東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱテサロニケ1章8-10節「主を知る者となる」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/08/04

Ⅱテサロニケ1章8-10節「主を知る者となる」

*** 8/4(水)祈祷会 説教概略 ***

Ⅱテサロニケ1章8-10節「主を知る者となる」


 お小遣いで初めて購入した音楽CDは、爆風スランプというバンドのCDでした。
 そのアルバムの中に入っていた曲の中に「ハイランダー」という曲がありました。
その中では、アパルトヘイトという人種差別問題や東京の土地の高騰で家が買えない問題などを歌っていました。その歌詞の一部は、中学生だった私にとって非常にインパクトの強いものでした。

「君は、机の上で、君は、何を学んで、君はいつか立派な会社に入る、そして死ぬ」


「いつか立派な会社に入り、そして死ぬ」という歌詞です。
 どんなに立派な会社に入ろうとも、そこでどんなに高い地位を築こうとも、人は皆必ず死を迎える。そういう存在であることを意識して、どう生きるべきなのかを考える必要がある。そんなメッセージだったのでは?と想像します。 

 多くの場合「自分の死」など考えたくありません。ですから死を連想させることばを避けます。特に日本はそういう傾向が強い気がします。「4」という数字を避けることもあるでしょう。

 ところが「考えたくない・・・」と言って考えなければ、それらは回避できるのかと言うと、そうではないですよね?回避できるなら考えるのをやめたらいいのですが・・・そんなことはないですよね。それは現実逃避に過ぎません。

 コロナの問題もニュースを見なければ勝手に改善するというわけでもありません。考えなければ、収束するというわけではないのです。むしろ、向き合って対策をしっかり取り正しい受け止めを学んでいくことが、乗り越えていける道でさえあります。

 今日のみことばは、キリストの再臨の時、世の終わりの時にある神の正しいさばきについて語られています。主を知る者として、それらを正しく受け止めて備えて参りたいのです。現実逃避して向き合わない道も選べますが、それでは何も解決しないでしょう。

それよりも正しく理解し、確かに与えられている救いの道を知り、またその恵みの知らせを、喜びをもって、お伝えして行ける者とならせていただきたいと願います。

 

1. 神のさばきが確かにある

 
 パウロはここで、神を信じない者、キリストの十字架を信じない者には、さばきの結果として「永遠の滅び」があることを語っています。8-9節です。

Ⅱテサロニケ1章8-9節
主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります

 もちろん、人間の願望としては、滅びなどあって欲しくありませんね。しかし、先ほど話したように、願いがどんなに強くても、それが事実であるかは全く別の話です

 滅びなどない、みんな死んだら天国、ハッピーだと思い込んだからと言って、現実にそうならせる力を私たちは持っていないのです。

そして、もし現実にあるのならば、これに対して備える必要があるのではないでしょうか。すべては分からないとしても、しっかりと備えることは良いことですよね。

パウロは信じない者への滅びを聖書が語る以上、それを見ないようにして誤魔化すのではなく、きちんと知って、正しい選択の助けとなるようにと願っていたことでしょう。知らないので選べない。知らないゆえに逃れられないとしたらなんと悲惨でしょうか。

コロナのワクチンに関する情報も正しい情報が欲しいといつも思います。ポジティブな情報ばかりでなく、ネガティブな情報であっても正確な事実ならきちんと教えて欲しいのです。副作用、副反応で若い人で危篤になったり、因果関係が明確ではないにしても、ワクチン接種後に多くの方が既に亡くなっているという現実があります。それなのにTVなどのメディアではほとんど扱いません。

27才のプロ野球の投手がワクチン接種後の練習で突然倒れ、重篤な状況になりました。奥さんもパニックのようです。有名なプロ野球の選手がそうやって倒れたら、これまでだったら放送しているでしょう。有名なお笑い芸人コンビがワクチンの副反応で具合が悪く、ラジオ番組を二人そろって欠席し、お笑いの大会で優勝した有名人が2度目のワクチンで41度もの高熱を出したという情報もあまり扱われません。

それらの正しい情報をきちんと知った上で、受けるのか受けないのかを判断したいのです。受けるならどんな対策や覚悟が必要なのか。受けない場合はどれぐらいのリスクがあるのかも含め、首相や知事レベルの人たちが明確に説明し、説得すればいいことです。

その上で選択させて欲しいと思うのですが、情報を隠した状態で「大丈夫です」のみで受けさせようとする乱暴さが気になってしまいます。

 私たちが伝えるキリストの福音も、一部の情報しか発信しないのならバランスを欠きます。素晴らしい恵み、喜び、嬉しいことも伝えるべきですし、同時に罪とは何なのか、神のさばきとは何なのかも伝える必要があるでしょう。日本でクリスチャンとしての歩む上での大変さも隠さず語ることも必要かも知れません。パウロも「迫害は起こるのだ」ということをあらかじめ伝えていました。

 もちろん、殊更にさばきばかりを強調して、脅すように信じさせることもまた、ワクチンを恐怖心で受けさせるのと似た問題を持ちます。正しく、バランスよく健全に知っていただき、その上で本人が選択できるようにと願うのです。

 そして、先週教えられましたように、悪いことをした人に対して正しい処罰がされなければ、平和も秩序もないということです。無法地帯になれば、結局、力なき者が傷つけられ泣き寝入りします。すべてを知っておられる神様の正しいさばきがあるからこそ正義や平和が存在し得るし、世の終わりにはそれが完全な形で樹立されるのです。


2. 神を信じない罪


 そして8節では、その時には「神を知らない人々」や「主イエスの福音に従わない人々」に罰が与えられると語られています。「神を知らない人々」とは、どういう人々でしょうか。聖書において「知る」ということばは、人格的に交わりにおいてよく知っているということです。
 
 単に聞いたことがあるという浅い知識ではありません。

 聞いたことがあるけど無視していることを知っているとは言わないのです。

知ることは「愛する」とことでもあるとも言えます。愛しているのならば、相手を知ろうとします。関心もなく知ろうともしない相手を「愛している」とは言えませんよね。

私たちを造られ、生かしてくださり、この世界の様々な恩恵を受けられるようにしてくださった神様に向かって、あなたを知らないと言って、無視して生きることは非常に罪深いことです。それは生み育ててくれた親への感謝を忘れる生き方に似ています。

また「主イエスの福音に従わない人々」とは、どんな人でしょうか?それはイエス様の十字架にある犠牲、そこにある愛を無視する人です。イエス様がご自分のいのちをかけて救おうとしてくださったのに、あなたが勝手に死んだのでしょう?私には無関係、頼んでないです!と。

 三浦綾子さんの小説「塩狩峠」は、実際にあった話をもとにした作品です。ある鉄道員が、自分の命を犠牲にして乗客の命を救ったのです。旭川から札幌へ向かう汽車がありました。雪が大変深い2月。この列車が塩狩峠にさしかかった時、事件は起こりました。突然、最後部の車両が、前の車両から離れ峠を下り初めてしまったのです。どんどん勢いを増していく車両。ハンドブレーキも効かず、やがて急カーブに向かっていきました。このままでは、確実に列車は脱線。多くの死傷者が出る。そんなとき、まだ若く、しかも愛する人との結婚を控えていたこの男性は、その身を自ら投げ出し自分の体をブレーキにして列車を止めたのです。自分の命と引き換えに、乗客の命を救ったのです。

  もし、この青年に対して、「自分たちは助けて欲しいなんて頼んでいない、勝手に死んだのだから、私は知らない」と言うならば、愛も感謝の心もない罪深い態度ではないでしょうか。

 キリストも、例えるならば、罪人が乗った滅びに向かう列車を止めるために、自らの命をささげて下さいました。そして、天国へと向かう永遠鉄道に私たちを乗り換えさせて下さろうしたのだと言えるでしょう。 

 このような神様の愛の犠牲があるにも関わらず、それを無視して受け入れないこと自体が、愛のない礼儀を欠いた罪であると言えます。


3. 神を知る者となり、再臨を待ち望もう

 
 そしてこうした罪、悔い改めなき罪が行きつく結果何でしょうか?

9節で「滅び」ということが語られていました。その意味は9節後半にあるように、神様の前から永遠に退けられることです。それは神様との交わりが永遠に失われることです。神との交わりの断絶です。神を知らないと言う者を、神も知らないと言われるということです。

 しかし、反対に神を知る者、キリストを受け入れる者への報いは10節で語られています。


Ⅱテサロニケ1章10節
その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです

 終わりの時に、救いの完成の時に、信じる者はすべての慰めを受けます。
 これまでの労苦が報われ、あらゆる痛みから解放され、目の涙をすっかりぬぐい取っていただけるのです。

 ゆえに、信じて待ち望んできた者たちは、キリストの再臨を見て喜び迎えます。主イエスをあがめ、ほめたたえるのです。感嘆の的になるのです。

そして、テサロニケの兄姉たちもその中に加えられているとパウロは言っています。あなたがたも、私たちがなしたキリストについての証しを信じたのですから!あなたがたも一緒にキリストの再臨を喜びたたえることになるでしょうと励ましているのです。

特に彼らの愛のわざ、福音のために迫害されたり、否定されたりして苦しんでいることは、すべて主に覚えられているのです。どんなに小さな愛のわざであっても神様は見逃したりはしません。

キリストの再臨によって公正に報いられるのです。

「よくやった忠実な良いしもべだ」との主のことばをいただけるのです。

 私たちは主を知る者となりましょう。主を愛する者となりましょう。主の十字架のみわざを自分自身のこととして受け止め、イエス様について参りたいのです。

 私たちを造られた方を無視しないで。私たちのためにいのちをささげ、ずっと待っててくださっている主を無視しないで。その差し伸べられた手をしっかりと握り返し、ついて参りましょう。




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