東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰコリント11章23-29節「聖餐とは」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

2021/10/11

Ⅰコリント11章23-29節「聖餐とは」

*** 10/10(日)主日礼拝 説教概略 ***

Ⅰコリント1123-29節「聖餐とは」


 先週は「洗礼」について教えられましたが、本日は「聖餐」についてともに教えられて参ります。聖餐式は、私たちの教会では月に1度ということで、定期的に持っています。ただ、聖書に回数の決まりは実はありません。ですので、中には毎週聖餐式を行っている教会もあります。また一方で、何か月かに一度という教会もあるのではないかと思います。

さて、聖餐式と言えばパンとぶどうジュースの杯。子どもたちにとっては、あこがれの物だったかも知れませんね。大人たちが何やら真剣に、大いに感謝してパンを食べ、杯を飲んでいる。その様子が子どもたちにはとても美味しそうに見える・・・


ちょうど聖餐式の時間は、お腹が空いてくる頃ですし。でも、子どもたちにそれを安易にあげるものではありません。なぜなら、聖餐のパンと杯は、イエス様を信じている人が受けることのできる厳粛なものだからです(もちろん、子どもたちの中で明確な信仰があって、確信の中にあれば受けるということもありですが)。

とはいえ、私たちは福音自由教会では、ある人たちのようにパンとぶどうジュースが実際にキリストのからだと血そのものであるとは考えていませんね。パンとぶどうジュースはあくまでも自然物質ですので、パンはパン、ブドウ液はブドウ液であるとします。それ自体にきよめの力があるといった理解をしません。それは先週の洗礼の水が、「特別な奇跡の水」というモノではないのと同じですね。

しかしながら、だからと言ってこれは単なる記念だと言うことで、軽んじるべきではありません。記念でもありますが、イエス様がお定めになった恵みの機会であり、信仰をもってこの聖餐にあずかる中で、霊的にも主の臨在のうちに祝福を受ける機会であることを覚えたいのです。  

今日は聖餐とはと題して、1.パンを味わう意義、2.杯を味わう意義、3.自身を吟味するとは、4.聖餐から宣教へ という4つのポイントで教えられます。
 


1. パンを味わう意義

 23後半から24節を味わいましょう。

すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」 

 主イエス様は「一つのパン」を裂き、ご自分の弟子たちに分け与えられ、わたしを覚えて食べるように言われました。それはキリストのみからだが、私たちの罪の赦しのために十字架で引き裂かれたことを覚えるものです。そして、聖書はキリストご自身がいのちのパンであり、このパンを食べるものは永遠に生きるとも語っています。ですから、パンを食することによって、イエス様と結び合わされ一つとされていることを覚えるのです。この一体性は本当に嬉しいことです。

 それは同時に、キリストを信じるすべての者たちが、キリストを通して一つのからだに結び合わされているということでもあります。私たちはみな、個性ある別の人格を持ったひとりひとりです。けれども、同じ主イエス・キリストを信じる神の家族、信仰の共同体とされたのです。ひとつのからだ、ひとつの信仰の中に、私たちは歩んでいるのです。

 イエス・キリストは「これがわたしのからです。ここから取って食べなさい」と言って、一つのパンを裂いて分けて与えられました。聖書中では、聖餐式のことを「パン裂き」と表現することもあります。それは同じキリストのからだを分け与えられているということで、「ひとつのからだ」を意識する時でもあるからなのです。

 それはこのすぐ後に続く12章でも語られていることです。私たちはキリストという「一つのからだ」に属する各器官なのだと語られています。多くの部分があるけれども、同じひとつのからだに結び合わされているのです。

 それを覚えるために、コロナになる前まで、皆さんが見ている前でひとつのパンを割いて、それをちぎり分け与える方法で行っていました。わざわざそれをしていたのは、私たちがバラバラではなく、同じイエス様によって結び合わされた神の家族であり、誰一人欠けてはならない存在であることを学び続けるためです。そこに欠けていい人、不要な人などありはしません

そうした意味を大切にしたいために、個装でパックされている聖餐グッズも売られているものの、それを用いることに躊躇を覚えるのも事実です。そして、様々な事情でこのパンを食せない状況にある人たちのことをも心に覚え、再びともに食することができますようにと祈るのです。

 それが、ともに喜び、ともに泣く、キリストのからだです。

 このような聖餐式を通して生まれる神の家族の絆について、ドイツのブルーダーという人がその著書(「嵐の中の教会~ヒトラーと戦った教会の物語~」)においてこんな事を語っています。

「聖餐式によって生まれる共同体は、国民共同体よりもはるかに深いものがあります。それはまったく国民の間の境など、はるかに超えうるものです。なぜなら、キリストのからだ、つまり信じる者の群れは、いかなる国境、いかなる民族に属する人をも含むからです。」



2. 杯を味わう意義


25 食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」 

 ぶどう液は、見た目から連想しやすいと思いますが、キリストの血潮を象徴するものでした。旧約聖書では「血はいのちの象徴である」と教えられています。

 実際、聖書の言うことは本当に説得力がある事を医学が証明していますよね。例えば、体内の血液が20~30%失われると人は死の危険に晒されます。多くの病気は血液と関係していて、血液検査をすると実に多くの課題が分かる仕組みになっています。血液をいかに良い状態に保ち、いかにしっかり循環させられるか。その辺りは健康のバロメータと言っても過言ではないでしょう。

 ですから、キリストが十字架の上で多くの血を流されたということは、私たちのためにいのちを削って下さったということです。その血にあずかるということは、キリストが注いで下さったその「いのち」にあずかることです。ぶどう液の杯を飲む時、イエス様のいのちの注ぎをいただくことを覚えたいのです。

 そして、血にはもう一つ大切な意味があります。それは契約のしるしです。昔の契約には血が流され、動物の血が用いられたり、血判といったものが用いられました。杯を交わすということも、契りを交わすということで切っても切れない契約を結ぶ意味がありますよね。

 この杯を飲みながら、イエス様を救い主として信じる者は、誰でもあって罪赦され神の子とされるという約束、契約が確かであることを覚えて感謝の時とするのです。
 


3. 自分を吟味するとは

 
 27-29節では、ふさわしくない仕方で、あるいはふさわしくない者が、その意味もわからずこれを飲み食いするならば、かえって罪を犯すことになってしまうと語られています。私たちが信仰を吟味するために、意味のある言葉です。これはキリストを信じてもいないのに、聖餐の恵みだけを受けようとすることや、信じているとウソをついて悪意を持って受けるならば、それはすべてをご存知の神様の前にかえって罪を犯すことになるというものです。人は騙せても神様は騙せませんよね。そういう意味では、私たちがはっきりとイエスをキリストであると信じていることを確認する機会でもあります。また、信じている者たちは、主の御前に心探られ、罪から立ち返る恵みの機会であるとも言えるでしょう。ただし、これは信じている者を不安にさせる問いかけではありません。特に「私のような者が受けて良いのでしょうか?」と自分の罪深さや不信仰に思い悩むことがありえます。

 でも、そのような方にお伝えします。「キリストを信じていらっしゃるのならば、自らの汚れを主の前に告白しながら、ぜひこの聖餐にあずかってください」と。少なくとも主を信じているのならば、自らの罪に涙しながらでも、むしろ積極的にあずかって良いのです。その赦しを、その救いの恵みをしっかりと確認する機会にしていただきたいのです。

ですから、聖餐式は、悔い改めの機会でもあり、罪赦され救われているのだと感謝する機会であり、主がともにおられる恵みをみんなで励まし合いながら覚える機会です。

 

4. 聖餐から宣教へ

 
 聖餐式には宣教的な意味合いもあります。23節にこうあります。

23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。

主から教えられた弟子が、それを次の弟子に伝え、さらに次の次の弟子に伝える。こうして、キリストによって制定された聖餐が、キリスト昇天後の時代においても、すでに継続的に次の世代へと受け継がれ、守られてきたということを意味しています。人が救われ新たな弟子が生まれ、さらに次の弟子に受け継がれ・・・そのようにして次世代の弟子へと主の教えが継承されていくことは、宣教の土台にあることでしょう。

26節にもこうあります。

26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。

 この聖餐式で、私たちは主の臨在を覚えます。主の救いのすばらしさを再確認します。私たちが一人ぼっちではなく、同じキリストのからだに属する仲間、家族であることを覚えます。そして、ここから励まされて、主の再臨の時に至るまで、主の十字架の死と復活を告げ知らせていくのです。こうして聖餐において、信仰を確かめ、励まし、そして世に遣わされて行きます。

  カルヴァンは聖餐式を指して「霊的祝宴」と言いました。霊的なお祝いの宴です。それは、やがて天国で持たれる神様を中心とした大祝宴の練習、前味でもあります。そこに向かって、それを楽しみに期待しながら、そこにある希望を告白しながら歩んで行くのです。天国での神様との大祝宴を期待して歩んでいるその姿もまた、多くの神を知らない人への証し、励ましとなることでしょう。

私たちはこの地上での日々が終わりを告げるまで、この聖餐式を持ち続け、何度倒れつまずこうとも、同じ主のからだに属する兄姉たちと一緒になって、すばらしい天の御国を目指して歩み続けるのです。




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