詩篇71篇 「神の義の現われとしての救い」
立川福音自由教会牧師 高橋秀典師
「心が傷つく」とは自分が無価値な者と見られること、つまり「恥」の意識から生まれます。ただ、ときにそれはキリストにあるアイデンティティーが確立していない結果と見られ、信仰の未熟さの現われとして「傷ついてしまう」と評価されることがあります。しかし、それこそ人の感性に対する暴力かもしれません。
少なくともダビデは誰よりも傷つきやすい心を持っていたことが彼の詩篇から読み取ることができます。そしてイエス・キリストはダビデの詩篇を愛読していました。それは人となられたキリストご自身も繊細な傷つきやすい心を持っていたからとも言えるかもしれません。
しかもその際の「神の義」とは、神のさばきの基準というより、現実的な神の救いをもたらす原因でした。
1.「私は多くの人にとって奇跡と思われました」
詩篇71篇には標題がありませんが、それは詩篇70篇と昔はセットで読まれていたからだと解釈されています。そして詩篇70篇と詩篇40篇13-17節ではほとんど同じことが記されていますが、その背景には、ダビデが息子のアブサロムの謀反で、多くの家来たちから見限られ、裏切られ、辱められたという悲惨な状況がありました。彼はそこで、神への嘆願と、主にある「望み」を歌ったのだと思われます。
その核心には「この私は苦しむ(悩む)者 貧しい者です」(詩篇70:5)という告白があります。それはイエスが十字架上で味わった気持ちとも言えます。
十字架刑の基本は、人を徹底的に辱めることにありましたが、それ対して、イエスの歩みに関しては、「この方は、目の前に置かれた喜びのゆえに、十字架を耐え忍びました、辱めを軽蔑することによってですが、神の御座の右に着座されたのです」(ヘブル12:2私訳)と描かれています。つまり、イエスは辱めに打ち勝たれた方として描かれているのです。
しかもこの詩篇71篇1-3節は詩篇31篇1-3節と極めて似ていますが、その31篇5節に描かれた「私の霊をあなたの御手に委ねます」という祈りは、イエスの十字架上での最後のことばそのものでした(ルカ23:46参照)。とにかくイエスご自身もこの詩篇31篇、また71篇を味わいながら十字架に向かったことが明らかです。
この詩篇の始まりは、「主(ヤハウェ)よ あなたに私は身を避けています。とこしえに(決して) 私が恥を見ることがありませんように!」という祈りから始まります。つまり、主(ヤハウェ)の救いのみわざは「恥を見る」状況からの解放で、それが「あなたの義によって私を引き上げ 助け出してください。御(おん)耳を私に傾け お救いください」(2節)と訴えられているのです。
ここでは「神の義」がダビデにとっての「救い」の理由とされています。宗教改革者マルティン・ルターは若い時、「神の義」とはどんな罪も見逃さないさばきの基準としての神の正義と考え、そのことばに怯えていましたが、詩篇を解き明かしながら「神の義」とは信仰者を救う神の真実さであるということがわかり、当時のカトリック教会の聖書解釈に対抗する運動を起こすことになります。
続けてダビデは、「私のために避け所の岩となってください。いつでもそこに入ることができるための。 あなたは私の救いを定めてくださいました。あなたこそ私の巌、私の砦です」(3節)と祈り、また告白します。
それは、神の「救い」が見られない現実が目の前にあるからです。ただここで、神の救いの原因は自分の信仰以前に、神が「定めてくださった」ことにあるというのは不思議な告白です。
自分で獲得したものならば失われる可能性がありますが、神が定めたものならば失われる可能性がありません。後にパウロはこれをもとに「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されている」(コロサイ3:3)と記したのかと思われます。
さらに4節でダビデは、「悪者の手から助け出してください。不正を行う者や残虐な者の手のひらから」と類義語を用いながら、自分が置かれた切羽詰まった状況を訴えています。
ただそこで彼は、「それは あなたこそが私の望みだからです」(5節)と告白します。これもパウロが後に、「私たちは、望みにおいて救われているのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか」(ローマ8:24下線部私訳)と述べています。私たちの「救い」は将来的な「望み」として表わされます。
そして、それは「主(アドナイ)ヤハウェは 若いころからの私の拠り所」という体験からの告白として描かれます。そしてさらに6節では、この「若いころ」からのことが「胎内いるとき」という表現に進められながら、「あなたに 胎内にいるときから私は抱(いだ)かれています。あなたは 母の胎から私を取り上げてくださった方」と告白されます。
この表現はイエスの十字架の詩篇と呼ばれる詩篇22篇での「まことに あなたは、私を母の胎から取り出され、母の乳房に、より頼ませた方。胎に宿ったときから、私はあなたのふところにゆだねられました。母の胎内にいたときから、あなたは、私の神です」(9,10節私訳)という告白につながります。
どちらにおいても、私たちは胎児の状態にあるときから、神によって「抱かれて」生かされており、私たちの誕生を導いたのは、創造主ご自身であるという驚くべき告白です。何と、神がまるで助産師であるかのように描かれています。
そのことをもとに、「私の賛美はいつもあなたに向けられています」と告白されます(6節)。つまり、私たちが創造主を賛美する根拠は、この出生の神秘にあると説明されているのです。
さらにそのことが7節では、「私は多くの人にとって奇跡と思われました」と告白されます。これは私たちのいのちが奇跡的に守られてきたという驚きから生まれます。
少なくとも私の母は、私がこのように生きていること自体が奇跡だと思って、聖書の神を信じると告白しています。ほんとうに何度も死ぬ目に会いながら、奇跡的にいのちが守られて来たからです。ただ、幼児期の不安定な環境は、私自身の生涯に渡る神経症的な不安と結びついています。
昔はそのような自分の感性を恥じていました。しかし、「舟の右側」7月号のスピリチュアルジャーニーの記事にも書いたように、「不安を抱えていることは、伝道者としてマイナスと思っていたのに、それが財産になると言われて、自分の世界観が変わりました」という告白へと変えられました。それは詩篇40篇7節での「巻物の書(聖書)に 私のことが書いてあります」という自己認識と結びついてのことです。
もちろん、安産のうちに生まれ、恵まれた幼児期を過ごす方々も多くおられます。しかし、そこに何の危険もなかったなどということがあるでしょうか。すべての人生は神の奇跡です。
私たち一人ひとりに固有の使命が与えられています。そして私は自分のうちに「不安感」や「傷つきやすさ」があるからこそ、他の人の傷つきやすさに寄り沿うことができるとも言えます。私たちが自分の使命を見出すとき、それぞれのマイナスとしか思えないことが「財産」へと変えられます。
私たちは「イエス様を信じて、このような不動の心を持つことができるようになった!」と証しすることを望みがちではないでしょうか。しかし、私たちが告白すべきことはあくまでも、「あなたが 私の力強い避け所だからです」というものです(7節)。それは「私は強くなった」という告白ではなく「創造主なしには自分の安全は保たれない」という謙遜な告白です。
ヘンリ・ナウエンが書いた「傷ついた癒し人」の中に、主に仕える者は復活のイエスがご自身の傷跡を残しておられたように、自分の傷の手当てをしながら同時に、他の人の傷の癒しに用いられる者であるという趣旨のことが記されています。
それは自分の傷を見せながら、「そんなの気にしなくて良い」と言うためではなく、そこにある問題を真正面から見つめながら、そこで全能者の癒しをともに体験できるためです。
2.「私のたましいの敵対者たちが恥を見て消え失せますように」
今の私たちに求められていることは、何よりも「私の口にはあなたへの賛美が満ちています。あなたの栄えは一日中・・・(私の口で賛美されています)」(8節)という告白です。
ただそのような中でもダビデは目の前に自分に失望し、自分を裏切るものが増えている現実を前に、「私を見放さないでください 年老いたときにも。力が衰え果てても 私を見捨てないでください」(9節)と訴えています。
これは先に記されていたような、「自分のいのちが神の御手の中で守られてきたと告白し、そのような主のみわざを感謝した」ことと矛盾するようにも見えます。人間的には、「見放さないでください・・見捨てないでください」と願うこと自体が、不信仰の極みとも思えます。しかし、そのように心が揺れるのが人情です。それは、神は目に見えない一方で、自分を見捨てようとする人々の顔が目の前に迫っているからです。
ダビデに従ってきた者たちは、彼の「力が衰え果てた」のを見てダビデを見限り、謀反を起こしたアブサロムについて行きました。これはこの世の組織でも頻繁に起きることです。
ダビデは、自分を裏切る者たちの言動を、「それは 敵たちが私のことで話し合っているからです。私のたましい(いのち)を狙う者たちはともに企んでいます。彼らは言っています 『神は彼(ダビデ)を見捨てた。追いかけて捕らえよ。救い出す者はいないから』と」(10、11節)と紹介します。
これは自分の損得勘定でダビデに従っていた者たちが、彼の権力基盤が揺らいだようすを見て、彼が神からも見捨てられたと判断し、彼を追い落とそうとする反逆者の側についたことを描いたものです。
それと同じように、イエスがエルサレムに入場したとき、多くの人々は「ダビデの子にホサナ」と叫び、喜んで迎え入れていましたが、それから四日後にイエスが捕らえられると、民衆はそろってイエスを「十字架につけろ!」と「叫び続け」ました。まさにダビデが体験したことは、イエスご自身が体験することを預言的に語っていることでもありました。
12節の「神よ 私から遠く離れないでください。 私の神よ 私を助けるために急いでください」という祈りでは、「助けて」という叫びよりは、助けることを「急ぐ」ようにという性急な訴えになっています。
それと反対に13節では、ダビデは自分の正直な気持ちとして、「私のたましいの敵対者たちが 恥を見て消え失せますように。私のわざわいを求める者が 恥辱と侮辱でおおわれますように」と懇願します。
「恥辱と侮辱」ということばは以前は、「そしりと侮辱」と訳されていました。ここには日本語で「はぢ」の類語が三種類用いられています。「恥を見る」の原語は「ボーシュ」で面目を失うこと、「恥辱(そしり、嘲り)」の原語は「ヘルパ」で人格を傷つけるような中傷、嘲りを意味します。また「侮辱(恥、辱め)」とは原語は「クリマ」で、卑しめられ、プライドが傷つくこと、恥ずかしい思いをすることを意味します。
この24節では「屈辱を受ける」と訳された原語の「ハペル」は、無価値とされることを意味します。その他にも「カローン(不名誉)」(詩篇83:16)、「ヘセド(恥ずべき、辱め、レビ20:17)などがあり、それぞれの語根からの他の変化形もあります。
以前、キリスト教が「罪の文化」、日本が「恥の文化」などと対比されたことがありましたが、それはあまりにも皮相的です。ヘブル語の詩篇のことばの用い方を見ると、まさに聖書の世界こそ「恥の文化」とも言えるかも知れません。
とにかくダビデは、多くの人々から見捨てられ、辱められていることに心を痛めており、自分が味わったと同じ痛みが自分の「たましいの敵対者」たち下されることを願っているのです。
そして14,15節でダビデは、「しかし私は 絶えずあなたを待ち望みます。またいよいよ切に あなたを賛美します。この口はあなたの義と救いとを 一日中語り告げます。そのすべてのことを 私は知ってはいませんが」と主をほめたたえますが、そこでの神の「義と救い」とは、自分と敵対者との関係が変えられることです。
それは自分の立場が回復されることと同時に、「私のたましいの敵対者」が立場を失うことで、神の「義」が全うされることを意味しました。不当な辱めからの回復こそが「救い」として描かれているのです。
「はぢ」の観念は、神の「救い」が人と人との関係に現わされることを意味しているとも言えましょう。人間の感覚としては、人から捨てられることと神から捨てられることは区別がつかないとも言えましょう。
ときに、「人の評価を気にするのは不信仰!」と言われがちですが、私たちの感覚では、神と人の評価は表裏一体のものと感じられます。それが人情です。
3.「あなたが私の偉大さを増してくださいますように」
16節では、「主(アドナイ)ヤハウェよ あなたの大能(たいのう)とともに私は参ります。あなたの義 ただそれだけを思い起させるようにしながら」と歌われます。
これはダビデが「神の幕屋」に礼拝に来る姿勢を歌っているものと思われます。彼はあくまでも主の「大能」または「偉大な力」を賛美しながら、しかもその際、自分の「義」ではなく神の「義」または真実さを人々に「思い起させる」こと、「ただそれだけ」を目的とすると言っています。
さらに17節では、それは「若いころ」から神によって教えられたことであり、その「奇しいみわざ」をなおも人々に「告げ知らせる」というのです。
そして18節では再び「年老いて」と言いながら、さらにそれに「白髪頭になっても」と付け加えながら「神よ、私を見捨てないでください」と訴えます。
ただそこでは、「あなたの御腕のわざを 世に私が知らせるまでは あなたの大能(たいのう)を後に来るすべての者に(知らせるまでは)」と述べながら、自分が老齢になっても神によって守られるべき理由が、神の「御腕のわざ」また「大能」を「後に来るすべての者に」「知らせる」という責任を果たすためであると言われます。
ここに私たちが長生きを望むべき理由が記されています。それは後に世代の人々に神のみわざを知らせるためなのです。
19節では、「神よ あなたの義は 天にまで届きます。 大いなることをなさる方 神よ だれがあなたのようでしょう」と歌われ、聖書の神が他のあらゆる神々とは異なる偉大な創造主であり、その「義(正しさ、真実さ)」は人の思いを遥かの超えた「天にまで届く」ものであると証しされます。
そしてダビデはさらに、「あなたは私を多くの苦難とわざわいとに会わせられた方ですが 私を再び生き返らせ 地の深みから再び引き上げてくださいます」(20節)と告白されます。
ここでは、神が私に「多くの苦難とわざわい」をもたらした張本人であると言われながら、その後で「再び生き返らせ・・・地の深みから再び引き上げてくださる」方であると告白されます。ここでは、神が「わざわい」の創造主であるとともに、神がそこから「再び引き上げてくださる」方であると告白されます。
ときに、「神は、わざわいの創造者ではありえない・・」と言われることがあります。しかし、すべてのわざわいは神の御手の中で起きていると思うからこそ、神がみこころを変えてくださるなら、そのすべてが単なるわざわいではなく、次の祝福の原因となると期待できるのです。
だからこそ、主はモーセ五書の終わりで「今、見よ、わたし、わたしこそがそれである。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、また癒す。わたしの手からはだれも救い出せない」(申命記32:39)と言っておられます。
私たちが何らかのわざわいに会ったときに求められている態度は、わざわいの創造主である神から逃げ出すことではなく、神のふところに飛び込み、神にすがり続けることなのです。
21節の「あなたが私の偉大さを増してくださいますように。 そして振り向いて私を慰めてくださいますように」という祈りは、何とも微笑ましいものではないでしょうか。
私たちはみなだれでも、人から軽く見られ、ばかにされると傷つきますが、ダビデは率直に、神ご自身が「私の偉大さ」を「増してくださる」ようにと願っているのです。これはあまりにも露骨で身勝手な祈りとも思えます。しかしあなたは、たとえば金メダルを目指して頑張っている人を、身勝手だとか自己中などと非難することがあるでしょうか。それと同じことです。
多くの人々は、人の期待に応えることで「偉大な者」と見られることを期待します。しかし、ここでは自分の能力や努力ではなく、創造主ご自身が私たちに「振り向いて」「慰めてくださる」ことの結果を待ち望んでいるのです。
22,23節では「私もまた 琴をもってあなたの真実をほめたたえます 私の神よ。竪琴に合わせあなたをほめ歌います イスラエルの聖なる方よ。 この唇は高らかに歌います 私があなたをほめ歌うときに。 あなたが贖い出してくださったこのたましいも」と歌われます。
私たちは神が自分の偉大さを「増してくださる」ことを望んで良いのですが、そこで何よりも大切なことは、主の御名があがめられることです。私たちの心の中で、聖書の神があがめられるとき、結果的に私たち自身も「その偉大さ」を増し加えていただけるのです。それは私たちの「たましい」は、神ご自身が滅びの奴隷状態の中から「贖い出してくださった」ものだからです。
そして最後に24節で、「この舌も一日中 あなたの義を告げます。 私のわざわいを求める者が 恥を見て 屈辱を受けるからです」と告白されます。ここでも神の義は、「私のわざわいを求める者」が神のさばきを受け、「恥を見て 屈辱を受ける」ようになることとして描かれます。
この詩篇では「あなたの義」ということばが五回も繰り返されます(2,15,16,19,24節)。イエスこれをもとに「まず神の国と神の義を求めなさい(探しなさい)。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタイ6:33)と言われたのかもしれません。それはこの世の富、地位や名誉を求め、人を平気で裏切るような人間が繫栄しているように見える現実がいつの世にもあるからです。
そしてしばしば、神の前に真実さを全うしようとする者が、立場を失い「恥を見る」ようなことが起きます。そのようなときに「神の義」の現われとは、神の正義が明らかにされ、私たちの誠実さが報われること、またその一方で、誠実さを軽蔑するような者たちにさばきが下されることです。それは彼らの社会的な立場が失われることとして表わされます。それこそがこの詩篇で繰り返される、自分の敵対者たちが「恥を見る」、「恥辱と侮辱」におおわれる、また「屈辱を受ける」ことを意味していると言えましょう。
「救い」は、死後の世界以前に、この世での「立場が回復される」こと、また反対に「立場を失う」こととして表されます。しかも、そればかりか、自分の誕生とその後の歩みを振り返りながら、「そこに神の奇跡が現れていた・・・」と感謝している者が「立場を失った」ように見える時、そこでなおも、「私の偉大さを増してくださいますように」と率直に願うことができるというのは何と幸いなことでしょう。