東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 民数記16章「自分の立場に不満を覚える時」(朗読は1-11節まで)
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/06/20

民数記16章「自分の立場に不満を覚える時」(朗読は1-11節まで)

 *** 6/19(日)主日礼拝 説教概略 ***

民数記16章「自分の立場に不満を覚える時」(朗読は1-11節まで)

 「~しかない」という言い方があります。「5割しかとれなかった」とか、「3人しか来られなかった」など。ほぼ無意識にそういう反応をする私たちですが、「5割はとれて感謝」と言うことも、「3人来てくれてじっくり話せて良かった」と捉えることも可能ですよね。

 同じ立場にあっても、そこにある恵みを覚えて感謝して生きることもできれば、ない部分ばかりを見て、不満を抱いて生きることも私たちには可能なのです。神のことばである聖書は、そういった大切な視点に気づかせてくれます。宣教者パウロは、体の弱さに苦しんでいましたが、その弱さも含めて十分な恵みがすでに神様から与えられていることに気づき、感謝しています。弱さを嘆き続けて生きることもできますが、その弱さの中にある豊かさや恵みに目を留め、心満たされて歩むこともできるのです。

 今日、ご一緒に教えられることは、「今ある恵みに感謝して生きること」です。ないものねだりをし、誰かを妬んで生きるのではなく、今置かれているところで精いっぱい忠実に生きることについて、教えられていきましょう。

 1-2節。ある事件が起こりました。

1 レビの子であるケハテの子イツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、2 モーセに立ち向かった。イスラエルの子らで、会衆の上に立つ族長たち、会合から召し出された名のある者たち二百五十人も、彼らと一緒であった。

 この事件は「コラの反乱」と言われます。レビ族のコラという人が、ルベン族の指導者ら250人と一緒になって、全イスラエルの指導者モーセとアロンに反乱した事件です。

 

1. 反乱の理由


 なぜ、彼らはこんなことをしたのでしょう?
何が不満だったのでしょうか。反乱の動機については、3節の発言によく現れています。 

彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、二人に言った。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。」 

 モーセとアロンに対して、「あなたがたは分を超えている。」「なぜ、あなたがたが主の集会の上に立つのか」といきり立ちました。簡単に言うと、「なぜ、あなたがたが偉そうに、私たちより上の立場に立って導いているのか?私たちだって、その資格があるはずだ!」という批判です。

 こういうケースは私たちの日常でもよくありそうです。

 ただ、主謀者のコラとルベン族の人々が一緒になって反乱していますが、若干、動機の違いがありました。もう少し、動機を掘り下げたいと思います。

 まず、主謀者であるコラの理由(動機)についてです。彼は1節にあるように、レビ族の中のケハテという部族の出身でした

 ところが、同じレビのケハテ族でありながら、モーセやアロンが特別な立場にあることに我慢ならなかったのです。一般にケハテ族は、幕屋の器具の管理・運搬を担う立場を任され、祭司というよりは、その補助役であったと言えます。例えば、移動する際の器具の運搬役などで、移動と設置が終わったら祭司たちに完全にバトンタッチされ、実際の祭儀に彼らが関与することはできなかったのです。

 それで、コラはそういった自分たちの役割に不満を抱き、大祭司アロンのように、もっと栄えある目立つ働きをしたいと思ったのでしょう。


では、一方で、部族が異なるルベン族の人々は、なぜこの反乱に積極的に加わったのでしょうか。そもそもルベンとは、イスラエル12部族の中で実は一番上のお兄さん(長男)の部族にあたります。しかし、長男の部族でありながら、その指導権が今や彼らにはありませんでした。特に、モーセやアロンと言ったレビ族の手に握られていたことに、やはり不満があったのです。

 まとめると、動機の背景に違いはあるものの、彼らはいずれも「モーセとアロンに対する妬み」があり、「より高い地位に対する権力欲、名誉欲」も強かったと言えるでしょう。なお、それらの根本には「自分たちの立場への不満」があったということです。 

 なぜなら、今あるものの恵みを知り、感謝にあふれている人は、むなしい妬みに振り回されないからです。また今あるものに満足しているので、権力欲・名誉欲に囚われることもないでしょう。彼らはこうして、不満を抱き、嫉妬心や権力欲に囚われ、神様が立てた指導者たちに反乱を起こしたのです。

  

2.主のジャッジにゆだねる 

 では、この事態に対してモーセらはどうしたのでしょうか。モーセの姿勢にやはり指導者の資質を見る気がします。4節にこうあります。

16:4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。 

 彼はまずひれ伏しています。以前にも同じようなシーンがありましたね。では、彼がひれ伏している相手は誰でしょうか??コラたちではないのです。彼らに懇願し、ご勘弁を!という事ではありません。

 モーセが「ひれ伏す」相手は常に神様でした。モーセは、彼らの反乱を見て、真っ先に主に祈って御心を求めたということです。自身のリーダーシップを否定されていますので、ともすると怒りが先立ち、反論したくなります。あるいは動揺して、すぐに小手先の技で回避しようとしそうです。

 私たちも感情的になり、反射的に自分の知恵で応じてしまい失敗しますよね。

 モーセは、すぐに答えるのではなく、まず主の前にひれ伏し祈り求めました。こうして、ひれ伏し主に祈ることで、落ち着いて主のみこころを求めつつ発言できたことでしょう。見習いたいですね。反射的に応じるのではなく、ワンクッション祈りの時を!

 モーセはこのようにして、自分で彼らを断罪することをせず、主に判断していただくことを示されたのです。5-7のところで、その提案が語られています。そこでは、主が選ばれる者が聖なる者である。私たち人間が決めるものではない。主の召しによることなのだと伝えています。

私たちも、安易に相手を断罪することをさけ、すべてをご存知の神様の御手におゆだねをするということを祈りならがら、させていただきたい。復讐は神のなさることだから、あなたが自分でしないようにしなさいとも聖書は教えています。

 

3.与えられている恵みに感謝しよう 

 この反乱はすぐに終わりを告げます。主がご介入される時、人の思いから出ているものは失われ、神から出るものが残るからです。

 コラたち中心的な立場の者たちは地割れに飲み込まれ、残りの扇動された250名はささげていた香料に主の火が引火し、大火事で絶命しました。それこそ、彼らこそが全能の神様に逆らい、神様を侮り、自分の分を超えた行動をしたのです。

 少し先の30節の最後に「あなたがたはこれらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」と語られています。また、先程のモーセのことばで7節の最後にもこうありました。「レビの子たちよ、あなたがた分を超えているのだ」と。むしろ、分を超えているのはあなたがたなのだとモーセは返していました。かくして、その通りになっていきます。  

 さて、私たちはここから何を教えられるでしょう。主は何をお語りになっているのでしょうか。自分の今の立場、置かれている所に不満を覚える時、私たちはどうすべきでしょうか。モーセは、不満を抱いて反乱したコラにこう言いました(8節)。内容は9-10節です。

9節 あなたがたは、何か不足があるのか。イスラエルの神が、あなたがたをイスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするように、また会衆の前に立って彼らに仕えるように、ご自分に近寄せてくださったのだ。10 こうしてあなたを、そして、あなたの同族であるレビ族をみな、あなたと一緒に近寄せてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。

(1)最初に言っているのは、「何か不足があるのか」という問いかけです。不満が生まれる一つは、何かが不足しているという感覚からです。皆さんは、そういう感覚をお持ちでしょうか。少なからず心当たりがあるものだと思います。ただし、ここで考えるべきことは、果たして本当に不足しているのか?ということです。本当に不足しているのなら、不満を持つことも少し理解できますね。しかし、本当は足りているのに、いつも「ないところ」ばかりを見て、恵みをしっかり見ないために、「足りないと思い込んでいる」ならば、それはその人自身の問題ですよね。

(2)この9-10節でモーセが言っているのは、すでにあなたには良い使命が与えられているということです。神様があなたに幕屋の奉仕をするようにご自分に近寄せてくださった。それなのに、なぜ、その尊い恵みを見ないのか?なぜ、忠実にその奉仕をまずしないのか?と。

実に、ケハテ族の聖なる器具の管理、運搬は、本当に重い大切な責任で、それこそ誰でも勝手にできるものではありませんでした。主から召され訓練された者たちだけが任される栄光に満ちた働きです。しかし、その恵みを見失い、ないものを求める生き方は、愚かなばかりか、与えられた神様を侮る罪深いものです。そして、あるものを感謝できない人は、常にないものばかりを追い求めるのでいつも不満でいっぱいになるのは当然のことです。

ヘブル人への手紙 135節を開きましょう。こうあります。

金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。 

 主が決して見捨てないという力強い約束で励まされます。ただ、その前に金銭を愛する生活をせず、今あるもので満足せよと教えられています。そして、文脈をよく考慮すると、今あるもので満足しなさい。なぜなら、「決して見捨てずともにおられる主」があなたにはおられるのだからということでしょう。見捨てない神、全能の主があなたの味方でいつもともにおられる。」そして、このお方はあなたに必要なものはすべてご存じで、十分に与えてくださいます。それでは足りないのでしょうか。 

 神様は、今日あなたに語っておられます。今あるものに、わたしの恵みは十分すぎるほどにある。なぜ、その恵みをしっかりと味わい、そこに忠実に歩まないのか?神の召しを軽んじないで、今与えられている召しをまず大切にしなさいと主は言われるのです。

 今あるものを感謝し、そこで忠実に歩む者にこそ、主はより大きなものを任せてくださいます。







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