*** 10/3(日)主日礼拝 説教概略 ***
使徒2章38-41節「洗礼とは」
今日ご一緒に教えられる「洗礼式」、それは結婚生活に例えるなら、結婚式にあたるでしょうか。イエス様とこれから一緒に歩んで行きます!との信仰決心を、多くの証人の前で公に示すのが洗礼式です。
そして、「聖餐式」は結婚生活で言えば結婚記念日にあたるでしょうか。イエス様と結び合わされた恵みを定期的に覚えて感謝し、気持ちを新たにします。
ただ、結婚式をし、結婚記念日を祝ってさえいれば夫婦仲が良いのかと問われるならば、必ずしもそうではありませんね。心が通じ合っていない場合もあります。
ですから、毎日の歩みの中でお互いを大切にし、愛し続ける必要があるでしょう。信仰生活も同様に、洗礼式と聖餐式を受けてさえいれば、その人の信仰はイキイキとしているかと言うと、必ずしもそうではありません。
時に、そのような儀式に依存しすぎる課題もあるでしょう。ユダヤ人たちが割礼というものに固執してしまったことは、大きな課題となりました。しかし、間違えてはいけません。
洗礼や聖餐のために人が存在するのではないのです。洗礼も聖餐も人のためにあるのです。私たちの信仰が明確なものとされ、強められ豊かに保たれるために神様が洗礼と聖餐の恵みを与えてくださったのです。
ですから、私たちは洗礼と聖餐を心から重んじ大切にしますが、これをくださった主ご自身にしっかりと目を注ぐことがより大切です。それを支えてくれる礼典なのですから。これらを重んじるからこそ、これらの礼典を与えられた神様ご自身の思いをしっかり受け止めたいのです。本日はご一緒に神様のお与えくださった「洗礼とは」何か、そこにある「主のみこころ」を教えられて参ります。
1. 洗礼とは? 救いのしるし、救いの条件ではない
洗礼とは、イエス・キリストを信じた者が、その信じていることの「目に見える証し」として、神と多くの証人たちの前で受けるものであります。今日のみことばで2回ほど出てきていますが、原語では「バプテスマ」ということばです。その意味は「浸す」という意味です。その意味と聖書では川などで洗礼を施していることからも、原則として水に全身を浸す「浸礼」というものを私たちは行っています。
この教会でも今年6月に洗礼式を行ない3名の兄姉が受洗しましたね。それは救いを公にみんなで祝う喜びの式でもあり、これからの信仰生活の出発の節目であり、励ましの時でもあります。
ただし、誤解してはならないのは、洗礼式という儀式そのものが、人を救うのではないということです。あの水自体がきよめの水で、罪を洗い流してくれる「ありがたい水」といったものではないのです。
つまり洗礼式そのものが救いの条件ではないのです。
ですから、私たち福音自由教会では、洗礼の形式に必要以上に固執せず、病床や事情があれば滴礼という形式も用いますし、幼児洗礼の方に必ずしも洗礼を受け直さなければならないとは言いません。むしろ、今、しっかり信じている信仰を尊重するのです。
38節を御覧ください。
使徒の働き2章38節
そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。
「悔い改めて」そして、バプテスマ、洗礼を受けるようにとの順番であるとわかります。特に原語では、「悔い改めよ!」ということばがカンマで区切られ強調され、そして「洗礼を受けよ」と続きます。
41節はより明確です。
説教を聞き、受け入れた者、つまり心に信じて救われた者が洗礼を受けたのです。
ローマ書にもこうあります。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」信じる信仰、信仰の告白をもって救われるわけです。残念ながら中世ヨーロッパにおいて、教会は儀式や形式的なことにあまりにも意識が行き過ぎて、信仰の形骸化という問題が起こりました。宗教税をしっかり納めていれば洗礼を手軽に形式的に行ってもらえる。そこでは信仰が問われず、形ばかり。そうなれば教会はいのちを失いますよね。私たち福音自由教会の先駆者たちは、そこで純粋な信仰を大切にしようと戦ってきたのです。
2.なぜ、洗礼を受ける必要があるのか?
洗礼を行なうことは、イエス様の願いであり、ご命令であるからです。
実はイエス様ご自身がまず洗礼を受けられ、そして公の宣教のわざを開始されました。私たちのための模範を示されたのです。その時、聖霊が鳩のように下ったということも聖書は語ります。救われた者への聖霊の注ぎの暗示でもあります。さらに、イエス様自身が命じられました。イエス様は、復活後に大宣教命令というものを弟子たちに残しました。
マタイの福音書28章19-20節です。
マタイの福音書28章19-20節
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、28:20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。・・・
福音を世界中に伝え、あらゆる国の人々をキリストの弟子とする。その証しとして三位一体の御名においてバプテスマを授け、教えを守るよう導きなさいというのです。これはイエス様が地上を去られる直前の告別のメッセージで、非常に大切なものです。これが大事にされてきた証拠に、弟子たちはイエス様が天に昇られた後に、この教えの通りに従ったのです。それが今日のみことばの場面です。41-42節
使徒の働き2章41-42節
彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
この日は3千人もの人がバプテスマを受け、キリストの弟子として加えられました。しかも、「使徒たちの教えを守った」とありますよね。先ほどの大宣教命令にあった通りです。
そして、実際に、世界中で歴史を通して、この教えに従って今日に至るまで洗礼式が脈々と続けられてきたことはすごいことだと思いませんか。2000年も前の教えですが、それが世界に広まり、現代においても忠実に守られ、これからも大切にされていくでしょう。これは神の奇跡の一つだと言えるのではないでしょうか。
3. 洗礼自体の意義は?
それでは、イエス様が守るように教えられた洗礼自体には、どのような意味が込められているのでしょうか。
(1)霊的な意味 「古い自分に死に、新しくキリストとともに歩む始まり」
基本的には、水の中に全身を浸し、そこから起き上がるという動作になります。そこにある霊的な意味は、罪深い古い自分に死んで、キリストと共に新しいいのちによみがえるということです。ですから、「しっかり全身が浸からないと、古い自己が頭をもたげてくるから」と、ガッツリ沈める先生もいらっしゃいます。もちろん、水自体にその力があるわけではないので、半分冗談ですが・・・。でも、この意味を理解しておくのは大切です。しばしば、自分の信仰が非常に整って、心もきれいになってから「さあ、洗礼を!」と考える人がいます。でも、むしろ逆ですよね。洗礼は信仰生活のスタート、新しい人生の始まりであって、ゴールではありません。もう立派になったという証しではないのです。
ある牧師がこんな話をして下さいました。洗礼は自分の信仰が立派になって、もう完璧、もう大丈夫、きよくなった。そうなってから受けるようなものではない。もし、あなたの部屋に、明日イエス様が遊びに来ることになったら、どうしますか?部屋がかなり汚いとします。どうでしょう??とてもじゃないけど、あのきよいイエス様をすぐには入れられない。まず、掃除して、見られては困るようなものは捨てて、きれいにしてバッチリ準備してからでなければ・・・。そうすると、先延ばしにしてしまい、いつまでたってもイエス様をお迎えできないのです。でも、イエス様というお方はそういう方じゃない。むしろ、その汚いまま、見せられないようなままの部屋に、何のさばく思いも持たずに喜んで来て下さるのです。そして、一緒にかたづけて下さるお方でさえある。
つまり、もう信仰が成長したから受けるのではなく、汚れた私だからこそ、しっかりきれいにしてください!と明け渡す、その始まりなんだという思いで洗礼を受ければいいのです。39節を御覧ください。
使徒の働き2章39節
この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
神に召される人は、だれにでも与えられている約束です。
(2)公のしるし 信仰の明確化、人々への証し
もう一つの大切な洗礼の意義は、公に証しをすることなのだということです。
本来、私たちの信仰は目に見えるものではありません。イエス・キリストを信じていると言っても、それが本当かどうかは誰にも分かりません。しかし教会生活をしていく中で、新しく信じた方を公に教会に加えていくために、そのような目に見える儀式が用いられるのです。これらを礼典と呼びますが、救いの恵みを目に見えるかたちで現わし、皆でしっかりと確認し、この人は確かにキリスト者です!救われているのです!と公言する機会です。ですから、他の教会に移ることがあるとしても、このサンライズチャペルで洗礼を受けましたという記録、証明がありますから、それをもって他の教会でハッキリと認めていただくことができるものでもあります。
ご一緒に洗礼の恵みについて教えられて参りました。私たちは洗礼をイエス様が命じられ、大事にされたので大切にし、守ります。自分の信仰を明確なものにし、安心して胸を張って歩む機会とします。しかし、この式自体を偶像化しないで、これを救いの条件とせず、救ってくださるのは神様ご自身であることを覚え、生きた信仰を持って歩みましょう。