東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 民数記13章25-33節「思い込みの盲目」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2022/05/16

民数記13章25-33節「思い込みの盲目」

*** 5/15(日)主日礼拝 説教概略 ***

民数記1325-33節「思い込みの盲目」


 「自分にはこれは出来ない」と決めつけ、神様が「やってごらん」とおっしゃる声をシャットアウトしているということはないでしょうか。実は私は、教会に集うようになって、「ギターをやってみないか」と声をかけられた時、最初はとても強く断りました

 自分は音感も悪いし、リズム感もないし、ギターなどという楽器とは全く別の世界に生きている人間だと思っていたからです。「どうせできない」との思い込みが強すぎて、恥をかくことになるだろうと思い、必要以上に強くお断りしたのを覚えています。せっかく声をかけてくださったのに、失礼な断り方をしたのではと思うのです。私は「絶対にできない」という変な自信があったのです(笑)。

 結果として、やってみれば、少しはできるようになるもので、大して上手にはならなかったものの、なんとか賛美のリードができるぐらいにはなったわけです。少なくとも「絶対にできない」という思い込みは「間違っていた」と言うことです。 

 本日のみことばにおいても、間違っているのに強く思い込んでしまい、神様のみこころを見えなくしてしまうという問題について教えられます。

 自分たちの思い込みを神様にしてしまうという言い方もできるでしょう。

 約束の地を調査してきた人々の報告は、否定的な思い込みに満ちていましたし、それを聞いた人々もそれを絶対的なものと思い込んでしまったのです。私たちはこのような思い込みの課題を主に取り扱っていただき、心の目を開いて、神様が見ておられる景色に近づいて行く者とならせていただきましょう。

 

1. 偵察した者たちの思い込み

イスラエルの民は、約束の地カナンを目指していました。そして、神様はこの地を探るようにと語られました。イスラエルは12部族から一人ずつ代表を立て、偵察隊を派遣することになったのです。

そして、この12名は40日間かけてこの地を探り、農作物なども手に入れ、戻って来ました。少なくともその土地は肥沃な大地で、神様のおことば通り「乳と蜜が流れる」と形容されるほど、豊かな土地であったのです。

彼らは具体的に、その地で取れた「ぶどう」や「ざくろ」、「いちじく」等を持ち帰り、皆に見せました。ここまでは良い報告です。

ところが、彼らはここから一気に否定的な報告を告げています。

その地を治めている様々な民族がいて、城壁も堅固で、自分たちは彼らに敗れてしまうだろうという報告に終始してしまうのです。結果、この民は非常に動揺してしまいました。しかし、異なる報告をする者がいました。同じように偵察に行った人物の一人でカレブという人物です。彼は動揺する民を静めて言いました。

30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」 

全く同じ光景を見て来たにも関わらず、カレブの報告は他の人々のものとはは明らかに違いました。私たちはこの地を手にできる、必ず勝利できると言って激励します。これは信仰から出たことばでした。この後の14章では、カレブ以外にも偵察に行ったヨシュアも口を開き、神様が私たちの味方なのだから、主に背いてはならない。私たちはこの地を得ることができる!と言いました。

けれど、二人の説得にも、民は耳を傾けることが出来ませんでした。31節でカレブの意見を強く否定するようにして、「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」との断定的な主張がなされます。頑ななまでに「自分たちには無理だ」と言い張るのです。

では、この発言の根拠は何でしょうか?この発言の根拠は、偵察に行った人々の思い込みです。勝手に相手が強いと見た目で思い込んでいるだけです。数十年しか生きていない自分たちの浅知恵、盲目な思い込みを、永遠に生きておられ全知全能である神様よりも上の位置においているのです。これは、自分の思い込みを神とする偶像礼拝と言えます。この強い報告が、民全体を神のみこころから遠ざけ、見えなくしてしまったと思うと、非常に残念ですよね。

 

2.報告を聞いた者たちの思い込み 


 そして、報告した者たちも問題でしたが、報告を聞いた民もまた、その報告がすべてであるかのように判断したことが問題でした。続く32節をご覧ください。 

32 彼らは偵察して来た地について、イスラエルの子らに悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。 

 この32節に気になる表現があります。それは、イスラエルの民に「悪く言いふらして言った」ことです。直訳では悪い(Bad、Evil)報告を提供した(与えた)です。

 また、ある英語訳聖書では「偽りの報告をした」と訳されているものもありました。

 これは、実際に自分たちが見た事実よりも、意図的に悪く報告しているということです。住んでいる民に恐れをなしたのは事実でしょう。しかし、その恐れに支配され、自分たちはこの地には到底住めないという思い込みまでも報告に含め、結果として民の印象操作をしてしまったと言えるでしょう。受けた側の民もまた、自分の思い込みを神とした結果主のみこころを見えなくしてしまったのです。

 33節に続く彼らのことばは、尚、彼らの思い込みであることをよく強調しています。

33 私たちは、そこでネフィリムを、ネフィリムの末裔アナク人を見た。私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」 

「私たちの目には」とのことばに続き、自分たちがバッタのように見えたとあります。
「神の目には」という信仰の話が出て来ないで、「私たちの目には」とのことばで結論が出されているのが非常に残念です。

そして、なんと、彼らの目にもそう見えただろうとも言います。実際に、アナク人たちにインタビューをしたわけでもないでしょう。

三浦綾子さんの「命ある限り」という著書にこんなことばがあります。「人間は信ずべきことは容易に信じないが、信ずるに値しないことは、かえって容易に信ずるという弱点がある」 本当に信じないといけないものは信じない。けれど、信じるに値しない根拠なきことを簡単に信じてしまうことがあると。

ネットの情報はまさにそうですよね。噂をすぐに信じます。実際、冷静にこの出来事を見ると、偵察に行った者たちも、大きな体の民族を見て、「敵わない、この地に入って行けない」と頑なに信じてしまいました。また、多くの民は、実際よりも悪く報告した偽りの知らせを、まるで絶対的事実であるかのように信じてしまったのです。

 昨日、祈りに覚えてきたT姉の「ステージ4」と言われた大きかったガンが、点のように小さくなっていたという報告を受けました。「ステージ4」と聞けば、もう回復は難しいと誰もが思い込みます。

 しかし、祈りに主が応えてくださり、大きかったガンが、小さな点にまでなったと伺いました。主のいやしの奇跡ではないでしょうか。

 実際に、主はこうして何度もいやしの奇跡を見せて下さいました。1度や2度ではないのです。牧会してきたこの20年近く、医学的には説明できないような回復、癒しを何度も見させていただきました。無理だと決めつけるのは自由ですが、主のいやしと助けがあると信じるのも自由です。

 ダメだとあきらめる道はある意味楽でしょう。自分たちがバッタのように小さく見える。別にそれもいいでしょう。しかし、私たちを守り導いてくださる主をバッタのように小さく見るのは、とんでもない不信仰です。

 神様は偉大な力ある方です。この民は、自分たちはあの民族と比べたら、バッタのように小さな存在だと言ったのです。では、神様と比べたらどうでしょう?バッタどころではないはずです。そんな小さな微生物のような脳みそで考える結論が、偉大な神様より正しいと主張するのは、なんと矛盾していることでしょうか。

 同じ人間に対してではなく、神様に対してこそ、私たちは小さく弱く、バッタ以下のような者ですと謙虚になるべきでしょう。そうして主のみこころに聞いていきたいのです。

 

3. 主にあって勝利を信じて

 さて、実際のところカナンの地の民族は、イスラエルの人々をバッタのように小さい弱いと思っていたのでしょうか?

 実は、その真反対であったということが、ヨシュア記では明らかにされています。
 この民に味方をしてくれるラハブという現地の女性が、それを教えてくれました。

 ヨシュア記28-11節をお開きください  

 これによれば、実は、カナンの地の民こそ、神様みわざを知って恐れ、震え、心が萎えてしまったほどでした。皮肉なことですが、イスラエルの民よりも、カナンの地の民の方が神様のなさった奇跡を聞いて驚き、その力強さを恐れていたのです。これが真実でした。

 こうした間違った思い込みに支配されて、この民は神様の導きを拒否し、この不信仰のゆえに荒野で40年もの間、さまようことになってしましまいました。

 私たちもまた、自分の思い込みによって神のみこころに盲目になり、祝福の道を自ら閉ざしていることがあるのではないでしょうか?

 神様をバッタのように力なきむなしいものとしないようにと思います。むしろ、神様の偉大さの前に私たちこそ小さき者であると受け止めましょう。 力強い主を信じて歩みましょう。






教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *