東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: コリント人への手紙 第一9章19~23節 「何人かでも救うために」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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現在、コロナの感染状況を考慮し、夜の祈祷会はお休みしています。先日の地震で被災された方々の上に神の慰めと支えがありますように。

2022/05/25

コリント人への手紙 第一9章19~23節 「何人かでも救うために」

*** 5/25(水)祈祷会 説教概略 ***
コリント人への手紙 第一9章19~23節 「何人かでも救うために」
 
 人生100年時代と言われているにしても、私たちの人生はそんなに長いものではありません。あっという間に終わりの日を迎えるという言い方もできるかも知れません。

 ですから、与えられた限られた人生の中で、「いくらかでも人を救うお手伝いができた!(神様のもとにいくらかでも導けた!)」「そのためにお役に立てた」と思える経験をしたいものです。

 もちろん、救ってくださるのは神様であることは大前提です。その上でお役に立てたと思えるような関りを築くことができたらと願います。

 そう願いつつも、ふさわしいことばを伝えられなかったり、正しく語ることができなかったり・・・無力な自分にガッカリすることもありますよね。しかし、それは私たちだけの痛みではなく、聖書の時代からすべてのキリスト者が通ってきたことです。パウロもまた悩み葛藤しながら、本日の証しのあり方を学んできたのだろうと思います。

 

19節 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。 

 パウロが人々をどうにかして救うために、彼が取った方法として紹介されています。
すべての人の奴隷になりました」というインパクトのある表現です。

 キリスト者は自由を与えられた者です。十字架の贖いによって、罪の支配からも世の権力からも、人の目からも自由とされていくのがキリスト者でしょう。私たち福音自由教会も、聖書の福音を信じるゆえに、あらゆる権力から自由となる信仰を告白している群れです。

 しかし、パウロはそのキリスト者の自由を大前提とした上で、自由な意志によって、すべての人の奴隷となることを選び取っていると証しするのです。その目的は「より多くの人を獲得するため」であると言います。22節では「何とかして、何人かでも救うためです。」と言い換えられ、より多くの人を神の救いの恵みに導き入れることだと分かります。

 ここに人を神のもとに導く、救いに招くための一つのモデルがあります。20-22

20節 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。

21節 律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。

22節 弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。 

ここで質問です。パウロは何人だったでしょうか?

ユダヤ人です。ユダヤ人なのに、ユダヤ人のようになる・・・とは少し面白いですよね。

どういうことなのでしょう?

イエス・キリストを信じ受け入れた者は、天に国籍を持つ者、神の国の住人とされました。そして、徐々に元々自分が立っていた価値観から離れ、キリストのご性質へと変えられて行くのです。ですから、かつての未信者時代の自分の考え、価値観さえ、無意識のうちに過去のものとなって行くのです

最初、パウロは教会の外にいました。彼は教会に敵対し、迫害していました。その頃は外から見た教会を知っていたし、クリスチャンの交わりに入ることへの様々な抵抗や難しさも知っていたでしょう。

しかし、ひとたび中に入りその中心になっていくにつれ、その感覚は失われていったはずです。私も最初、クリスチャンの交わりに対して、斜めから見ているところがありました。疑いの思いを持ち、偽善者でないだろうか?とさえ思っていました。しかし、その交わりになじむつれて立場が変わり、新しい人を交わりに招く側になったわけです。そうなると、改めて未信者には未信者のように、教会の外の人には教会の外にいる人のように、新しく来られた方には新しく来た者のようになる意識と祈りをもって寄り添わないと、これらの方々との距離は縮まらなくなります

パウロはもうかつての価値観から離れた者であるときちんと受け止め、改めて意識的に、ユダヤ人一般の考えや価値観に耳を傾ける必要があると考えたのではないでしょうか。

そのようにして、自分とは異なる価値観に生きる人々のところに、自分の方から心を開いて歩み寄り、その考えに耳を傾けながら、ふさわしく伝えていく努力が必要なのだと証ししているのです。

弱い人を救うために、自分も同じ弱さの人になる。あるものを脇に置いて、ない者のようになって寄り添う。それをすべての人に対してしているのだと言います。 

実にこれが、私のまだまだ足りないところだと示されます。どうしても、自分の立っているところに、人を引っ張って行こうとしてしまうのです。相手の置かれている価値観、立場に寄り添わずに、自分の側に引き込もうとしてしまいます。その方が「楽」なのだと感じます。 

18世紀のイギリス人文学者でサミュエル・ジョンソンという人がいます。彼は皆から親しみを込めて「ジョンソン博士」と呼ばれていました。彼はパウロのように、その相手に対して優れた聞き手であったと言われます。

ある田舎の教会を牧するようになった牧師が、こんなことをある老婦人にぼやいたそうです。「信徒の皆さんが、みんな牛の話ばかりするんですよ。まったく。」と。すると、その老婦人は言いました。

「でもね、先生。ジョンソン博士でしたら、牛の話を一生懸命知ろうとしたでしょうよ。」と。

 ジョンソン博士は、ダンス教師とはダンスを語り、メガネ職人とはメガネの製法を論じ、法律家と法律を論じ、医者とは病について語り合い、船大工とは船について語り、養豚家とは豚について語り合ったそうです。 

 私たちは福音を語りたい。十字架の話をしたい。神様のことを伝えたい。そうじゃないと時間を無駄にしているように感じるかも知れません。牧師は特にそうかもしれません。けれど、それがしばしば横柄な歩みになってしまう危険があるのです。「こちらの話は聞いて欲しいが、相手の話には耳を傾けない」という横柄さです。

しかし、これらのみことばを味わう時、私たちは「彼らの奴隷」となる愛を持つことの大切さを教えられるのです。むしろ、福音のもとにお連れしたいのならば、喜んでその人の興味関心のあるところを一緒に遠回りして歩きながら、十字架の福音を目指して行くのだと教えられるのです。

パウロが23節で「福音のためにあらゆることをしています」と語っているように、あらゆることは決して無駄にならず、福音というゴールを目指して行うことができるからです。もちろん、罪を犯すことにお付き合いしてはなりませんし、私たちの信仰を否定することや福音を放棄することは決してしてはなりません。

けれども、福音をしっかりと握りしめながら、その人の歩まれてきた道を一緒に歩むことで、伝わる福音の本質、愛というものがあるのではないでしょうか。

 もしかしたら、こういう姿こそイエス様の姿かも知れません。雄弁に分かりやすく福音を語る・・・それはそれで尊いことでしょう。けれど、そうではない福音の伝え方も必要ですあらゆることを福音のためにすることができる私たちなのですから

 そして、教会に来るようになっていても、まだ明確に救われていない方、交わりに馴染めずにいる方。そういう方々にも、私たちは何とかして主の救いの交わりにしっかり留まれるようにしたい。「すべての人のために、すべての者となる」必要を覚えます。

 教会でも、しばしば「内輪の交わり」は起こりますね。どうやって、その交わりに新しい方を招けばいいのでしょうか? いや、もしかしたら、招くのではなく、私たちが「その方の隣に行く」ということが、一番求められていることなのかも知れません。



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