東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: コロサイ1章15-20節「神の御子を知ろう」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/05/23

コロサイ1章15-20節「神の御子を知ろう」

*** 5/23(日)主日礼拝 説教概略 ***

コロサイ1章15-20節「神の御子を知ろう」

 昨日の青年会の集いで開かれたみことばは、マタイの福音書の1128-30節のみことばでした。多くの人に親しまれている有名なみことばです。ゆっくりお読みしますので静かにお聞きくださればと思います。イエス様ご自身のことばです。

28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」 


 ある部分をやや強調して読ませていただきました。「わたし」というところです。私たちを心身ともに休ませてくださり、荷を軽くし、新しい喜びある人生に導かれるのは「わたし、キリスト」であると何度も繰り返し確認されているのだと分かりますね。

 今日、与えられているみことばにおいても、同じように「御子」ということばが何度も繰り返し語られています。これは、もちろん「御子イエス・キリスト」のことです。 

 これらのことから分かるのは、とにもかくにも、私たちの信仰は「神の御子イエス・キリストを知ることなのだ」ということです。

私たちがいつでも主イエス様を見つめ続けて歩むこと、この方を知ってともに歩むことは、信仰生活が生き生きと喜びにあふれるために必要不可欠なことなのです。

 実際、ペテロが湖の上に足を踏み出した後、風と波に惑わされイエス様から目を離した瞬間、沈みかけました。怖くなったからです。あるいは、イエス様の十字架の死後、一時的に弟子たちは怖くなり、家に閉じこもり、震えていました。それは、イエス様は「神の御子だから復活される!」と信じられなかったためでした。「イエス様はいなくなった・・・もうダメだ」と思って失望したからです。

 この点はまさに、今日の手紙の宛先である当時のコロサイの教会にも言えることです。御子の理解の不足のゆえに、様々な偽りの教えに惑わされ、混乱し、疲れ果て、喜びが失われてしまっていたのです。もったいないことです。

 キリスト教会なのに、キリストを十分に知らない。様々な誤解、ウソの教えに惑わされていたのです。主を知らないことによって、休ませていただくどころか、かえって混乱と疲れに見舞われていたのです。

「キリスト教会」でありながらも、御子キリストをよく知らないということが起こりえる事に気づかされます。イエス様を信じ、イエス様と親しく歩んでいる人のことを何と呼ぶでしょうか?キリスト者とか、クリスチャンと言いますよね(厳密には「クリスティアン」)。クリスティアンとは、言葉の用法としては「ベジタリアン」等と一緒です。ベジタリアンは、菜食主義者、野菜大好き、野菜ばかり食べて生きる人です。当然に、野菜について詳しいし、野菜の栄養価、その価値を見出している人です。では「クリスティアン」は?キリスト中心、キリスト大好き、キリストについて詳しく、キリストの栄養価を知り、キリストに価値を見出している人です。

 私たちも名前だけで中身のない者とならないよう、御子を知り続けて参りましょう。

 

1. 御子の先在性(と創造のみわざ)
15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
16 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。 

 ここで語られていることは、御子は、あらゆる物より先に存在し、むしろこの世界を創造なさったお方であるということです。しばしば、イエス様は新約聖書になってから初めて登場されたと誤解されることがあります。

 しかし、そうではないのです。御子イエス様が、15節では「すべての造られたものより先に生まれた方」と語られ、17節では「万物に先立って存在していた方」であると語られているのです。世界の造り主で、最初からおられた方だからこそ、この世界のすべてをご存じであるからこそ、この方から学ぶ者は、本当の意味で安らぐことも分かり、真の意味で有意義に働くことも可能とされるのです。

 かつて未信者の時に、日本の様々な神々について思ったことがありました。知恵の神とか力の神とか、安産の神とか受験の神とか・・・。部分的で「自分の分野以外よくわからないし、権限もないよ」という分業制なのか?と疑問に思ったことがありました。

 自分の分野以外は苦手?祈っちゃいけないのか?と。

 このような人によって考えられた神とは、まったく違う全知全能の神様だと分かります。

 だから、何でも祈っていいのです。これはこの神様にお願いしても、あまり得意じゃないだろうな・・・という事はないのです。

 すべての最初であり、「すべて」を造られたと明言されているからです。

 加えて興味深いことは、16節で「見えるものも見えないものも」御子にあって造られたとあります。この世界が見えるものだけで成り立っているのではないと分かりますし、イエス様は見えるすべてのもの、そして見えないが存在するすべてのものの頂点に立つお方だと分かるのです。

 だから、この方のもとに身を寄せ、教えられ、この方に助けを求めるのです。愛も優しさも、友情も、希望も目に見えませんが、それらさえ御子は創造された側の方であり、その豊かさも美しさも知り尽くしているので、私たちに教えてくださることができるのです。

 

2.御子によって神を知る 

 私たちは神というお方を見ることができません。永遠であり霊なる方なのでいると分かっても、実際に誰も目撃できないのです。しかし、神様はある方法で、霊なるご自分のことが人間にもはっきり見えるように、良く分かるように助けてくださいました。盲目な私たちのために、とても「わかりやすい」かたちで示されたのです。それが御子イエス様を通して現すということでした。

 15節の最初に「御子は、見えない神のかたちであり」とある通りです。見えないはずの神をわかるように現した。それが御子なのだと言うのです。また、19節にもこのように語られていますよね。19 なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、

掴みどころのない神ではなく、イエス様と言う人間の姿となられた御子を通して、その人格が良く分かるようにされ、多くの人々が証言や証拠を残しているのです。これは本当にすばらしい神の知恵です。人となって来られ、人の間に住まれ、つまり「人間」として歩まれました。

神である方が、人間の友・仲間、話し相手、助けて教えてくれる方となった。あるいは敵対し、論じ合う相手となって、その人格を惜しみなく見せて、記録に残るようにされた。

「神とはこうです」という説明だけなら、私たちは頭でっかちな理解で、子どもたちにはわかりにくいでしょう?でも、イエス様のストーリーをお話、紙芝居、マンガで現わし、子どもたちでもイエス様を大好きになれる。小さな者でもわかるように、人の姿をもって歩まれた。

そして、出会った多くの人々は彼の中に神のご性質が満ち満ちていることを目撃したのです。実際のイエス様を間近で見た人々が、イエス様を通してこの世界の造り主、まことの神を知るということを経験し、それが聖書に残されているのです。イエス様の優しさ、賢さ、深いご愛、謙虚さ、柔和さ・・・それは神ご自身のご性質です。

 


3.御子は教会のかしら

 
 御子なるイエス様は「教会のかしら」、つまり教会を導くリーダー、責任者でいらっしゃるということ。 

18節 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。  

 教会に集う私たちは、いつでも私たちの先頭を歩んでくださるイエス様を見つめて歩みます。ここに「御子は初めであり」とあります。初穂ということばもよく使われますね。

 この方が通られることは、やがて弟妹である私たちも通ること。弟子である私たちも通ることであると言うことです。誰もがやがて死を迎えます。しかし、あのイエス様が死から復活され、栄光のからだ、永遠に朽ちないからだを持たれたように、私たちも同じようにしていただけるのです。
 
 すべてにおいて「第一の者」となられた主イエス様が、私たちにはおられるのです。これはなんと嬉しく励まされる主のご計画でしょうか??

 長男と呼ばれる存在、先駆者がいることは私たちに平安をもたらし、私たちの歩むべき道を示していただける恵みです。

 最初の人は本当に大変です。コロナの問題が起こった時も最初は誰もが戸惑いましたよね?どうしていいか分からないからです。けれども、経験し、慣れてくると、対応策がわかってきます。イエス様が死を通られ、そして人間に先んじて「よみがえって」くださった。ここに事実と望みがあります。御子を知ることは、復活の力を知ることです。

 この方が教会の真のリーダーですから、この方を見てついて行けば本当に安心ですよね。目を離し、この方が分からなくなる時、私たちは不安になり、信仰が落ちていきます。

 この方から目を離さずに歩んで参りましょう。



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