東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨシュア記3章7-17節「主の臨在の中での前進」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/09/06

ヨシュア記3章7-17節「主の臨在の中での前進」

*** 2021/9/6 主日礼拝説教概略 ***
ヨシュア記3章7-17節「主の臨在の中での前進」

私は負けず嫌いの性格のせいでしょうか。コロナウイルスでこれだけ苦労させられているのですから、その分これを通して色々と学び成長しないと損だと考えます。苦しんだ分だけ神様からしっかりと恵みのリターンをいただこうじゃないか!そんな思いでいます。

ですから、コロナ前に戻るという発想ではなく、コロナという困難を経て、むしろ前進させていただきたいと願う者です。


この新会堂も20194月に完成しましたが、会堂建設を無理だと諦める選択肢はいつでもありました。でも、この地でより多くの方に届いていきたい、より豊かな主の働きをしていきたいと、神様を信じて前進してきた結果、コロナ問題が起きる前に会堂を得ることができました。

コロナの影響でしょうか。今は建築資材が不足し、高騰していると伺いました。まだ会堂建築は無理だとノンビリ構えていたら、今頃大変なことになっていたことでしょう。ですから、神様が導いてくださって、それに従い、恐れず前進したことでかえって守られたと思うのです。

本日のみことばは、主の臨在の中で前進していく神の民の姿が語られています。恐れを抱く私たちです。しかし、退いてしまうのではなく、主のおことばに信頼して一歩ずつでも前に進んで行けるよう、みことばの励ましをいただきましょう。

 

1. ここに来て、主のことばを聞く
 当時の神の民は過酷な状況に置かれていました。エジプトを脱出した後、シナイ半島を一度南下し、そこからまた北上して、やがてパレスチナの方へと向かいました。この地ではヨルダン川が北のヘルモン山から、南の塩の海(死海)に向かって流れています。この川がこの地を東側と西側に分けている感じです。イスラエルの民は、その東側のシティムという場所まで来ていました。

 そして、これから出て、神様の導きの中で、ヨルダン川を渡って西側に向かって行こうとしているのです(エルサレムも西側)。彼らは今まで経験したことのない試練、戦いを経て、約束の地へと入って行こうとしていました。とはいえ、普通に考えれば不安しかありません。彼らの眼前には、増水して激しく流れるヨルダン川が前途を遮っています。

 しかも、15節を見ていただくと、「ヨルダン川は刈り入れの期間中、どこの川岸も水があふれていた」とあります。チョロチョロと流れる小川ではありません。刈り入れの期間中とは、大麦の収穫期間で、今の暦では3月下旬から4月上旬頃です。ヘルモン山の雪解け水によって、ヨルダン川は溢れんばかりに増水していたのです。神様はそこを渡れと言うのです。

女性も老人も子どもたちもいたでしょう。本当に渡れるのだろうか?さらに、その先には強大な敵対心むき出しの民族もいる。リーダーのヨシュアも、モーセから代わったばかり。大丈夫なのかと不安と恐れでいっぱいだったでしょう。

しかし、彼らは信仰をもって乗り越えていきました。人ではなく、神である主が進めと言われるのだから、信じて進むのだと彼らは前進したのです。9節を御覧ください。

ヨシュア記3章9節
ヨシュアはイスラエルの子らに言った。「ここに来て、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。」

行動する前に、まず主のおことばを聞く事を教えられます。

「ここに来て、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい」。すべてにおいて、この世界の造り主、私たちを幸いへと導かれる主の声を聞くことから始めたいのです。私たちの様々な思い、考えがつい先になりがちです。でも、明日をも知らない、目の前しか見えない近視眼な私たちです。ですから、すべて知り尽くしておられる主なる神様に道を教えていただきたいのです。主は言われるのです。11

ヨシュア記3章11節
見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立ってヨルダン川を渡ろうとしている

 主の契約の箱とは「神様がここにおられる」というしるし、神の臨在そのものです。定められた祭司たちがそれをかつぎ、先頭に立って川を渡る。それは神様ご自身が先頭に立って導いてくださるということ。


2. 主のことばを信じて踏み出す
 
そして、祭司の足が川の中に留まった時、何が起こるのでしょうか?

ヨシュア記3章13節
全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまるとき、ヨルダン川の水は、川上から流れ下る水がせき止められ、一つの堰となって立ち止まる。」

 この激しいヨルダン川の水がせき止められて、陸地を歩いて渡られるようになるということでした。にわかには信じがたい話です。疑う者も少なくなかったのではと思います。

 けれども、彼らは主のみことばに従って踏み出しました。この時、神様のみことばだけがその保証でした。でも、おことばを信じて進むのが神を信じるということです。道があるから進むというのではありません。道なき荒れ地であっても、主が道を造られると信じて進むのが信仰です。主がみことばから私たちに示して下さるなら、そこが主の用意された最も安全な道なのです!

私たちも献身しようと決めて神学校に入ることを決めた時、何ら保証などありませんでした。ただ、神様のみことばから確信をいただいて進む時に、どんなに苦しい状況に追い込まれても、そのみことばに帰ることができるのです。苦しい時もありましたが、「そうだ、自分の思いではない。神様が行けと言って下さったのだ!大丈夫だ!」と励まされ、続けることが許されました。

15-16節を御覧ください。実際に彼らが主のおことばに従った時に起こったことが語られています。
ヨシュア記3章15-16節
15箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、
16 川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、アラバの海、すなわち塩の海へ流れ下る水は完全にせき止められて、民はエリコに面したところを渡った

15節をよく味わうと、祭司たちの足が水に浸って初めて水に変化が起こるのです。よく考えてみてください。先に水が引いて、陸地が現れてから、足を踏み入れるのならば楽です。信仰も不要です。でも、足がどんなに水の近くに来ようともまだ変化しないのです。主を信頼して、水の中に踏み入れて初めて、事が起こりました

さらに16節を見ると、ツァレタンのそばのアダムの町のあたりで堰止められ、そこから下流に至るすべての川の水が止められたとあります。実は、興味深いことに20世紀にも、同じ場所でヨルダン川がせき止められるという出来事がありました。1927年、大きな地震の影響で、聖書と同じ場所付近で河岸(かし、かわぎし)が決壊してなだれ込み、ヨルダン川が21時間に渡ってせき止められ、干上がったという記録があるそうです。こうした歴史的事実を知ると、決して荒唐無稽な話がなされているのではないと気づかされます。

さて、16節に「はるかかなた」とありますが、ある英語の訳では「very far away」と訳されています。実際、民が渡ろうとしていた場所よりも、25キロほども上流の方で事が起こりました。上流で水がせき止められたなら、下流にいる自分たちがいるところに影響が及ぶのにも時間がかかりますよね。増水時の川の速度で計算すると2時間前後はかかるのでは?

足を水に突っ込み、一歩ずつ進みながら「あれ?まだ水に変化が起こらない。神様大丈夫ですか?」と不安になったかも知れません。ただ、神様のみわざは、始まっているのです。見えないところで、既に着々と進んでいるのです。遅いということはありません。私たちが、目の前のことしか見えないために、起こっていないと思い込んでいるだけなのです。 でも、主を信頼するということは、見えない範囲にもおいても確かに主が働いておられると信じることです。2人の農夫の話があります。2人とも雨が降るように神様に一生懸命祈りました。しかし、畑を耕し、種を植えたのはそのうちの1人でした。さて、どちらが信仰をもって祈った人でしょうか?もちろん、雨をくださると信じて畑を用意し種を植えた人ですよね。私たちにもこの信仰が必要なのではないでしょうか。


3. 主の臨在の中で前進する

 さて、この後、最後まで渡り切れたのでしょうか?17節です。

ヨシュア記3章17節
主の契約の箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダン川の真ん中の乾いたところにしっかりと立ち止まった。イスラエル全体は乾いたところを渡り、ついに民全員がヨルダン川を渡り終えた

 実際に渡る時、主の契約の箱をかついだ祭司の一団は、先に行くことが許されませんでした。その川の真ん中に留まり、全員が渡りきるまで彼らはそこに待機です。でも、それをイメージするとどうでしょうか?先頭に入って行き、ああ、大丈夫なのだと民はついて行く。でも、渡っている最中も、いつ川の流れがまた戻って、押し流されるようなことになるか分からない

不安です。コワイのです。でも、その真ん中に神がおられ、祭司が仕えていて、ずっと守っていてくれる。小さな赤子も、女性も、あるいは妊婦や老人も、体の不自由な者も。みんなが渡り切れるまで待っているのです。そして、最も遅く最後に渡った者の後ろからようやく陸地に上がります。

つまり、神様が先頭に水の中に入って行かれ、渡っている最中もすぐ横でずっと見守り支え、最後の最後まで付き合って、最後尾を守りながら歩んでくださるのです。そういう神様でいらっしゃるのです。だから、私たちはこのお方が前にも後ろにもおられること、絶えずともにおられることを確信し、その臨在にいつも触れながら前進させていただけるということなのです。

 「勝利者」という賛美曲があります。苦しみ悩みながら、傷つき倒れながら、それでも主の支えを信じて、一人ではないと信じて前に進む。それこそ勝利者なのだという内容です。

この時、イスラエルの民が、ヨルダン川を渡ることを恐れ、その先にある試練を恐れ、前に進むことをしなかったのならば、彼らは豊かな自国を得ることもなく、ダビデソロモン時代の繁栄もなく、むしろ滅びの道をたどるしかなかったでしょう。恐れて退けば滅びでした。中にはエジプトで奴隷だった時代に戻ろうという声も多くありました。一応食べ物もあるし、死ぬよりはマシだろうと。でも、それは一時の安寧を求めて、備えられた恵みと祝福を捨て、ついには神との交わりを放棄して滅びに向かう道でした。事実彼らは、そうした不信仰のゆえに、長い間荒野をさまようことになり、この前の世代の者たちは荒野で息絶えたのです。

 そうではなく、悩み苦しみながらも主がいつもともにおられるのですから、この方の臨在の中で一歩ずつ前に進んで行きましょう。祈って口を開けて待っているだけでなく、祈りに応えてくださる主を信頼し、一歩を踏み出していきましょう。主はこの一歩を喜び祝福し、そこに道を備えてくださいます。



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