東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカの福音書24章1-12節「今も生きておられる主」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/09/27

ルカの福音書24章1-12節「今も生きておられる主」

*** 9/26(日)主日礼拝 説教概略 ***

ルカの福音書24章1-12節「今も生きておられる主」

 新約聖書が書かれた時代、男尊女卑の考え方がまだ非常に強かった時代です。
 けれども、イエス様はかなり大胆な価値観を示されました。イエス様は女性たちを尊び、彼女たちの弱さに寄り添い、同時に彼女たちの賜物を生かされました。イエス様の十字架の死と復活については、実に使徒たち以上に、女性たちがイエス様の身近で仕え、一番の目撃者となっていたことがわかります。

 男性と女性の役割の違いを発見するとともに、男性社会だった世界に対して、主が女性の賜物をしっかりと生かすことで、本来あるべき男女の助け合う姿が現されていきます

 それとともに福音が広がっていくことは興味深いことです。
 死からよみがえられ、今も生きておられる主に目を注ぐ時、男性も女性も差別なく、年齢や国籍の違いもなく、富む者か貧しい者かも関係なく、そのいのちの力に生かされていきます。この希望の基を教えられていきましょう。

 最初に「出来事のあらまし」、次に「用いられた女性たちの姿」、「みことばに帰る大切さ」を教えられ、今も生きておられる主を信じて参りましょう。

 

1. 出来事のあらまし


ルカの福音書24章1-3節
1節 週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。2節 見ると、石が墓からわきに転がされていた。
3節 そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。

  週の初めの日、すなわち日曜日。その明け方早くから女性たちが遺体のために用意した香料を持って、墓に来ました。ところが、墓を塞いでいるはずの大きな石がわきに転がされていました
 
 参考資料として、写真をお見せしますが、これは19世紀に発見されたもので、イエス様が埋葬された墓ではないかと考えられる有力なものです。十字架刑が行われたカルバリから近いところで発見された墓で、観光客も多く訪れます。


 よく見ると、下の方に溝があり、その溝に沿って大きな岩が開け閉めされたと考えられています。2枚目の写真を見ると、よくわかると思います。

こんな風に円盤状の石を転がして封をするという習慣がありました。石はおそらく、「何トン」という単位の重さです。女性たちだけでは動かすことは難しかったでしょう。

 ところが女性たちが着いた時には、脇に転がされすぐに入ることができる状態でした。
なんて準備がいいこと!と思ったかも知れません。

早速女性たちは墓の中に入ったのですが、墓はもぬけの殻でした。主イエス様の遺体がありません。それで女性たちは動揺し、途方に暮れてしまいます。すると、4節にありますように、まばゆいばかりの衣を着た二人の天使が、女性たちに近づいて来て言いました。5-7節のところです。

ルカの福音書24章5-7節
5節 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。6節 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。7節 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」

天使らは彼女たちに主の復活を明言し、そしてイエス様が言われていたみことばの約束を思い出すように促しました。彼女たちは墓の中を自分の目で確認しました。安置されたはずのイエス様のからだがありません!確かに、数日前アリマタヤのヨセフらと一緒にここに安置したのです。

 墓石はかなり大きく重い。さらには、ローマの精鋭部隊が派遣され、守っていました。しかし、女性たちが確認しやすいように、神様は万全に備えておられたのです。普通には手出し出来ないでしょう。ところが、大きな石は大きな地震にて動かされ、精鋭部隊は光輝く天使を前に震えあがって死人のように茫然自失の状態であったことがマタイの福音書にあります。

女性たちはそんなタイミングで墓に着いたのです。

 

2. 用いられた女性たち


ここで、第一に注目したいことは、神様は使徒ではなく、それ以外の女性たちを復活の最初の目撃者として選ばれたということです。

実はよく考えてみると、十字架の死の場面も弟子たちよりも、マグダラのマリアなどの女性たちが近くにいました。埋葬の時にもアリマタヤのヨセフという議員と女性たちとで葬りました。そして、この復活の朝も女性たちなのです。実に十字架の死と復活の一部始終を最も近くで目撃したのが女性たちでした。

しかも、10節にあるように複数の女性たちがこの時一緒でした。男性たちより先に、女性たちがこの出来事と出会い、イエス様の復活を広めていくのです。 

ある意味、女性ならではの豊かさが生かされているように思います。おそらく彼女たちの口を通して、口伝えにどんどん多くの人にこの知らせが広がったでしょう。講壇からではなく、まさに女性特有の井戸端会議、口コミです。

実に宣教を考える時、教会の講壇から語られる説教での伝道も大事ですが、日常生活の中での小さな交わりでの口コミ、おしゃべりでの宣教はとても大切なのです。井戸端会議は実に宣教に向いている方法だと言えるかも知れません。近所での立ち話、電話でのおしゃべり。これらは男性にはあまり向いていません。

どうしても仕事で忙しいという傾向、さらに女性は一般的に男性の倍は話すとの統計があります。一日に話す言葉の数がちょうど男性の二倍と言われます。まさに日常会話伝道は女性の賜物が生きる場なのです。

こうした女性たちのおしゃべりで広がる情報とペテロの講壇からのメッセージと、その相乗効果で人がキリストの十字架の死と復活が伝えられ、人々が救われて行ったのです。女性の皆さん、ますますおしゃべりを磨いてください(笑)。そしてみことばが、おしゃべりの中で自然に話され、その恵みが広がりますように!

 

3. 必ずみことばに帰ろう!

 
 第二に注目したいことは、「必ずみことばに帰ろう!」ということです。天使たちは言いました。6節で主がお話しになったことを思い出しなさい。」と。そうです。イエス様は既に、十字架の死と復活のことは、弟子たちに話しておられたのです。8節でこうあります。

ルカの福音書24章8節
彼女たちはイエスのことばを思い出した。

 この短い1節、ぜひ心に留めてください。とても大事な1節です。彼女たちは、既に聞いていたわけです。同じルカの福音書9章22節でもイエス様の十字架の死と復活は宣言されていました。ですから「初耳だ、驚いた!」ということではなく、語られ聞いていたことなのです。

ところが、忘れていたのです。この時になっても思い出せず戸惑っていたのです。信じ切れていなかったからでしょうか。聞いても聞き流していたのでしょうか。必死に墓に遺体がない!と死人の中にイエス様を見出そうとしたのです。

生きておられる主を、死人の中で捜す、遺体を必死に捜すという的外れな歩みをしてしまった。みことばを覚えて意識していれば、おお!その通りになった!ハレルヤ!と言えたかも知れない。既に死人をよみがえらせるという奇跡をイエス様はなさっていたわけですから!しかも、9節以下を読むと、この女性たちが報告をしても、最初、ほとんどの弟子は信じなかったのです。11節では「たわごと」のように思えたので、信じなかったとあります。

 ところが、別のある人たちは天使が石を転がす前から、イエス様のおことばを思い出して、動き始めていたのです!誰だと思いますか??なんと、イエス様を十字架にかけた側のユダヤ人指導者たちです!!皮肉にもイエス様を救い主だと信じていない、殺した側の人たちがこの三日目の復活のことを気にしていたのです(弟子たちよりもずっと!)。
マタイ27章62-64節をお開き下さい。

マタイの福音書27章62-64節
62節 明くる日、すなわち、備え日の翌日、祭司長たちとパリサイ人たちはピラトのところに集まって、
63節 こう言った。「閣下。人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました
64節 ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の惑わしよりもひどいものになります。」

 63節です。イエス様を十字架につけた側の人たちが、なんと「わたしは三日後によみがえる」とイエス様のことばを思い出し、心配しています
 
 彼らは弟子が遺体を盗み出し、よみがえったと言いふらすかも知れないと。いや、もしかしたら、彼らも心のどこかで「何か不思議なことが起こるのではないか」とさえ、思っていたのかも知れません。

 だからこそ、彼らはピラトにお願いして、ローマの精鋭部隊を墓の番人として依頼したのです。

 ちょっとこれは、イエス様の弟子としては悔しいですよね。信じない者たちの方が、イエス様のことばを思い出し、対応しようとしていたのに、自分たちは主の大切なおことばを思い出せてさえいない。女性たちの報告を聞いてさえ、たわごと!と思い本気で受け止められなかったのですから。 

 この皮肉を見る時に、私たちも問われるような気がします。クリスチャンより一部のノンクリスチャンの方が聖書をよく読み、詳しく記憶しているということがあります。熱心に探究し、疑問を持ち、クリスチャンに質問するのですが、クリスチャンたちが質問に答えるどころか、「そんな個所あったんだ?」ということさえあるでしょう。

 私たちも、いざ大切な時にこそ、動揺し見失うのではなく、主のおことばを思い出したいのです。必ずみことばに帰ろう!ということです。これを合言葉にしたいのです。

 パニックになった時、恐れに支配されそうな時、苦しく辛い時に・・・「みことばに帰ろう!」との合言葉を思い出しましょう。

そして、私たちはイエス・キリストが今も生きて働いておられることをしっかりと信じて参りましょう。天使は「生きておられる方を、なぜ死人の中に捜すのか」と問いかけました。死んだままならば何の力もないただの人、過去の人になってしまうでしょう。

しかし、主は復活されたので、今も生きておられ、とこしえに死のない方です。主はいのちの主です。無理だ、できない、ダメだとあきらめる信仰は、主を死人の中に探しているようなものではないでしょうか。死をも打ち破られた、すべての悪を滅ぼされる全能の主は、生きておられるまことの神でいらっしゃいます。

このお方と「生きた交わり」をもって、歩んで参りましょう。
主は生きておられるのですから、いつも親しく語り合う親しさを持って歩みましょう。


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