*** 5/29(日)主日礼拝 説教概略 ***
コロサイ1章21-23節「神と和解した者として」
苦しい状況の最中、ある方からLINEが入り、祈っていたことに神様からの助けがあったことを知りました。小さな助けかも知れませんが、疲れを覚えている時に胸に染みるものでした。また、別の方からもお祈りしていますとのメッセージをいただきました。皆さんそれぞれ、お忙しい日々の中で、こうして祈ってくださっている。
しかも、不思議ですが、きつい時ほど主がこうした励ましを多方面からくださるのです。(ついでを言うと、我が家では誰かがデザートを買ってきたりすると、それを20面体サイコロで選ぶ順番を決めます。昨日はなんと久しぶりに1位を獲得。一番食べたいものをゲットしました)。
疲れている時、主がことごとく味方をしてくださると感じた瞬間です。もし、私が神様と和解した者でなかったのなら、こうは思えなかったでしょう。神に敵意があれば、「愛している」と言われてさえなお、その声は心に届かないでしょう。
21節 あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、
実は、原文では最初に「そして」という接続詞があります。ですから、それまで語られて来たことを踏まえて、「そして、あなたがたも(And You・・・)」と言っているわけです。パウロ自身も、そして多くの罪人もそうであったように、あなたがたも、かつては暗闇の中で神と敵対関係にあったが、御子の尊い犠牲によって父なる神と和解させていただいたのだ!と確認しています。これは、私たち自身もそうであって、この21節で語られているように、かつては神から離れていた者、敵意を抱いていた者、悪い行いの中(すなわち闇の中)にいた者でしたよね。
私自身も神様の存在を意識していたにも関わらず、疑いを持ち信じない心でいた時があります。普段、神様に心を向けもせずに歩んできたのに、お腹が痛くてたまらない時は、必死に神様に頼んだ記憶があります。あるいは、悲惨なニュースを見ると、神様はなぜ、このようなひどい出来事を見逃しておられるのかと、急に神様に訴えるようなことがありました。
そこには、神様を都合よく利用する私の自己中心性と無知とがありました。神様が私の罪深さを見てさばく立場にあるのに、まるで自分が神様をジャッジする立場にいるかのように歩んできたのです。
それこそ、神を神としてあがめない罪深い姿でした。さばくのは神様の特権なのに、自分が神をさばく立場であるかのように。罪に対して神の怒りが啓示されているのに、それを侮り、まるで逆に考えて来たということです。ローマ1章18節から少し味わいましょう。
神を神として認めない、あがめない、尊ばない。罪の根がそこにあります。ところが、なお、神様はそのような人々を愛されました。愛し続けました。罪に対して怒りを示されるとしても、罪を持つその人が、罪の影響で滅びることがないようにとどこまでも忍耐深く愛し、語り続けてくださる神様です。 コロサイ書に戻りましょう。コロサイの人々もかつては神から離れて歩み、神に敵意さえ抱き、悪しき行いを繰り返していました。でも、神の愛を受け止め、過ちを認め、へりくだって御子を信じたのです。神の御子がご自分の肉体をささげ、そのいのちをもって信じる者と救い出す十字架のみわざを成し遂げられたのです。
神の御前に、恐れも敵意もなく、平安と感謝と喜びをもって堂々と立たせていただけるとは、なんという恵みでしょうか。すべてを見通される神の御前に、恐れず、むしろ親しみの心をもって御前に立たせていただけるとは、なんという十字架のきよめの力でしょうか!
キリストの死は、信じる者に「きよさ」を与えます。一時的なものではなく、永遠に与えてくださいます。どんなに汚れていても、ドロまみれであっても、雪よりも白くするキリストの十字架の力です。ですから、ここにあるように、聖なる聖なる神様の前に立ってさえ、「聖なる者、傷のない者、責められるところのない者」として、認めていただけるのです。
これはどう考えても、私たちの努力や修行では不可能ですよね。ただただ、主の救いの力によるのです。大いなる恵みによるのです。
パウロもまた、自分がいかにひどい罪人かを自覚した人でした。まさに神に敵対し、教会を迫害し、信仰者ステパノの殺害にさえ同意していた一人でした。とんでもないことです。殺人に賛同していたのです。そんな人でしたから、普通、恐ろしくて神様の前に立つことはできないでしょう。その末席に座ることすら出来ないのではないでしょうか?? ところが神様の赦しは圧倒的です!神の御子の十字架は全くの敵に対してさえ、「完全な和解」をもたらました。キリストに敵対していたパウロですら、恵みによって赦され、御国の相続者、神の子とされ、それどころか、宣教の働きのリーダーとされたのです。
ただ、私たちはこれを力づくで広めようとせず、愛をもって現わしていきたいと願うのです。ことばの巧みさだけで伝えようものなら、届かないことが山ほど起こります。
神学校時代お世話になったある先生夫妻の話です。海外に滞在中に、ある幼い少女が、先生夫婦のもとに預けられたそうです。この子は少し弱さ(障害)を抱えていたようで、家に来るなり、何の脈絡もなく「嫌いよ」と連発したと言うのです。でも、ご夫妻は神様から知恵をいただき、すぐにこの子の心に気づきました。それは小さな少女の必死の叫びであったと言うのです。「愛されたい」と上手に表現できない不器用な少女の訴えだと気づいたのです。どうやったら相手から信頼を得られるのか。そしてどうやったら受け入れてもらえるのか、彼女は分からなかった。その結果「嫌いよ」ということばで、相手の注意を引き、あるいは反抗して関りを求めたのです。先生ご夫妻は「嫌いよ」と言われるたびに「愛してるよ」と言い続けました。そして彼女を実際に本当に愛したのだそうです。(愛には忍耐が必要ですね・・・)けれど、こうした歩みの中で、ある時からこの子が「嫌いよ」と言わなくなり、先生ご夫妻の家に来るのを楽しみにするようになったそうです。(『主の御顔を避けて』遠藤嘉信著 より)
「福音に仕える」こと。それは、このすばらしい救いの知らせを、ただことばで伝えるだけではありません。「愛の交わりの中で現わすこと」が必要です。愛がなければ福音に仕えたとは言えません。そして、相手の心や魂にも届かないことでしょう。
悲しみや敵意、人間不信の根には、自分を愛してくれる人などいないという孤独があります。
裏を返せば、こんな自分でさえも「愛してほしい」という叫びです。福音に仕えるとは、この叫びを聞く者となることです。
私たちは、主のあわれみによって、神との和解をいただきました。福音に仕える務めをいただけました。