東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 創世記6章「晴天の日に洪水に備えたノア」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

現在、コロナの感染状況を考慮し、夜の祈祷会はお休みしています。先日の地震で被災された方々の上に神の慰めと支えがありますように。

2022/04/22

創世記6章「晴天の日に洪水に備えたノア」

 *** 4/20(水)祈祷会 ***

創世記6章「晴天の日に洪水に備えたノア」

 信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものである。
 ヘブル書11章冒頭にそうあります。

 私たちはまだ起こっていない再臨も御国の完成も、見えなくとも心から信じ期待して歩む者であります。晴天の日に洪水に備えたノアの信仰に目を向け、そこに示されてある主のみこころを知る機会とさせていただきましょう。
 
 創世記131節では、創造された一切をご覧になった神様が「それは非常に良かった」とおっしゃいました。ところが、罪が入って以来、時代とともに、この世界はどんどん悪くなってしまったのです。創世記6章を開きます。

6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。
6:6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
6:7 そして主は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」

6節では「地上に人を造ったことを悔み、心を痛められた」とあります。神様はすべてご存知ですから、厳密には神様に「後悔」ということはないでしょう。

けれども、神様の悲しみや残念に思うお心を、私たち人間がよく理解できるように、人間の感性に寄せて表現してくださった技法であると言えます。人を造ったことを悔やみ、心を痛められたというのは、私たちにはとても分かりやすいですよね。

愛を込めて造ったからこそ、望まない悪い方に向かってしまった姿を、誰よりも胸を痛めて見つめておられる主のお姿です。他の個所でも、甘いぶどうを期待したのに、酸いぶどうが出来てしまったとの表現があります。

そして主は、7節を読むと、一度この世界を白紙に戻すかのように、「地の面から消し去ろう」とおっしゃっています。先週は受難週で、「見捨てられても仕方ない私たち」の代わりに、主イエス様が見捨てられたと学びました。まさにこの洪水の時のように、本来私たちは「地の面から消し去られても仕方ないような罪人であった」との受け止めもできるかと思います。

しかし、ノアとその家族が主のおことばを信じて箱舟を用意して救われたように、御子を信じる者は、その十字架(という箱舟)によって救い出していただいたのです。その意味では、ノアの箱舟は、キリストの十字架を示すひな型の一つとも言えるでしょう。


さて、それほどに罪が蔓延していた世界において、ノアの存在は神様にとって嬉しいものであったことでしょう。8節によれば、ノアは「主の心にかなっていた」からです。

もちろん、カンペキだったわけではありません。彼も一人の罪人です。ただ、その中でも神様を信じて、悔い改めながら、そのみことばに従って生きていたということです。

622節をご覧ください。
6:22 ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。

続く75節でもこうありますね。 ノアは、すべて主が彼に命じられたとおりにした。 

私たちも誤解しないで受け止めたいのです。「主のみこころにかなう歩み」とは、罪を一つも犯さない歩みではありません。罪や弱さを抱えながらも、ノアのように主のおことばに従っていく歩みであるということです。主を求め続ける歩みです。


それにしても、これは大変大きな船でした。
6章15節にサイズが記されています。箱舟の長さは300キュビト。幅は50キュビト。高さは30キュビト(1キュビト44センチ換算:長さ132m、幅22m、高さ13m)。3階建ての船です。

しかも、造船の知識、技術もほとんどない時代に。とんでもない規模です。そして労働力は・・・家族を最大限に含めても8人です。ノア夫婦と、3人の息子、それに3人の息子の妻達。えらいことです。

誰が見てもばかげている。ばからしいと思えることです。それでも主のおことばだからと従ったのです。尚、この船の比率はすごいもので、現代の大型タンカーで採用されている比率と同じだと言われます。20世紀になって、流体力学の研究の中で最も沈みにくい黄金比として出てきた数字が、ノアの箱舟の比率と一緒だったという驚くべき事がわかりました。

まさに、わからない中でも信じたノアは、知らない内に最も沈みにくい船を造っていたことになります。主は全知全能だということの証明の一つです!

 

 また、ここに信仰のモデルがあります。何のしるしもないのに、主のおことばを信じて、大きな舟を作ったという信仰です。既に起こったことでさえ、内容が荒唐無稽であれば信じ難いものです。しかし、ノアに関して言えば、まだ起こっていない出来事であり、同時に大雨で陸地がみななくなるという途方もない話です。

 それを信じて、晴天の日々に備えをしたということが、彼の信仰の現れでありました。雨がずっと降り続けて来て、これはもしかしたら・・・と思える状況なら、従いやすかったかも知れません。

 でも、まだ、雨が降らないときに、神様のことばを信じて従ったのです。

とても純粋な信仰ですよね。ヘブル書の117節は彼の信仰をこう語ります。

信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。 (ヘブル人への手紙 117節)

 「まだ見ていない事柄について」ということばが印象的です。既に起こったことはもちろん、まだ起こっていないことでも、主がお語りになることなら信じるのが信仰ですよね。


 私たちもここに立って参りたいと思うのです。「福音の種をまく」という働きは、とても地味で忍耐深い作業です。それでも、この種蒔きのだいご味は、やがてそこから芽が出て実りをもたらすと信じて種を蒔き続けることです。

 それを実際に見ていなくても、主がそうなさるに違いないと信じて、期待に胸を膨らませながら蒔くのです。信仰者は「種蒔き」さえも、将来の実りを信仰の目で見るかのようにしてさせていただける。それが嬉しいのです。

 そして、主はその実りを、全部ではないけれども、時折見せてくださるのです。10年たって、20年たって、その実りを何かしらの形で見ることができるのは幸いです。学生時に伝道していた方が、何年も後になって救われたことを聞き感謝しました。他にも後になって、あの時蒔いた種が!!という出来事を幾度も経験させていただきました。

 主は真実な方なので、私たちの働きを決して無駄にはなさらないのです。ですから、今はまだ見えなくても、信じて期待して主に従い続けることです。


 そして、この信仰は、まだ見ぬキリストの再臨に対しても、非常に有益な信仰となることを聖書は教えています。

マタイ2437-39にノアの出来事が語られます。 

37節 人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。
38節 洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。
39節 洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。(マタ2437-39節) 

 信じないで、まだ大丈夫とタカをくくっている者たちに、主イエス様のこのことばは刺さりますね。主は必ず再臨されます。その日は間違いなく近づいている。だから、信じて今すべきことを忠実に、主のことばに従っていきましょう。



教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *