創世記6章「晴天の日に洪水に備えたノア」
6節では「地上に人を造ったことを悔み、心を痛められた」とあります。神様はすべてご存知ですから、厳密には神様に「後悔」ということはないでしょう。
けれども、神様の悲しみや残念に思うお心を、私たち人間がよく理解できるように、人間の感性に寄せて表現してくださった技法であると言えます。人を造ったことを悔やみ、心を痛められたというのは、私たちにはとても分かりやすいですよね。
愛を込めて造ったからこそ、望まない悪い方に向かってしまった姿を、誰よりも胸を痛めて見つめておられる主のお姿です。他の個所でも、甘いぶどうを期待したのに、酸いぶどうが出来てしまったとの表現があります。
そして主は、7節を読むと、一度この世界を白紙に戻すかのように、「地の面から消し去ろう」とおっしゃっています。先週は受難週で、「見捨てられても仕方ない私たち」の代わりに、主イエス様が見捨てられたと学びました。まさにこの洪水の時のように、本来私たちは「地の面から消し去られても仕方ないような罪人であった」との受け止めもできるかと思います。
しかし、ノアとその家族が主のおことばを信じて箱舟を用意して救われたように、御子を信じる者は、その十字架(という箱舟)によって救い出していただいたのです。その意味では、ノアの箱舟は、キリストの十字架を示すひな型の一つとも言えるでしょう。
続く7章5節でもこうありますね。 ノアは、すべて主が彼に命じられたとおりにした。
私たちも誤解しないで受け止めたいのです。「主のみこころにかなう歩み」とは、罪を一つも犯さない歩みではありません。罪や弱さを抱えながらも、ノアのように主のおことばに従っていく歩みであるということです。主を求め続ける歩みです。
また、ここに信仰のモデルがあります。何のしるしもないのに、主のおことばを信じて、大きな舟を作ったという信仰です。既に起こったことでさえ、内容が荒唐無稽であれば信じ難いものです。しかし、ノアに関して言えば、まだ起こっていない出来事であり、同時に大雨で陸地がみななくなるという途方もない話です。
それを信じて、晴天の日々に備えをしたということが、彼の信仰の現れでありました。雨がずっと降り続けて来て、これはもしかしたら・・・と思える状況なら、従いやすかったかも知れません。
でも、まだ、雨が降らないときに、神様のことばを信じて従ったのです。
とても純粋な信仰ですよね。ヘブル書の11章7節は彼の信仰をこう語ります。
信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。 (ヘブル人への手紙 11章7節)
「まだ見ていない事柄について」ということばが印象的です。既に起こったことはもちろん、まだ起こっていないことでも、主がお語りになることなら信じるのが信仰ですよね。
私たちもここに立って参りたいと思うのです。「福音の種をまく」という働きは、とても地味で忍耐深い作業です。それでも、この種蒔きのだいご味は、やがてそこから芽が出て実りをもたらすと信じて種を蒔き続けることです。
それを実際に見ていなくても、主がそうなさるに違いないと信じて、期待に胸を膨らませながら蒔くのです。信仰者は「種蒔き」さえも、将来の実りを信仰の目で見るかのようにしてさせていただける。それが嬉しいのです。
そして、主はその実りを、全部ではないけれども、時折見せてくださるのです。10年たって、20年たって、その実りを何かしらの形で見ることができるのは幸いです。学生時に伝道していた方が、何年も後になって救われたことを聞き感謝しました。他にも後になって、あの時蒔いた種が!!という出来事を幾度も経験させていただきました。
主は真実な方なので、私たちの働きを決して無駄にはなさらないのです。ですから、今はまだ見えなくても、信じて期待して主に従い続けることです。