東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカの福音書23章44-49節「開かれたいのちの道」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

・イベントページを更新(9/21)

2021/08/09

ルカの福音書23章44-49節「開かれたいのちの道」

 *** 8/8(日)主日礼拝 説教概略 ***

ルカの福音書23章44-49節「開かれたいのちの道」


 オリンピックを見ていると、目指すべきゴールは明確なのに、そこに至るための道はとても険しく難しいものだと思わされます。ゴルフの松山秀樹選手は、最終日のグリーンでのパットのコースが微妙にズレて惜しくもメダルに届きませんでした。カップへのコースを見極められれば良いのですが、本当にその微妙な差が勝負を分けます。


 サッカー日本代表も、ゴールはあんなに大きいのですが、やはりゴールへの道が険しく枠に行かずメダルに一歩届きませんでした。ゴールが明確なだけでなく、その道も明確に示されている必要があるのだと思わされます。

 実際、どこか行きたい場所が分かっても、そこに至る道が分からないとたどり着けませんよね。

 人は誰も人生においても幸せを目指して頑張っています。けれども、本当の幸せが何であるのか、そこに行くためにはどう歩めばいいのか。その道が分からなくてもがきます。

 しかし、イエス・キリストは、ご自身のいのちによっていのちの道を開き、それを私たちに示してくださいました。十字架こそ、いのちに至る道です。その先にあるのは、愛と平和に満ちた神様との関係の回復、死と滅びへの勝利、神ともにある幸いと祝福です。十字架という架け橋を渡り、大胆に父なる神様のふところに飛び込んで参りましょう。この方にゆだねて生きる幸いを教えられます。

 

1. 開かれたいのちの道

 イエス様はおおよそ33年ほどの生涯を歩み、ある金曜日の朝9時に十字架につけられました。人々からののしられ、辱めを受けながら3時間が過ぎた正午頃・・・変化が起こりました。44-45節です。
ルカ23章44-45節
さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。45 太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた

 お昼の正午なのに、太陽は光を失い全地が暗くなったとあります。
 いわゆる日食です。とはいえ、日程的には通常は起こり得ないタイミングであり、時間も3時間という長すぎる特殊なものでした。ただし興味深い資料があります。

 フレゴンという歴史家の年代記に、こうした記録があります。

「第202回のオリンピアードの第4年目(※これが西暦33年頃:イエス様が亡くなられた年頃)。日食が起こった。それは古今未曾有の大日食であった。昼の正午ごろに星が見えるほどの夜となった。」

 イエス様の十字架には全く触れられていない聖書外の記事です。そこに、この時期の昼間に星が見えるほどの大日食があったという記録があるのです。興味深いですよね。

 さらに、この年代記は、こう続きます。「ビテニヤに起こった地震でニケヤの町の多くの建物が倒壊した。」と。聖書はイエス様の十字架の死の折に地震があったことを記録していますし、その地震のゆえに神殿の幕が上から下まで真二つに裂けたわけです(45節)。 

特に、神殿の幕が真ん中から裂けたことには、「救い」という意味でとても重要な意味があります。この垂れ幕は、神の聖さを直視して人が滅びることのないようにするためのものです。罪ある人間が圧倒的な神の聖さに直接触れることは、滅びることを意味しました。

ですから、神の臨在の間である至聖所の前にはこの仕切りの垂れ幕があったのです。この奥には年にたった一度だけ、大祭司だけが動物のきよめの血をもって入ることが許されました。それは「贖いの日」。民全体の罪の赦しのための大切な日でした。

今までは毎年、不完全な動物の血で、民の罪の赦しの儀式がなされました。不完全ですから毎年行われ続けました。ところが、イエス・キリストこそは、神の子羊、完全なる犠牲です。その血潮はすべての罪の赦しをたった1回のみで成し遂げ、仕切りの垂れ幕を不要なものにしたのです!!キリストにあって、誰でも父なる神の聖なる臨在の前に大胆に近づけるのです。

ヘブル人への手紙ではこれを説き明かしています。10:19-20

ヘブル人への手紙10章19-20節
こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました

ご自分の肉体という垂れ幕を通し、その十字架の血潮のきよめをもって、大胆に神の臨在される聖所(至聖所)への「いのちの道」を開いてくださったのです。
それゆえに、22節の勧めにつながります。
ヘブル人への手紙10章22節
心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか

ヘブル書の他のか所では「大胆に恵みの御座に近づこう」とも促されています。ここにキリストの十字架の犠牲によってもたらされた恵みがあります。いのちの道が開かれたのです。

 救いの中心は、ただ罪が赦されたという事ではありません。罪の赦しは大きなことですが、それはある種の「手段」まさに「道」です。罪のきよめによって神様の御前に親しく出られる者とされたのです。ゴールは父なる神様との交わりです。親子関係の回復、恵みと祝福の回復。本来あるべき神の御腕に抱かれる平安の回復です。神様のふところに飛び込み、しっかりとその御腕に抱かれて歩みたいのです。主は私たちをその御腕に抱き、御翼の影に守ってくださいます。

 

2. 御手にゆだねます


そして、キリストが息を引き取る時に父なる神に語られたことばに目を注ぎましょう。

ルカの福音書23章46節
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた

平安の秘訣が示されています。このお方の御腕に抱かれることこそ、真の平安を得る唯一の道です。

このことばは詩篇31:5を背景にしています。そこではこうあります。
詩篇31篇5節
私の霊をあなたの御手におゆだねします。まことの神、よ。あなたは私を贖い出してくださいます

実はこの後に続く6節後半では「この私は に信頼しています」との告白が続くのです。自分の霊を御手にゆだねるとは、主を信頼する事そのものです

神が良いお方、正しい愛なる方という主への深い信頼が必要なことばです。私のこの霊・この魂をどうされるのか。それは無知な私ではなく、最善をなさる神様、あなたにお任せしますとの信頼しゆだねる告白です。

 かつてユダヤ人たちは、自分の子どもたちにこの告白を教え、怖い時には神様にこのように祈るようにと指導していたようです。子どもたちが夜眠る前には「主よ、私の霊をあなたの御手にゆだねます」とお祈りして眠りにつく。今のように夜、明るくない時代。子どもたちは夜の闇の深さを恐れたことでしょう。しかし、その際に「主よ、私の霊をあなたの御手にゆだねます」と祈り、寝ている間も守ってくださる主に身をゆだねて眠りについたのです。

 十字架の上のイエス様は「死」と言う眠りを前にしても尚安らかでした。イエスは十字架の上にありながら、父親の御腕の中である子どものように安らかに眠りについたのです。

 苦しく困難な最中でも尚、神の御手を信じてゆだねる者の平安です。それは、私たちに示した模範でもあるでしょう。私たちは「自分のいのち」だと握りしめすぎることで、怖くなるのかも知れません。でも、生かすも殺すもあなたのみ旨によることです!主を心からと信じ、ゆだねるならば、主が最善をなしてくださるのだとの平安が与えられます。

 事実、キリストは父なる神のご計画にゆだねた結果、3日目に死からよみがえりました。いのちを与えることも、いのちを終わらせることも神様のなさること

「主は与え、主は取られる」とヨブ記にもあります。

ふさわしい時にふさわしくなさる主です。


3. キリストの証し

 主キリストのこの姿は、大いなる証しともなりました。

ルカの福音書23章47-48節
百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ、「本当にこの方は正しい人であった」と言った。また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、これらの出来事を見て、悲しみのあまり胸をたたきながら帰って行った

百人隊長のことば。彼は確かに十字架上のイエスの姿を見て、感銘を受けたのでした。「この方は本当に正しい方だった」と。

48節で、見に集まった群集もみな、これらの一部始終を見て、非常に悲しみ胸を叩きながら帰って行きました。おそらく人々は本気で悲しみ始めたのでしょう。十字架上のイエス様の最後まで目撃したことで、不思議な日食や地震も含め「ただ事ではない」と分かったでしょう。聖書外資料ではありますが、ペテロの福音書においては、「ユダヤ人や指導者たちの中でも、自分たちがどんなに悪いことをしたかを悟って嘆いたのだ」と解釈されています。この百人隊長を初め、多くの人がその姿に心打たれたという事だったのではないでしょうか。

 かつて看護師をしていた友人が、人の死に際を見る中で、クリスチャンの死に際の落ち着きように驚いたという話をしてくれました。死を前にすると、強そうな男性でさえ夜に一人で泣いている姿があった。でも決して強そうに見えない方が、キリストを信じる信仰によって死の前にも落ち着き払い、平安を持って歩んでいる姿に感銘を受けたと言います。

神学校でお世話になった恩師も、体の筋肉が徐々に衰え、自ら呼吸ができなくなる難病で天に召されました。しかし、死を前にしても動じることなく、坦々と自身の使命を全うされていました。そこには喜びさえあふれていました。かくありたいと思わされます。

しかし、すべてはその人の心の強さではありません。私たちは誰もが弱いはずです。恐れないはずがありません。けれど、私たちが弱い時こそ、主が力強く生きて働いてくださるのです。

私にはこのコロナ下でどうする力もありません。頑張ったところで感染力を弱らせることも、重傷者を助けることも、恐怖から解放して差し上げる力もありません。無力です。

でも、主には力があります。キリストの十字架はいのちへの道です。

それを指し示し、その素晴らしさを深く知っていただくことはできます。どんな人間の気休めのことばにも優る、神の愛の御腕の中に導かれます。人生の最後に至るまで、そしてその先にも・・・ゆだねて平安のうちに主にある復活を信じて進むことができる恵みがあります。

イエス様は死の際まで平安と喜びに満たされていました。それはご自身の霊、魂を父にゆだねていたからです。10000Reasonsという賛美があります。原曲は英語ですが、私と長女で訳した3番の歌詞をご紹介します。 

月日過ぎて この身おとろえ  この世を 去る 時も               わが心は 喜びにあふれ  とわに 主を賛美します

私たちも誰もが必ず衰え世を去ります。でも、その時にも喜びにあふれ、永遠に続く主への賛美に満ちながら 平安に包まれて凱旋したい。コロナイルスで不安なこの時こそ、主の力強く愛に満ちた御腕に抱かれ、ゆだねきって平安のうちに歩ませていただきましょう。

「恐れるな。わたしがあなたの神だから」主は今日も語りかけておられます。




0 件のコメント:

コメントを投稿

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *