*** 4/6(水)祈祷会 説教概略 ***
創世記4章、ヘブル11章4節「信仰によって語るアベル」
聖書人物シリーズで学びをしています。
この4章冒頭は、通常ですと「カインとアベル」と二人の名前が同時に挙げられることが多いでしょう。また、内容としては、殺人の罪を犯したカインが中心となって話が展開されていきます。ですが、今回は少し視点を変えて、目立たなかったアベルにフォーカスをして教えられたいと思っています。
ただ、実際のところは、アベルには何らセリフの記録が残されていません。カインの場合には、神様とのやり取りがあって、彼の罪深さが象徴されていますが、アベルは一言のセリフも記録されていないので、どこか存在が薄い印象があります。それでも、彼の信仰の姿勢に目を向け、主が彼を良しとされたことに心を留める時に、そこにある主のみこころに気づかされます。2節です。
2節
彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。
アベルはアダムとエバの二番目の息子として生まれました。彼もその兄も成長して仕事ができるぐらいになりました。アベルは羊飼いとなりました。一方、彼の兄カインは大地を耕す者として歩んでいました。もちろん、これらの仕事において優劣はありません。どちらも主のみこころに沿ってなしていくなら、良い仕事ではないでしょうか。
しかし、この後神様にささげ物をする際に、大きな違いが生まれています。3-5節。
3節
しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。
4節 アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。
5節 しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。
ここにまず、アベルの生きざまが現れていますね。カインの場合はただ単に「大地の実りを主へのささげ物として持って来た」と語られています。しかし、アベルに関しては「自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た」とその姿勢が詳しく語られています。
1.アベルのささげ物からわかること
ここでわかることは・・・、
第一に、アベルは「初子」の中から取って持って来ました。それは最初に神様のために「聖別する」という姿勢です。残り物や余ったものではないということです。お小遣いをもらったら、お給料が与えられたら、まずその10分の1を感謝として主のために取り分ける。子どもたちにもそれを教えてきました。そこは神様のものなのだから、それは最初に感謝して取り分けて献げるのだと。自分が散々色々と使って、余ったから献げようというものではないと。アベルはこれをしっかりと意識して、忠実にしていたのだと分かります。
第二に、彼は肥えたものを持って来たとあります。以前の訳では「最上のもの」と訳されていましたが、より直訳的なのが「肥えたもの」になります。家畜に関して言えば、やせ細ったものではなく、元気で食欲のある肥えたものが良質であると理解されていたからです。このようにして、アベルは良いものを、おそらく彼が見る中でベストだと思うものを神様に持ってきたのです。
神様は当然に、彼らのその姿勢、心、すべてを見ておられます。すべてをご存知の主によって、アベルとそのささげ物に目を留められました。しかし、カインとのそのささげ物には目を留められませんでした。4-5節には、それが語られていますが、注目すべきことは、ささげた人物の心を主がご覧になっているということです。
2.罪にとわれたカイン
これによって、兄のカインは非常に強い妬みを覚えてしまいました。5節によれば彼は「激しく怒りを覚え、顔を伏せた」ことが分かります。ただ、それは当然のことでした。彼にはアベルのような姿勢がなかったのでしょう。感謝の心、神様をあがめる心、そうしたものの欠如が、彼の姿勢、彼の持って来たものに凝縮されていたということでしょう。
そのことの説明が主のことばによってなされています。6-7節。
6節
主はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。
7節 もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」
受け入れられなかった=カインは良いこと(正しいこと)をしなかったのだ・・・とわかります。
それは本人が一番わかっていたはずです。残念ながら、この後、人類史上最初の殺人事件が起きてしまいます。しかもそれは、兄弟殺しという悲しいものでありました。動機は「ねたみ」でありました。8節です。
8節 カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した。
これにより、アベルは死に、それ以降登場しません。ただ、死が終わりではないということを意識させられます。彼のことばは何一つ記録されていませんが、新約聖書の説き明かしの中で、彼はその信仰によって語っていると伝えられているのです。
3.信仰によって語るアベル
ヘブル人への手紙11章4節
信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。
アベルのセリフがないことが意識されながら語られていますね。アベルは信仰によって、カインよりもすぐれたいけにえを神様に献げ、それによってアベルが正しく行ったことが証しされたと言います。神様が、良きささげ物をしたのだと証しをしてくださったと。
私たちは他の誰でもない、神様にこそ良くやったと認められることを大切にして生きて参りたいと思うのです。
今、時代はSNS。「いいね」を押し合う時代です。「いいね」の数を競い、視聴数を競う時代です。それこそ妬みも生まれることでしょう。それが収益、人気に影響します。
でも、私たちは神様から「いいね」を一ついただければ、それ以上のものは不要ではないでしょうか。
どんなに「いいね」と言う評価をもらい、視聴数が増えたとしても、神様に喜ばれない心でいるのなら、そこに価値はありません。それは一時的なもので、必ずいつか失われていくむなしいものです。
また、YouTuberの中には、悪いことをして目立って視聴数を稼ぐ人も少なくありません。人の目に目立とうとする時、正しい良いことよりも、人にウケるために道を踏み外しさえしてしまうのですよね。
主が良くやった。良い忠実なしもべだと言ってくださる。そこに心を向けたいものです。
しかも、アベルは、カインに殺されてしまったのですが、今の時代にもなお、彼はその信仰によって語り続けているのだと説き明かしています。これは何か、日本人の精神にはとてもピッタリ来る姿に思えますね。昔から日本には「背中で語る」という表現があります。口うるさく言うよりも、その生き方で示すのだという考え方です。
そのように、時にその生き方や態度がどんなことばよりも雄弁であることがあります。
私たちもあれこれ理屈をこね、弁解をする歩みではなく、心から主を愛し、主に対して忠実に生きる歩みをもって、証しをしたいものです。
愛を口先で語るのではなく、実際に愛することをもって現わして参りたいと思うのです。時に、ことば数は多くなくて目立たないけれども、主の前に大変忠実に歩んでいる方がいらっしゃいます。