*** 5/11(水)祈祷会 説教概略 *** (1週遅れの掲載となりました)
創世記37-50章「成長したヨセフ」
苦難の人生を通して成長したヨセフの姿に目を留め、主のみこころを教えられていきたいと思います。
甘やかされて育つと、一般に苦労知らずで、人の痛みの分からない者になる一面があります。実際のところ、17歳のヨセフは鼻もちならない生意気な若者であったようです。
37:2 これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、兄たちとともに羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた。
ここに17歳のヨセフのやや屈折した姿があります。ヨセフは兄たちの悪いうわさを父に告げていたのです。事実であったとしても良くない事をあえて告げるのは悪意を感じます。そして、ヨセフはヤコブの年寄り子であり、特に最も愛したラケルの子でもあったので、甘やかされたと言えるでしょう。
3節では「息子たちの誰よりもヨセフを愛した」とありますよね。完全に「えこひいき」です。ヨセフも調子に乗ってしまっていたのではないでしょうか?さらに兄たちに憎まれてしまう原因をヨセフ自身が増やしてしまいます。5節にあるように、ヨセフは自分が見た夢の内容を何の配慮もせずに、兄たちに告げてしまったのです。その内容は、兄たちが自分に仕えるようになるというものでした。それを聞いた兄らの反応は?8節にあります。
37:8 兄たちは彼に言った。「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」彼らは、夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになった。
ただでさえ妬まれていたのです。告げれば怒りを買うことが容易に想像できたでしょう。彼はこの後も、同じような夢を見て、それを兄たちに告げました。兄らはますます憎しみを強く抱いてしまいました。ヨセフの幼稚さ、生意気さ、自由奔放ぶりが分かります。こんな背景があり、兄たちはヨセフをとても憎み、やがて殺意さえ抱きます。どうにか殺害だけは思いとどまりますが、ヨセフは身内が一人もいないエジプトに売られてしまったのです。
その後も成功しては見捨てられる(裏切られる)ことの連続でした。エジプトの侍従長ポティファルのもとでは、忠実に仕事をこなし、神様から祝福され、高い評価を受けて何もかも任されたほどでした。しかし、試練が来ます。ポティファルの奥さんに誘惑され、何度も頑なに拒んだことで彼女の機嫌を損ねてしまいます。ヨセフは正しく忠実に歩みましたが、彼女はヨセフが自分を襲ったと嘘をついてヨセフを貶めてしまいます。
忠実に歩んでいたからこそ、この仕打ちはきつかったでしょう。悔しかったことと思います。しかし、奴隷という立場ですから、彼の言い分を聞いてくれる人はいません。彼は監獄に入れられてしまうのです。
ところが、その監獄でも神はヨセフとともにおられたので、彼は恵まれ、囚人全員を管理する立場を任されました。どこにあっても神とともに歩む者への祝福を神様は決して忘れません。この後、ファラオに仕えていた献酌官長と料理官長が牢に入れられました。二人とも監獄で夢を見ましたが、ヨセフは夢の解き明かしができたので、それをしてあげました。料理官長は夢の通りに死刑になりましたが、献酌官長は夢の通りファラオの元に戻って仕えることができるようになりました。
そこでヨセフは次のように彼にお願いしていました。40章14節
40:14 あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。
結果はどうだったのでしょうか?40章23節です。
40章23節 ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。
ヨセフとの約束は忘れられ、ないがしろにされたのです。彼の人生がかかっているのに・・・です。彼はここでも軽んじられ、言い分を無視されました。その後2年もの間、彼は牢獄生活を続けたのです。心も折れそうです。
ただ、この苦労の日々は一見無意味なようでいて、ヨセフの人格を練り上げ、謙遜と神への信頼を身につける上で必要な下積みだったのです。
やがて彼の夢を解き明かす力はファラオの耳に入り、彼は無事に牢から脱出します。それどころか、神から授かったその知恵と賜物を認められ、ファラオの次に偉い宰相、総理大臣的な立場に抜擢されるのでした。41章41節にその場面があります。
41節
ファラオはさらにヨセフに言った。「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」
こうして、苦労の日々を通り、彼は成長しエジプトで大きな権力をゆだねられるのです。46節によれば、この時彼は30歳でした。17歳で売られて来ましたから、13年の時が過ぎています。
彼はこの間に3度大きな裏切りを経験します。最初は兄たちから売られるという裏切り。次に、仕えていた主人の奥さんから裏切られ、最後は夢の解き明かしをしてあげた献酌官長の裏切りです。いずれも彼の人生を大きく左右するものでした。ひどい仕打ちでした。けれど、彼はこの苦しみを神とともに通ったので、成長し主が高い地位につけてくださったのです。
そして、彼は結婚し子どもを授かりました。子どもたちの名前を見る時、彼が成長し、裏切り行為から解放されていることに気づきます。
41章51-52節 ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。
彼は神様を通して、自分の身に起こったことを見ています。私の目ではなく、神の目で見る。そこに信仰者としての成長があるのです。
何よりもそこには、神の救いのご計画があったことをヨセフが兄たちに告げるのです。
ヨセフがエジプトに連れて来られたゆえに、この一族は生きのびることができたのです。
それどころか、裏切られる経験さえ、彼が宰相として立つにふさわしい訓練の時でした。小さなことに忠実な者にこそ、大きなものを任せる主です。
父ヤコブが死んだ時、兄たちはヨセフに復讐されることもあるのでは?と不安になりました。しかし・・
50:20 あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。
50:21 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたも、あなたがたの子どもたちも養いましょう。」このように、ヨセフは彼らを安心させ、優しく語りかけた。
ヨセフは主にあって既に赦しているのです。人生全体を通して、苦労しながら、涙しながらも、神の救いの計画を知る者とされたからです。
兄たちがした悪事、エジプト人たちの裏切りさえ、主のご用のために必要だったと知ったゆえに、兄たちを赦し受け入れ、その子どもたちをも養うと約束できたのです。
彼は強くたくましく、同時に優しい者となりました。
このように神のより深いご計画を見出す時、人は小さなやり取りにおける憎しみから解放されていくのではないでしょうか。
私たちもまた、起こる出来事のすべてをみことばに照らして、神の視点で見続けていきたいと思わされます。イエス様が見ておられた景色を私たちも見る者とならせていただきたいのです。試練は確かに苦しい。しかし、その先にある実りこそ、神様が私たちに与えようとしておられる祝福なのです。 → ヘブル12章11節