東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱテサロニケ3章6-13節「たゆまず良い働きを」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/09/23

Ⅱテサロニケ3章6-13節「たゆまず良い働きを」

 *** 9/22(水)祈祷会 説教概略 ***

Ⅱテサロニケ36-13節「たゆまず良い働きを」

 私たちは弱いもので、大変な方向に自ら向かうことはよほどの覚悟が必要ですが、楽な方向には誰にも言われなくても、自然と足が向いてしまいます。聖書を通して怠惰の問題についても語られ、与えられていることに忠実に向き合うことを励ましていただけることは、実は幸いなことだと思います。弱いからこそ、しっかりやりなさいとのことばが助けになるという一面も尊重されるべきではないでしょうか。

 子どもの頃、「働かざる者、食うべからず」とのことばを、父から何度か聞いたのを思い出します。手伝いもしないで、お殿様のように待っているだけで食べるだけなんてアカン!ということでした。

 しかし、それが聖書に由来していることばだという事を知ったのは、実は割と最近のことです。今日のみことば、10節がその由来であるとされています。ただし、私たちはこのことばが、どのような文脈の中で語られ、何を伝えようとしていたのかを祈りのうちに正しく教えられて行きたいと思います。



1. 怠慢&お節介焼き

 今日のみことばを味わっていると、当時のテサロニケの教会には、仕事ができるにも関わらず何の仕事もせず、口出しばかりをしてお節介を焼いて、困らせている人がいたとわかります。
 
 もちろん、ここで語られていることは、病気であったり、体が弱かったりでお仕事ができない人の話ではありません。6,7,11節と3回ほど「怠惰」ということばが登場していますように、「できるのに、怠けていてしない」、そういう人の話なのだと分かります。

 そして、6節にあるように、怠惰な歩みをしてパウロたちから受け継いだ教えに従わないことが問題となっていたのです。その教えについて、パウロたちはことばだけでなく、自分たちの生活の姿、姿勢をもって模範を示して来たと7節以降で語ります。

Ⅱテサロニケ3章7節以降
どのように私たちを見習うべきか、あなたがた自身が知っているのです。・・・

 7-9節では、パウロたちが具体的に模範を示したことを思い出させています。彼らはテサロニケでの宣教をしたときに、様々な献品等で生計を立てることをしませんでした。その権利も聖書的にはあるけれど、あえてそうしなかったと言います。

もちろん、パウロはフルタイムの働きを尊重しています。主の宣教のために労する人は、それに集中できるように、献金で糧を得ることは聖書が教えていることだと、彼自身言っています。そのようなフルタイムワーカーを教えていますし、尊敬を払ってしっかりとみんなでその働きを支えなさいと言います。

しかし、その一方で、彼自身はある目的のゆえに、フルタイムではなく、パートタイムでの宣教を行なっていました。自分で仕事をして糧を得ながら、同時に宣教者として労するのです。テントメーカーと言われます。

 ただ、ここでパウロが考えていた中心的なことは、テサロニケの多くの兄姉(信徒)たちに模範を示すことでした。若い牧師・宣教師への模範ではなく、むしろ信徒に向けての模範を示しているわけですよね。文脈を考えるとそれが自然でしょう。

そう考えた時、実は教会の奉仕者の皆さんは、ほとんどが該当しますよね。皆さんそれぞれお仕事をしながら、水曜や土曜、日曜をはじめ、可能な時間を主にささげて宣教しているわけです。「主婦」と言われる皆さんも、決して無職ではなく、家での大切なお仕事「家事」をしつつ、教会の奉仕や宣教のわざに励んでいますよね。

言ってみれば、パウロが示した模範は、信徒の皆さんがどうやって主のみこころに添った宣教をしていくことができるのかを示す模範だったと言えるのではないでしょうか?いわゆるフルタイムの宣教師、牧師の模範ではなく、教会に多く集う信徒のモデルとして、仕事をしつつ証しし宣教していくモデルと言った方がいいのかも知れません。

 そして、それにも関わらず、自分では仕事をしないで、一生懸命働いている人たちに寄生するかのようにして、教会であれこれ指導しようとする人がいたということです。その人は主から召されて、フルタイムで仕える献身者でもなく、また、仕事を精一杯しながら教会に忠実に仕える信徒の献身者でもない。いずれにおいても中途半端で、ただ自分の意見で人を従わせたい人なのかも知れません。

 私たち誰もが、忠実さや勤勉さを脇において、教会や他の人の問題ばかりを指摘し、言わば「上から目線」のような歩みをしてしまう誘惑があるように思います。



2. 怠慢がもたらすもの

 
ですから、パウロはこの点を注意しているのです。10節にパウロのこうした指導があります。
Ⅱテサロニケ3章10節
あなたがたのところにいたとき、働きたくない者は食べるな、と私たちは命じました。

よく見ると「働かない者」ではなく「働きたくない者」つまり「働く意志のない者」について語られています。働きたいのに職が見つからないで苦しんでいる。あるいは、健康上の理由等で働けない。そういう人への指導ではないのです。そうではなく、働けるのに、働こうとしない楽をして自分のしたいことだけをしようとする問題です

これは証しになりませんよね。

特に当時の教会で、物を共有し合うことをよくやっていました。それはまさに社会的弱者救済のためです。でも、それを悪用する人もいたということです。そこには愛がなく、自己中心ですよね。本来受け取るべき人に行き渡らず、受け取らなくていい人が楽をするために使われるようでは、神様も悲しまれるでしょう。

「受けるより与える方が幸いである」と主は教えられたとみことばにあります(使徒20:35)

そして、ことばだけでなく、忠実に労して初めて、その人のことばに説得力が生まれます。そこに真実、誠実が存在します。口先だけでは、決して人の心は動かせないですよね。特にテサロニケでは、キリストの再臨がもう起こった!世の終わりはもう目の前だ!と誤解する人々がいました。そのことを働かない言い訳に使う人がいたということでしょう。働いてもすぐ終わりが来るから無意味だと。それは自分の怠惰をごまかすための「言い訳」に過ぎないわけです。

さらに、彼らは怠惰なだけでなく、余計なお節介を焼いてばかりということが11節で触れられていますよね。

Ⅱテサロニケ3章11節
ところが、あなたがたの中には、怠惰な歩みをしている人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいると聞いています

「やらないのに口ばかり」というのが最も説得力がなく、人がついて来ないパターンです。しかし、主に信頼して日々精一杯労している人は、たとえことば数が少なかったとしても、人の心に届くことばを語ることができるのではないでしょうか。




3. たゆまず良い働きをさせていただこう

 決して無理をして自分を滅ぼすほど働きましょうという意味ではありません。自分を大切にし、余暇もしっかり満喫すべきです。しかし、12節にあるように、「落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べる」という神が造られた労働と報酬の仕組みも尊重すべきです。

 なぜなら、そこに労働の恵みが主によって与えられていますし、それを通して神様への感謝も生まれるからです。また、そうした労苦を経験することで、他の人の働きへの尊敬が生まれ、そのような人々に福音を伝えることができるようになるからです。

 牧師や宣教師になるにしても、社会人としての経験を少しでも積むという事の意味はそこにあるでしょう。学校を卒業してすぐに献身することを否定しませんし、そこにも主の召しがあるでしょう。でも、そういう人はどこかで社会人として働かせていただく経験を、研修の一環として受けられたらより良いかと思います。

 パウロは皆に、結論として13節のことばを贈ります。それが主のみこころだと信じているのです。

Ⅱテサロニケ3章13節
兄弟たち、あなたがたは、たゆまず良い働きをしなさい

 「たゆまず良い働きをしなさい」・・・私自身、胸に刺さることばです。「たゆむ」というのは、弓の弦(つる)がゆるむことから来たことばです。弓のつるはピーンと張っていないと、弓を遠くへ飛ばすことができません。怠惰の問題を比喩的に表しています。

私たちもキリストの弟子として召された者、神の国の使節(大使)として、だら~んとしないで、たゆまずに、良い働きをもって証しさせていただきたく願います。

様々な奉仕も宣教も、ただ聖書知識があればいいとか、上手に話せればいいというものではありません。自分が置かれている職場や学びの場において、忠実に励んでいくことも、実に主の良い働きに結びついていることなのです。

その点、神学校での評価の在り方が、一律というよりも個々人を見ながら、先生方が対応されていたことを思い出します。この人はもっとできるのに、怠けている・・・そういった部分を見てくださっていました。

教会での奉仕や伝道だけが、主の良い働きではありません。自分の仕事、家事、学び。自分の遣わされた日々の現場で、主の前に忠実に歩む姿は、宣教のことばに説得力を持たせるのです。与えられている今の働き、今の奉仕をまず大切に。今あるものを主の御前に続けていきましょう。

 良い働きは、突然できるのではなく、日々のそのような小さな積み重ねの先にあるのです。



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