東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱテサロニケ3章14-18節「主との交わりにある平安へ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

2021/09/29

Ⅱテサロニケ3章14-18節「主との交わりにある平安へ」

 *** 9/29(水)祈祷会 説教概略 ***

Ⅱテサロニケ3章14-18節「主との交わりにある平安へ」

 いよいよ2つのテサロニケ人への手紙の終わりとなりました。続けて学んできますと、少しばかり離れがたい気持ちにもなるのは不思議です。

 さて、今日のみことばでは、手紙に記された「主のみこころ(主のみおしえ)」を大事にすること、主とともにある平安を持つことについて語られています。
 どんな時にも平和な心で、平安をいただいて歩みたいと私たちは思います。
 聖書にはその道が明確に語られているのです。結局、最後は、主とともにあることこそ、平安を与えられる道です。ご一緒に教えられましょう。


1. 神に従わない者との関わり方

 14-15節です。

Ⅱテサロニケ3章14節
もし、この手紙に書いた私たちのことばに従わない者がいれば、そのような人には注意を払い、交際しないようにしなさい。その人が恥じ入るようになるためです。

この手紙の権威を貶め、ここにある教えに堂々と従わない者があるならば、そのような人には注意を払うようにと語られます。人は良くも悪くも影響を受けやすい存在です。ですから、そのような人とは「交際しないようにしなさい」とまで語られます。

ただし、文脈を無視して「交際しないように」との部分ばかりを強調すると、まさに異端が生まれます。みことばに従わない人とは「一切交際しない」となれば、かなり極端な排他主義になってしまいます。

そもそも「交際」と訳されていることばは、英語では「Mix」で「混ぜ合わせる」という意味が本来のものです。そこから、「密接に親しく交わる」という意図が生まれています。ですから、一切交際しないようにと言っているのではなく、悪い影響を受けてしまうような親密な交流を避けよということです。その価値観に交じり合わないよう、適切な距離(これこそソーシャルディスタンス)を保つということ。

現代でも異端的な集会や大会に誘われるということがあります。
やはりそういうものには注意して、距離を置くことが賢い対応です。なぜなら、その人の立ち位置が主のおられるところから、遠いからです。神様から遠いところに立っている人が、「こっちにいいものがあるよ!」と言って、どれどれ?とそこに向かうなら、どうなるでしょうか。あなた自身も神様から遠ざかってしまいますよね。それは避け、むしろ神様の近くにいらっしゃる方の招きの声に耳を傾けましょう。

 ここでは、距離を置く理由や動機も明確に語られています。

 理由は、その人が「恥じ入るようになるため」と語られています。

 みおしえに従わないで、それて行く身勝手な姿勢。そのような神様に対する反抗的な態度を後になって恥じ入るようになるため。つまり、間違いに気づき、悔い改めに導かれるために明確な態度を取って差し上げるということです。

 その偽りのことばに耳を傾けることをせず、それには従わない」という毅然とした態度が必要です。そうやって、むしろあなたが「ここが主の場所ですよ!」と主の近くに留まるなら、その人は、後になって気づき、恥じ入り戻って来ることも起こります。

15節には、正しい動機でそれをするようにも語られています。

Ⅱテサロニケ3章15節
しかし、敵とは見なさないで、兄弟として諭しなさい。
 
 毅然とした対応さえ、愛のうちになすべきだということです。

 決して、その人を敵と見なしてはいけません。

 それどころか、かえって兄弟として愛をもって諭して差し上げるのだということです。諭すというのは、上から目線で教えるのではなく、丁寧に根拠をもって、相手がわかるように説き明かすことです。その努力もせずに、交流をしない!というのは違いますね。

 ですから、もう一度確認すると、みことばから離れて過ちに陥り、他の人に対して良くない影響を与えてこようとしてくる人には、その価値観に交じり合わないよう、適切な距離で付き合うということ。決して一切交際しないという話ではなく、敵ではなく兄弟として受けとめ、この人が正しい教えに戻れるように諭していくのです。

 目的は、この人が自分の罪深い姿を恥じて、悔い改め、主の教えに立ち返っていくためであるということです。その時、兄弟を得たという喜びをいただけるでしょう。

 

2. 主にある平安
 

Ⅱテサロニケ3章16節
どうか、平和の主ご自身が、どんな時にも、どんな場合にも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてとともにいてくださいますように。

「どんな時にも、どんな場合にも、主が平和を与えてくださるように」

これは、今私たちも心に留めるべきことばです。コロナウイルスの課題は、しばしば私たちから平安、平和を奪う危険のある試練となり得ました。心が疲れて、うつになります。交わりができず孤独になります。

まさに、「どんな時にも、どんな場合にも」とのことばが重みをもちます。

 注目すべきは、主が平和を与えてくださることと、主があなたがたすべてとともにいてくださるようにということが、関連づけられているということです。

 では、どんな時にも平和を持っていられるためには、どうしたらいいのでしょうか?

「主が決して見捨てず、見放さずともにいてくださる」という確信です。

 この確信のもとで、主にある平安があるのです。平和とは、原語ではエイレーネということばですが、いわゆるヘブル語の「シャローム(平安、平和)」のギリシャ語訳とされることばです。

 そして、主との親しい交わりの中にこそシャロームがあります。シャロームは神様との良い交わりにおける最高に幸せな満ち足りた状態です。ですから、ユダヤ人たちは、挨拶のことばにさえ「シャローム」を使い、相手の主にある幸いを願うのです。

 ただ、この主が決して見捨てず、見放さないという確信は、案外何度も教えられているのに、心に留まっておらず不安を抱くクリスチャンが少なくありません自分の子どもたちを見ていても感じたものです。小さな頃から教会に来ていて、イエス様を信じているつもり。でも、イエス様を忘れて過ごしていることも多いし、イエス様に喜ばれない一日を過ごすこともある。そこで、彼らは不安になるのです。自分は信じ切れていないのでは?忘れている時は、自分は救われていないのでは?と・・・

 しかし、そうではないということを聖書から改めて確認し、一緒にみことばを学ぶ時、彼らも大きく変化し成長していきました。私たち夫婦も何度も伝えているから分かっているだろうと思い込んでいたのです。

 でも、改めて、イエス様をたった一度心のお迎えすれば、主イエス様は私たちを捨てることが決してない!いつもともにいてくださる。だから大丈夫だということ、これを伝える時に、「ああ、そうだったんだ」と新しい発見をしたかのように分かる瞬間があるのです。

 毎日、「ともにいてください」と必死に懇願する必要さえない。

 むしろ、祈るべきは、「今日も片時も離れず、ともにいてくださってありがとうございます!」との感謝の祈りです。確信して、感謝して、安心しての祈りです。

 主が私たちを決して見捨てず、見放さないという「堅い約束」の上に与えられる平安なのです。私たちが不忠実でも、主は忠実でいらっしゃるということです。主がどんな時でも味方でいてくださり、離れずともにおられるゆえに、平和な心、平安でいられるのです。

人は、神様の御顔を避けてしまった時、平安を失いました。交わりを失ったからです。しかし、キリストの十字架によってもう一度主の御顔を慕い求められるようにされ、交わりが回復したゆえに、平安を与えられたのです。

パウロはこの平安に満ちた、神様との親しい交わりの継続状態が、いつもテサロニケの兄姉の上にあるように、そう願い挨拶を送っているのです。 

 最後に彼は、これが正真正銘パウロの手紙であるということを伝えようと努力しています。以前にも少し話しましたが、ニセのパウロの手紙が出回っていたのでしょう。

17 私パウロが自分の手であいさつを記します。これは、私のどの手紙にもあるしるしです。このように私は書くのです。

18 私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。




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