ルカの福音書23章50-56節「勇気を出して」
1. 信仰を隠していたヨセフ
イエス様が十字架の上で息を引き取られた時、ひとりの人物が神様のご計画の中で備えられていました。ユダヤ人の町アリマタヤ出身のヨセフという人物でした。彼はサンヘドリンと呼ばれるユダヤ人の最高議会の議員の一人でした。高い地位の人だったと言えるでしょう。同時に彼は「善良で正しい人」であったともルカによって語られています。
そしてまた、彼は議員でありながら「イエス様の弟子」でありました。51節にあるように彼は「神の国を待ち望んでいた」のです。また、ヨハネの福音書においては、彼はイエス様の弟子であったとハッキリと語られています。ですから、彼は他の議員や権力者たちがイエス様を陥れる計画をした時にも、51節にあるように同意しなかったわけです。彼なりの信仰を現わしていたと言えるでしょう。しかし、一方で「同意していなかった」という表現が気になりますね。
それは、賛成はしないが強く反対することもなかったということでしょう。主の弟子として決して賛成できないし協力もできない。でも、一方で周囲の空気や圧力を考えると、あるいは立場的に強く反対もできなかったのでしょう。ヨハネの福音書では、実はこうも語られているのです。彼は「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していた」と。イエス様の弟子であることを隠していたというのです。
皆さんは、これらを聞いてどう思われるでしょうか。正義感が強い人、熱い信仰をお持ちの方は、「情けない!生ぬるい信仰だ!」と思われるかも知れません。また、ある神学者は「彼の姿は悲劇である」と言います。なぜなら、主が生きておられる間に信仰を現わして行動することができなかったからだと。本来はその人が生きている間にこそ、愛を伝え、感謝を伝え、その人のために何かをすべきだからだと。なるほど・・・確かにそれもそうだと思います。イエス様が息を引き取る前に、彼がもっと勇気をもって行動すれば良かった・・・それもそうだと思うのです。
一方で、彼の姿は、私たちがよく経験している現実なのではないかと思う時、一方的に責めることはできないと思うのです。私たちはこうした葛藤をよく通っているのではないでしょうか。私も社会人時代に、職員の皆さんが神棚に向かって手を合わせているのを横目で見ながら、自分は一緒にやらないけれど、強く反対して「やめましょう」とも言えない。そんな葛藤を覚えたことを思い出します。悔しい思いがします。もっと勇気があればとも思いました。一方で、正面から批判したとして、それは正しいのでしょうか?人は素直に聞いてくれるのでしょうか?。まして、力のない者、経験の浅い者、十分に信頼されていない者が何を言っても説得力がないということもあります。
確かにどんな場面でも、がむしゃらに信仰を現わし、聖書の主張を訴えるまっすぐさも大切です。しかし、謙虚に身を低くして仕え、じっくりと信頼を勝ち得ていき、ここぞという時に愛をもって証しをしていく信仰のあり方も必要ではないでしょうか。
もちろん、それは決して人間的な小細工であるべきではなく、祈りながら時を待つ姿勢です。
もし、このヨセフがユダヤ人議員という立場にも関わらず、キリストの弟子であることをバンバン語り、他の議員やユダヤ人たちから猛反発を受けていたらどうでしょう。彼は今頃その地位にはなく、議員だからこそできた働きを失うことにもなったでしょう。
その意味では、彼の臆病さのゆえに、イエス様の十字架刑の時まで有力な議員であり続けられたとも言えます。
2.勇気を出して踏み出したヨセフ
かつてダメだったからずっとダメなのではありません。臆病だから用いられないのでもありません。マルコは彼が「有力な議員」であったことも付け加えています。ヨセフが信仰を持ちながらも、賢く高い地位を維持していた。それがゆえに、ピラトに対しても力を発揮でき、イエス様の埋葬の許可をもらうことができました。おかげで共同墓地に埋葬されずに済みました。
弱い者なりの精一杯を主は用いてくださったと言えるでしょう。
続く54-55節をご覧ください。
こうして自分の信仰をそこまで公にできないながらも、陰ながら応援し、必要な時には協力してくれた人々がいたと言えます。特にニコデモは、どれぐらい信仰があったのか分かりません。けれども、埋葬の手伝いを一生懸命してくれたことは確かです。
また、54節にありますように、安息日の直前で時間がありませんでした。当時のユダヤ人の社会では夕方の6時から、新しい日がスタートします。つまり、イエス様が十字架につけられたのが金曜日ですが、その日の夕方6時にはもう安息日が始まるのです。安息日には労働をしてはらないという律法がありましたね。3時にイエス様が亡くなられ、それから3時間後にはもう安息日になる。つまり、わずか3時間足らずの間に埋葬しなければならなかったのです。遠くに移動している暇はありません。
そう考えると、アリマタヤのヨセフの存在は、ますます神様のご計画だったと教えられるのです。ヨセフは十字架刑が行われた場所の極めて近くの園に、自分の新しい墓を持っていたのです。彼はその墓を喜んで主のために提供し、葬ることができました。限られた時間でしたが、遺体を移動する時間がかからないために可能だったことです。すべてをご存知の神様が彼を豊かに用いたのです。
「弱さ」は私たちにとって単なる欠点ではありません。「弱さ」さえも主は用いられるのです。私たちの歪みや弱さ、欠けさえも神様は豊かに用いることができると信じることもまた、立派な信仰ではないでしょうか。「自分は信仰が弱いからダメだ」と思う人は少なくありません。「メンタルが弱いから用いられない」と思う人も多くいるでしょう。
けれど、それは悲観すべきことなのかと言うと、神を知るならば決してそうではないのだと教えられるのです。むしろ、自分の弱さを知る人こそ、神様の力を必要とできるわけです。かえって用いられるとも言えるでしょう。
現に、自分の信仰を言い表せなかったヨセフが、このとても目立つタイミングでイエス様のために率先して埋葬をしたのです。しかも自分のお墓を提供してまで。弱かった彼だからこそ、この行動はすごい証しになったと思うのですよね。
確かに、もっと早くからもっと熱心に!恐れず大胆に!とも思いますよね。けれど、それができなかったという挫折の経験もまた無駄ではないのです。その過去があるから今があるのです。失敗した、弱いばかりだったと後悔するその過去さえも、今の私たちに必要な過去としてくださる神様です。
ヨセフも過去の自分を叱責したかもしれません。でも、だからこそイエス様の葬りの時には、彼は奮い立って、勇気を出して立ち上がり、他の弟子では出来ないことをしたのです。
私たちもここから教えられ、励ましをいただきましょう!あなたにもできる何かがあります。