東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 民数記11章24-29節「主にある総活躍社会」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2022/04/13

民数記11章24-29節「主にある総活躍社会」

*** 4/10(日)主日礼拝 説教概略 ***

民数記11章24-29節「主にある総活躍社会」

 少し前に、日本政府は「一億総活躍社会」を目指すという方針を出しました。少子高齢化のこの時代に、若い者から年配の方までが活躍できる社会にし、そのみんなの力の結集で国力を上げるというものです。


 決して悪くない考えだと思います。それこそ聖書は、どんな人でも神様からすばらしいギフト、賜物を与えられていることを教えています。どんなに弱さを抱える者でも、神様は用いてくださるのです。一部の信徒リーダーや献身者だけでなく、すべてのクリスチャンがイエス様のようになり、神様に用いられ愛のわざにおいて大活躍したら、どれほど多くの人が救われ、世界が良くなることでしょうか。ある種の理想ですね。



1. 総活躍社会を妨げるもの


 ただし、そこには課題があります。人はお互いの活躍を喜び合う代わりに、ねたみの心を持ってしまい、時に足を引っ張り合ってしまうことさえあるという深刻な課題です。いわば、お互いの活躍を心から歓迎し合えないのです。

聖書で最初の殺人事件、それは兄カインが弟アベルを殺してしまうという兄弟殺しでありました。しかも、その動機は「ねたみ」でした。弟のアベルが兄である自分より神様から認められているように思えたのです。残念ながらカインは弟に「あなたの忠実な姿勢が神様に喜ばれたんだよ!良かったね!」とは言えなかったのです。
近い立場の者だからこそ、自分が上だと思っていたからこそ、何か弟に負けた気がして受け入れがたかったのでしょう。

イエス様が権力者たちから殺意を抱かれた動機も「ねたみ」でした。他のユダヤ人教師、指導者たちからねたまれた、また「異分子」だと見なされたのです。イエス様が断然人気があり、愛されており、その教えもずば抜けていたからです。やはりその活躍を素直に喜べず、その教えや正しさが受け入れられず、殺意を抱いたのです。


このように考えると、他の人の活躍を素直に喜ぶということは、簡単なようでいて、意外と難しいことであると思わされます。
私たちがお互いを生かし合おうと努めるならば、その先に総活躍社会も見えて来るでしょう。けれども、悲しいかな・・・私たちの罪の性質は、異なる者の活躍を喜ばないのです。ですから、29節のモーセのことばに私たちも教えられたいと思います。

そこに主のみこころが現れているからです。

 

2.異変
 
 モーセが自分一人では、この民の重荷を負いきれないと神様に訴えた時、神様は助けを与えてくださいました。70人の長老たちを選ぶよう言われました。そして彼らにご自分の霊を分け与え、モーセの働きを一緒に担ってくれるようになるとのことでした。モーセはそれを聞いて従い、70人の長老を立てました。すると、神様はこれに応えてくださいました。
 25節です。

25 すると主は雲の中にあって降りて来て、モーセと語り、彼の上にある霊から一部を取って、その七十人の長老に与えられた。その霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言した。しかし、重ねてそれをすることはなかった。 

 神様の御霊、その霊をこの長老たちのうちに授けました。モーセの上にある霊から一部を取ってとありますように、モーセに与えていたのと同じ主の御霊を分け与えたということが明確にされています。ですから、モーセとほぼ同じように彼らが用いられたいうことです。ただし、25節の最後に「しかし、重ねてそれをすることはなかった」とあり、この預言の働きに関しては一時的なものであったということでしょう。

 さて、ここに一つの異変が起こっています。26節です。

26 そのとき、二人の者が宿営に残っていた。一人の名はエルダデ、もう一人の名はメダデであった。彼らの上にも霊がとどまった。彼らは長老として登録された者たちだったが、天幕へは出て行かなかったのである。彼らは宿営の中で預言した。 

 70人の中の2名がモーセの命令に従わなかったということです。他の長老たちはそれぞれ、中央にあった天幕の周りに立って仕えました。けれども、この二人だけは、自分たちの宿営に留まったままで、神の会見の天幕に出向いて行くことをしなかったのです。

 このことを知ったある若者が、モーセにこの出来事を告げに来ました。すると、モーセが何か言うより先に、弟子のヨシュアが自分の意見を言いました。おそらく、やや感情的になっての発言でしょう。

28 若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」 

 ヨシュアは若い時からモーセの横でつき従い、一番弟子のような存在でした。彼こそはモーセを最もリスペクトしていた一人でしょう。ですからこの二人の行動が気に入らず、過剰に反応してしまったのでしょう。この長老たち70人は、神様がモーセに与えていたのと同じ御霊を分け与えたのですから、モーセが70人増えたような感じです。「この人たちがいれば、もうモーセさんに頼らなくても大丈夫だ!」きっと、人々もそう思ったでしょう。

 しかも、そのうち2人は指示通りにしなかったある種の「異分子」です。ヨシュアはモーセの代わりに危機感を覚えたことでしょう。このままではモーセさんの立場がない!

 29節のモーセのことばを見ると「あなたは私のためを思って、ねたみを起こしているのか」とあります。ヨシュアは自分がモーセの立場ならばと共感し、まるで自分のことのようにモーセの代わりに「妬み」を抱くほどであったということでしょう。それで「彼らをやめさせるべきです」とモーセに進言しました。

 

3.見落としてはならない真理 

 しかし、ここで見落としてはいけないことばがあります。

26節にもう一度目を留めましょう。

26 そのとき、二人の者が宿営に残っていた。一人の名はエルダデ、もう一人の名はメダデであった。彼らの上にも霊がとどまった。 

 彼らはモーセの指示とは異なる行動を取りました。しかし、彼らの上にも主の霊がとどまったのです。同じ神の霊的な助けを受けていたのです。一見、異なる行動に見えますが、彼らもまた神様の導きの中にいたということです。これが見落としてはいけない真理です。

ただ、人は自分と異なる考えや行動を取ると、異分子と見なしやすいものです。同じ主のみことばの預言をしているはずなのに、ヨシュアは彼らがモーセを追い抜こうとしているのでは?と考え、派閥が生まれるのでは?と、「やめさせよう」と動きました。しかし、大切な一事を見落としていたのです。彼らの上にも主の霊がとどまっていたということです。


 モーセはここで「真のリーダー」としての資質を発揮し、ヨシュアを指導します。妬みに支配されず、主のみこころに目を向け「おおらかな姿勢」で受け止めているのです。

29 モーセは彼に言った。「あなたは私のためを思って、ねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となり、主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」 

ヨシュアの気持ちを思いやりつつも、主のみこころを求めているのです。「主の民がみな、預言者となり、主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」。モーセにも妬みの心がなかったわけではないでしょう。彼自身中に「ねたみ」が少なからずあるからこそ、「ねたみを起こしているのか」ということばが発せられているからです。

 異分子への恐れもあったかも知れません。しかし、モーセはだからこそ、神様のみこころを第一に求めたのです。その結果、このことばが生まれたのではないでしょうか?

「主の民がみな、預言者となり主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに」 

教会で大切にしたい真理です。

 

4.主のみこころに目を向ける 
 
 これが神様のお心と同じものであったことは、新約聖書が証明しています。まず、イエス様も弟子たちに同じように教えました。

マルコ938-41 
38節 ヨハネがイエスに言った。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」
39節 しかし、イエスは言われた。「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。
40節 わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。
41節 まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。 

 イエス様もモーセと同じように、狭い心になって排除することをせず、むしろ広い愛のお心で多く者たちを受け入れるよう指導したのです。さらに言うと、パウロもそのように考えていました。パウロと競って、競争心を動機として宣教する者たちがいたのです。動機は良くないでしょう。それでも彼は、キリストの御名が広められていることを大きな愛の心で喜んだのです。

 そして、何よりもペンテコステの出来事は、モーセのことばが主のみこころと同じであったことを証明しました。すべてのキリスト者に、神の聖霊が注がれたのですから!!

 誰であっても、主を信じる者は神の聖霊の助けを、その力を存分にいただくことができるようにされたのです。能力によりません。権力によりません。ただ、神の霊によって、良い働きができるのです。

 

 私たち自身はむしろ、何の変哲もない地味な土の器で良いと考えたいのです。私たちではなく、私たちを救ってくださった主の御名があがめられることを願い、そのためには自分が用いられなくても良いと。神様に愛され用いられる器は、主の広い大きな愛の波を大切にするのです。

神の栄光が現わされることや、一人の人の救いや成長をこそ何より願うのです。その大切なことの前には、自分のプライドが踏みにじられようと、自分のしたことが評価されまいと、関係なく、ただただ主のみわざを喜ぶのです。それが御霊のなさるわざです。

私自身、肉の思いでは、この「妬み」の罪と戦う一人です。時折、私たちの教会でも内部・外部問わず、色々な方がメッセージのご奉仕をなさいます。私の心からの願いは、その方々が用いられて、主のみことばが真っすぐに語られ、皆さんが救われ、あるいは養われることです。ウソ偽りなくそう願っているのです。それにも関わらず、他の方のメッセージにあまりにも多くの兄姉が感動し、喜んでいる姿を見るとき・・・時に心騒ぐことがあります。

喜んでいます。感謝しています。それでもなお、皆さんを感動させ、喜ばせることができたのが、「私の説教」であったら良かったのに・・・と思うことがあるのです。

本当にお恥ずかしい罪の姿です。 

そんな自分を喜べるでしょうか? 喜ぶ存在が唯一あるとすれば、サタンでしょう。

 私のもっと深いところにある願いは、こんな小さな心から解放され、何の妬みもなく主のみことばが語られ、すべて人々が良きメッセンジャーとして用いられることです。それはまさに、主にあるすべての人が存分に豊かに、自分以上に用いられていく「主にある総活躍社会」となることです。

 

5.受難週 キリストの十字架を見上げて 
 
 今週は受難週です。キリストが何のために十字架にかかられたのか。しっかりと心に刻みたいと思います。キリストこそ私たちの平和なのです。主こそは、私たちの間にある敵意を十字架において滅ぼし、隔ての壁を壊されたお方です。交わることない者たちを一つにしてくださったのです。

 私たちはそれぞれ違う考え、異なる意見を持っています。ですから、真剣にやろうとするほどに、そこで衝突も起こります。しかし、違いがあること自体が悪いことではないのです。

むしろ、異なる考えを許容しない狭い心や、他の人の活躍を素直に喜ばない心こそ、私たちが戦うべき相手です

しかし、もう私たちはこれらの罪に勝利をしました。イエス・キリストの十字架はそのためです。主の犠牲は小さいのでしょうか?これらを廃棄できない程度の、小さなわざでしょうか? 何ら罪のない神の子のいのちが注がれたのです。

 どんな敵意や愛なき狭い心をも砕き、大きな愛の働きのために私たちを一つにされる救いの力なのです。



教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *