けて自分も積極的に協力していくという決意である必要があります。お祈りの最後には「アーメン」と閉じます。アーメンということばは「まことにその通りです」と訳されますが、元々のヘブル語は「真実」を意味することばです。聖書における「真実」の意味は、ことばと行動の一致です。みことばの通りにみわざが起こると、神は真実だとほめたたえるのです。

 ですから、私たちがアーメンと祈るならば、祈ったことばの通りになるように生きていきますという告白でもあるのです。あの人が救われるようにと祈るならば、それが実現するように自分も方法を考え、工夫をし、そうなるように主に協力していくということです。

 

3. 主の御名があがめられ、栄光にあずかれるために

 
 これらの2つの祈りの目的が12節で語られます。

Ⅱテサロニケ1章12節
それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです

 召しにふさわしく歩むなら、必ず主イエスの御名があなたを通してあがめられます。また、心の中で願っているだけの者ではなく、そのために実際に歩み、実現していく時に、キリストの御名があがめられます。

 そして、嬉しいことに、そのような歩みは、私たちもそのことを通して栄光を受けると語られています。不思議です。キリストの栄光を現し、多くの人にキリストを知って欲しいと願って歩む時、なんと私たち自身にも神様から恵みとして栄光を与えられるのです。

 栄光は自分で自分に与えるものではない。他者に栄光を帰す時、その方から栄光を受ける。そういう性質であると気づきます。

 世界の造り主、すべての人の救い主の栄光を現すために、私たちは召していただきました。なんと幸いでしょうか。良い願い、信仰から出る働きを、思うだけでなく現して参りましょう。

 

【ペンタス】教会花壇より
暑さに強く、暑いほどに元気になる花だそうです。
葉の緑がとても濃くなっていて、癒されます♪

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