東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: コロサイ1章13-23節 「救い~神のふところへ~」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/09/13

コロサイ1章13-23節 「救い~神のふところへ~」

*** 9/12(日)主日礼拝 説教概略 ***

 コロサイ113-23節 「救い~神のふところへ~」


 ある信徒とお話していたおり、「私は何をやってもあまり長続きしないのですが、考えてみればキリスト信仰だけはずっと続けられている。神様の恵みですね。」とおっしゃられ、とても励まされました。この方は謙遜で言われたのだと思いますが、私自身を振り返ると自分こそあまり長続きしない者だと気づきます。それなのに、かれこれ30年近くイエス様を信じる道を続けられている。他にこんなに長く続いたものはないと思わされ、救いの恵みがいかに力がありすばらしいものかと改めて思わされます。


 聖書が語る「救い」の教理は、歴史上必ずしも正しく保たれたわけではありません。特に中世ヨーロッパでは、人の救いの条件を人間の行いや儀式にすりかえ、信仰の堕落を招いた歴史があります。代表的なもののひとつは「免罪符」ですね。「大金を出してお札を買うと天国に行けますよ」といった教え。教会が教皇庁、国の資金集めに利用されました。しかし、福音自由教会の先輩たちは、そのような国家権力の支配や形式的なものから、信仰が自由にならなければ、生きた信仰はありえないと主張し戦って来たのです。そのような歴史的な経緯も踏まえつつ、聖書によって啓示されている救いについて教えられたいと思います。

 聖書が語る「救い」とは何でしょうか。13-14節をご覧ください。
コロサイ1章13-14節
13 御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
14 この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

 神の御子キリストが、暗闇の支配にいた私たちを、ご自身が治める神の国へと救い出しくださったのです。暗闇から光へ。孤独やむなしさから愛へ。罪と滅びから神とのいのちの交わりへと導かれます。
 
 ただし、神の救いのご計画は、人の救いだけに留まらず、最終的には世界全体、神様が造られた被造物全体の回復も広い意味では含んでいるのです。今日のみことばにおいても「万物」ということばが繰り返し登場していますね。19-20に目を留めると、「御子によって万物を和解させること」を神様が願っておられることが語られています。救いには、この世界にあるすべてが本来あるべきかたちを回復していくという面があるのです。イザヤ書65章では「狼と子羊がともに草を食べ、ライオンも牛のように草を食べる」とあります。弱肉強食が終わり、真の意味であらゆる生物の共生が実現していくのです。そんな希望に満ちた「世界全体の救い」が備えられているのです。

 では、この救いの根拠、土台はどこにあると聖書は語るのでしょうか。

 多くの宗教は修行を積むことや良い行いをすることで救いを得るよう教えます。あるいは多くの信者を獲得することや、多くの財をささげることを救いの条件に含めていきます。しかし、それで人は本当に救われるのでしょうか。例えば、仏教では自分の罪深い欲を「煩悩」と表現し、それを打ち払うために修行をし、悟りを開くという発想を持っています。

けれども、本当にそれが人間に可能なのかという大きな課題があります。できた人はいるのでしょうか?罪を一つも犯さない人間などいないという点からすると、これは難しいでしょう。それどころか、努力すればするほど、かえって自分の力ではどうやっても罪深い思いから脱することはできないと知るのではないでしょうか。 

聖書はむしろ、自分では罪の問題をどうにもできないと認めることが救いの道の始まりだと語るのです。 ガラテヤ書では、聖書の様々な戒めの律法は、私たちを「キリストに導く養育係となった」と語っています。その意味は何でしょう。聖書の律法を知ることで、神の聖さと自らの罪深さを知り、誰一人自分の努力で神の前に聖く正しいとされる者はいないと教えられるのです。それゆえに、神の子キリストに頼るのみだと明らかになったということです。

 14節では、御子にあって私たちは贖われ、罪の赦しを受けるのだとあります。御子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちは罪赦され救いにあずかるのだということです。「贖い」とは買い戻すという意味です。神様のもとに、御子のいのちという代価を払って買い戻されたのです。神様は私たちを愛するゆえに、ご自分の愛する御子を、私たちの代わりに十字架上でさばかれました。

 私たちに代わって死なれ、そこで流された多くの血潮が私たちのための救いの契約(約束)のしるしとなりました。しかし、死んで終わりならただの人とされますが、滅びの力である死をも打ち破り、よみがえられたことによって、永遠のいのちを与える救いを証明なさったのです。

コロサイ1章21-22節
21 あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、
22 今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。

ここにありますように、私自身を振り返っても、かつては神を知らず、自分の思うままに生きていました。悪い行いの中に歩んできたのです。それゆえに神様をどれだけ悲しませたことでしょうか。それにも関わらず、一方的に犠牲を払ってくださったのは神様の側でした。
本来は、人間の側で神に背き神を捨てたのですから、人こそがその報いを受け犠牲を払うべきです。ところが、罪深い人間にはそれさえも正しくできないゆえに、神様の方で犠牲を払って和解の道を備えてくださったのです。しかも、代わりのきかない御子イエス・キリストのいのちの犠牲です。それは神の御前に罪赦された者として立たせていただくためです!罪が除かれ、神様と交わりを回復させていただき和解させられました。大胆に神様のふところへ飛び込める者とされました。

私たちの行いによって自力で罪を滅ぼしたのではありません。私たちを罪の支配から解放し、永遠のいのちを与える救いの土台は、イエス・キリストの十字架なのです。十字架におけるキリストの血潮と復活こそが、救いの基盤なのです。

 では、私たちがこの救いを自分のものとするために必要なことは何でしょうか。

神様からの賜物であるキリストの十字架、その死と復活を信じて、イエス様を救い主として心にお迎えすることです。23節を御覧ください。 

コロサイ1章23節
ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。

教会の礼拝を守り、式に参加する、十戒を守るといった行為によって救われるのではありません。キリストを信じる者はすべて、誰であっても救いを受けることができます。信じる者を、聖霊が新しく生まれさせてくださり、神の子とされるのです。

本日、応答の賛美で「人生の海の嵐に」という聖歌が歌われます。人生の海の嵐にもまれて歩んで来たこの身だが、不思議な神様の御手によっていのちを拾われましたと歌われます。私たちの日々の歩みは本当に嵐の連続だと思います。色々な事があります。それぞれの学校、職場で吹き荒れる嵐。家族の様々な問題、人間関係の嵐。病やケガとの戦いの嵐。そしてコロナウイルスというパンデミックの嵐が続き、言いようもない疲れが私たちを覆っています。コロナウイルスがなければ、起こらなかったであろう争い、対立もあります。感染した人はもちろん、その家族、関係者皆がダメージを受けます。感染していない全員が被災者なのです。皆に迷惑をかけてしまうのではないかという罪責感。そして、絶えず経済的な心配。この先仕事は大丈夫なのかという不安がどんよりとした黒雲のように心を覆います。まるで先が見えない将来、希望を見いだせない未来。

 でも、嵐はどこまでも続きません。主を信じる者はその嵐の海を乗り越え、安らぎに満ちた救いの港に到着するのです。この歌の繰り返しの部分。

いと静けき港につき 我は今安ろう 救い主イェスの手にある身はいとも安し

 海の嵐を通り過ぎ、キリストにある救いの港に到着した。そこは本当に平安に満ちた静かな港で、今私はキリストの御手にあって本当の安らぎを得ているという証しです。
 
 私たちは賜物と言うと、「神様からどんな能力や才能を授かっているか?」「何ができるか?」と考えがちです。でも、神様からいただいている最高の賜物はイエス様ご自身だということを忘れてはなりません。主キリストにある救いをいただいていること自体が、最高の賜物をいただいているということです。
 この恵みのうちに、平安をいただいて歩めることはなんと幸いでしょうか。



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