20節 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。
21節 律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。
22節 弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。
ここで質問です。パウロは何人だったでしょうか?
ユダヤ人です。ユダヤ人なのに、ユダヤ人のようになる・・・とは少し面白いですよね。
最初、パウロは教会の外にいました。彼は教会に敵対し、迫害していました。その頃は外から見た教会を知っていたし、クリスチャンの交わりに入ることへの様々な抵抗や難しさも知っていたでしょう。
しかし、ひとたび中に入りその中心になっていくにつれ、その感覚は失われていったはずです。私も最初、クリスチャンの交わりに対して、斜めから見ているところがありました。疑いの思いを持ち、偽善者でないだろうか?とさえ思っていました。しかし、その交わりになじむつれて立場が変わり、新しい人を交わりに招く側になったわけです。そうなると、改めて未信者には未信者のように、教会の外の人には教会の外にいる人のように、新しく来られた方には新しく来た者のようになる意識と祈りをもって寄り添わないと、これらの方々との距離は縮まらなくなります。
パウロはもうかつての価値観から離れた者であるときちんと受け止め、改めて意識的に、ユダヤ人一般の考えや価値観に耳を傾ける必要があると考えたのではないでしょうか。
そのようにして、自分とは異なる価値観に生きる人々のところに、自分の方から心を開いて歩み寄り、その考えに耳を傾けながら、ふさわしく伝えていく努力が必要なのだと証ししているのです。
「でもね、先生。ジョンソン博士でしたら、牛の話を一生懸命知ろうとしたでしょうよ。」と。
ジョンソン博士は、ダンス教師とはダンスを語り、メガネ職人とはメガネの製法を論じ、法律家と法律を論じ、医者とは病について語り合い、船大工とは船について語り、養豚家とは豚について語り合ったそうです。
私たちは福音を語りたい。十字架の話をしたい。神様のことを伝えたい。そうじゃないと時間を無駄にしているように感じるかも知れません。牧師は特にそうかもしれません。けれど、それがしばしば横柄な歩みになってしまう危険があるのです。「こちらの話は聞いて欲しいが、相手の話には耳を傾けない」という横柄さです。
しかし、これらのみことばを味わう時、私たちは「彼らの奴隷」となる愛を持つことの大切さを教えられるのです。むしろ、福音のもとにお連れしたいのならば、喜んでその人の興味関心のあるところを一緒に遠回りして歩きながら、十字架の福音を目指して行くのだと教えられるのです。
パウロが23節で「福音のためにあらゆることをしています」と語っているように、あらゆることは決して無駄にならず、福音というゴールを目指して行うことができるからです。もちろん、罪を犯すことにお付き合いしてはなりませんし、私たちの信仰を否定することや福音を放棄することは決してしてはなりません。
けれども、福音をしっかりと握りしめながら、その人の歩まれてきた道を一緒に歩むことで、伝わる福音の本質、愛というものがあるのではないでしょうか。
もしかしたら、こういう姿こそイエス様の姿かも知れません。雄弁に分かりやすく福音を語る・・・それはそれで尊いことでしょう。けれど、そうではない福音の伝え方も必要です。あらゆることを福音のためにすることができる私たちなのですから。
そして、教会に来るようになっていても、まだ明確に救われていない方、交わりに馴染めずにいる方。そういう方々にも、私たちは何とかして主の救いの交わりにしっかり留まれるようにしたい。「すべての人のために、すべての者となる」必要を覚えます。