東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱテサロニケ3章1-5節「主のことばが広まるように」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/09/15

Ⅱテサロニケ3章1-5節「主のことばが広まるように」

*** 9/15(水)祈祷会 説教概略 ***

Ⅱテサロニケ31-5節「主のことばが広まるように」

パウロは最後に、テサロニケの兄姉に対して祈りの要請をしました。私たちのためにも祈ってくださいという要請です。パウロたちは、たとえ会えないとしても「祈りの交わり」を通して、お互いにつながっていることを知っていました。


私たちキリスト者は、たとえ遠く離れたところにあっても互いのために祈り合い、神さまを通してつながることができるのです。パウロはこの祈りの交わりを継続したいと願っているのです。1節の「祈ってください」とのことばは、現在形で書かれています。ギリシャ語の現在形には継続の意味があり「祈り続けてください」と訳しても良いと思われます。
「絶えず祈りなさい」と前の手紙で書いたパウロですから、祈り続けて欲しいとの訴えているのでしょう。

では、祈り続けて欲しいと要請しているその内容は何でしょうか。
「主のことばが広まるように」との祈りでした。

 

1. 主のことばが広まり、尊ばれるように

 
 1節では「あなたがたのところと同じように速やかに」ということばを加えています。テサロニケの兄姉たちの宣教の歩みに励まされていたのでしょう。
 実はパウロもまた、難しい局面に置かれていたと考えられます。彼らは今、コリントにおいて宣教をしていたのです。コリントという町は非常に栄えている町でしたが、道徳的には堕落した町であり、個々人の主張も強く、偶像礼拝や罪深い歩みが盛んで、そんなに素直にみことばが入る地域ではありませんでした。第一コリント23節をご覧ください。

第一コリント2章3節
あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました

 パウロは手紙でこう告白しています。コリントという繁栄していた町に圧倒されたのかも知れません。彼はコリント滞在時には、どうしたら伝えられるだろうかと葛藤し悩むという経験を通ったのです。苦労したからこそテサロニケで、迫害や暴動があるのに不思議とみことばがどんどん広まっている様子に、パウロは励まされていたのだと思います。

 ですから、苦戦するコリントにおいても、あなたがたのところと同じように、主のみことばが速やかに広まり、尊ばれるよう祈ってください!とお願いしたのです。「広まる」ということばの基本的な意味は実は「走る」です。みことばがコリントの地で駆け巡るように速く広まることを願っていることが感じられますね。

 誰よりも福音が広がり、多くの人が救われて欲しいと願うパウロです。

 プライドなど、どうでも良くて、多くの人の協力と祈りの力をいただいて、とにかく少しでも多くの人が救われるようにと純粋に願っているのです。

 私たちもそう祈ることで一致していきたいと思います。教会、キリスト教の世界も罪人の集まりですから、どこか競い合うプライドみたいなものが顔を出すことがあります。でも、プライドが尊ばれることよりも、「主のみことばが尊ばれるように」と、パウロは祈りの要請をしていますね。みことばが尊ばれるならば、人間的なプライドが尊ばれなくて済むからです。私たちもそうありたいですね。

 

2. ひねくれた悪人から救い出されるように

 
 2節の祈りのお願いは、パウロたちがひねくれた悪人どもから救い出されるように祈って欲しいということでした。「ひねくれた」ということばの元々の意味は、英語でout of placeとなります。「その場に合わない、不適切な」・・・そんな意味です。そこから「ひねくれた」という意味が派生しているのでしょう。

 神のご計画に全く合わない、不適切な行動、それが神の目に罪深く悪いものであります。人の基準ではなく、神の基準において、場違いな的外れな歩みは、神の働きを妨げる悪しきものでしょう。

彼らから私たちが救い出されるようにと祈りをお願いしています。ただし、それはパウロたちが迫害そのものを恐れているということよりも、彼らの妨げによって福音が速やかに広がることが妨げられることを恐れてのことです。

自分たちが守られることではなく、キリストの福音が正しく広まることを大事にしている姿勢なのです。守られるよう祈るにしても、保身のためにではなく、キリストの福音が伝えられるために、尊ばれるために、であることがわかります。

 この後、パウロはすぐに、テサロニケの教会への指導、励ましへと移行します。そこからも保身のためではないと分かるのです。

 しかし普通、この流れで読んでいくと3節に入った時に違和感を覚えます。自分たちが悪人たちから救い出されるよう祈ってくださいと2節でお願いしたのですから、そこに続くことばは「しかし、主は真実な方なので、私たちを守ってくださると信じています」でしょう。

 それなのに3節では主は真実な方なので、「あなたがたを守ってくださいます」視点を変えているのです。自分たちの話から、すぐにテサロニケの兄姉たちの話へと移っています。ゆえに、パウロの祈りの要請はわずか2節で終わりを告げます

 ごく短く、しかしテサロニケの兄姉たちが、宣教のために心を向けられるようにとの配慮のために、この祈りの要請をしているのだろうと思うのです。

 あくまで私の推測ですが・・・もしかしたらパウロは、主は真実な方だから、私たちを守ってくださいますと最初は書こうとしたのかも知れません。しかし、その際に、「それと同じように」あなたがたをも守ってくださいます何よりも伝えたいとの思いが湧き出てきて、結果、このような文書になったのでは?とも思うのです。

 それほどに、パウロは常に相手のことを思い、愛して手紙を著しているのだということです。自分たちのことは後回しなのです。神の福音に仕え、その福音によって救われた人々を愛し、そしてこれから救われていく人のために彼は手紙を書いているのです。 

 

3. キリストのために苦しむ恵み

 
 そして、そのままパウロのことばは、テサロニケ教会の兄姉たちの心が、神の愛とキリストの忍耐へ向かうようにと進んで行きます。4-5節です。

Ⅱテサロニケ3章4-5節
私たちが命じることを、あなたがたは実行していますし、これからも実行してくれると、私たちは主にあって確信しています主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。

 現に悪い人たちから妨害され、迫害を受けていたテサロニケのクリスチャンたちです。パウロは自分たちの困難のために祈って欲しいとの願いをした瞬間、彼らも同じように苦しんで戦っているのだとの思いに戻って来たことでしょう。

 私たちが苦しみを通る意味の一つはそこにあります。自らが苦しむ時、そこで痛みを通る時、それは神を知る機会であるとともに、他の人々を励ますための良き備えでもあるということです。ある治らない難病を抱えている人を多くの人が見舞いました。しかし、その人を一番慰めることが出来た方は、自身も同じ病を抱え苦しんできた人でした。

 その意味では「キリストの忍耐に目を向ける」とは本当に大切なことです。イエス様ご自身が、罪がないにも関わらず迫害を受け、苦しめられ、極悪犯罪人扱いをされて十字架で殺されたのです。でも、主は暴力に暴力で返すこともなく、ののしりのことばにも言い返すのでもなく、忍耐をもって十字架に歩まれましたね。

 パウロもテサロニケの兄姉たちも、誰よりもイエス様ご自身が福音のために苦しみを通られました。

主のことばが広まるために、尊ばれるために。私たちは何ができるでしょう。

ピリピ1章29節
あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです

 キリストのために苦しむことも、恵みとして私たちはいただいているのです。あまり喜ばしくないと思われるかも知れません。でも、苦しい学びや訓練が豊かな実りを生むように、福音のために私たちが労し、時に涙しながら種をまくとき、主はそこに豊かな実りをもって応えてくださるのです。コロナ下で伝道のためにも頭を悩ませ、苦闘します。でも、その苦闘はキリストの苦しみとして主から授かった恵みです。それは豊かな実りに至るための恵みの道だからです。
 


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