東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: コロサイ2章1-9節「キリストのうちに・・・」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/06/27

コロサイ2章1-9節「キリストのうちに・・・」

 *** 6/26(日)主日礼拝 説教概略 ***

コロサイ2章1-9節「キリストのうちに・・・」

 桜の木は家の庭には植えない方がいいと言われます。家で桜の花見なんて出来たら素敵ですけれど、あまり得策ではないそうです。なぜかと言うと、桜の根はかなり太く強いそうで、ともすると家の基礎、土台に影響を及ぼすとも言われます。

 この久米川の桜通りの歩道も、桜の木によってところどころ隆起しているのを見ると、相当な強さだなと思いますね。しかし、そのように地面の中にしっかりと根を張っているからこそ、長年同じところに堅く立ち続け、きれいな花を咲かせ続けているとも言えます。


 私たちの人生も、キリストの中に根ざし、しっかりと建て上げられて、揺るぎないものでありたいですし、また美しい花や甘い果実をもたらす者でありたいと願います。

 本日のみことば、新改訳聖書では「キリストのうちに」とのことばが3節,7節,9節と3度登場しています。なお、6節の「キリストにあって歩みなさい」と訳されているところも、「キリストのうちに歩みなさい」とも訳せるものです。それも合わせれば少なくとも4か所は、「キリストのうちに」と語られていることになります。

 ですから、パウロが熱心に伝えていることは「キリストの外、周囲」ではなく、しっかりと「キリストのうちに」入って、その中に根ざしてゆるぎなく歩むようにということです。

 キリストというお方の中に、まことのいのちがあり、そこから私たちにすべての良きものがもたらされるからです。キリストのうちに生きることの恵みをともに教えられましょう。

 

1. キリストに結び合わされること


 パウロは1節で「直接顔を合わせたことがない人たち」のためにどれほど苦闘しているかと伝えています。以前にもお話しましたが、お会いしたことがない人やしばらく会えていない人たちのために、一生懸命になれるのはキリスト者の特権です

 キリストの名のもとに、霊的に結び合わされた不思議な関係、交わりです。少し先の5節においても、パウロは「私は肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたとともに」いると語っています。もはや理屈ではないところもありますよね。

 少し前にも、ある姉妹のお姉様の病のいやしをお祈りしていました。いつか教会に来られたらと願っていましたが、残念ながらそれはかなわないまま、天に召されました。コロナ下ということで、私も一度もお会いできないままでした。

 それでも教会で祈っては、ご報告を受けていましたので不思議と身近に感じられ、つながりを意識することができました。特に、その姉妹がお姉様との良い交わりが出来た、一緒に祈れたんだとのお証しをお伺いした時、また葬儀の様子を聞いた時に、他人事ではなく、同じ主にある仲間という感覚で涙がこぼれました

 パウロは「会ったことがないことはハンディにならない」ことを証ししてくれています。

 手紙を通して、知人を通して話を聞き、その人たちのために祈り始めたら、もう信仰の友であるかのようです。パウロは彼らのために苦闘することを、少しも嫌だと思いませんでした。むしろ、喜んで骨を折って、悩み、祈り・・・

 そして、2節にあるように、彼らが、愛のうちにキリストの交わりに結び合わされ、励ましを受けるよう切に願いました。さらに、2節の後半にあるように、彼らに、神の奥義であるキリストをよく知って欲しいと願って労していたのです。

 なぜ、そんなにキリストを知ってもらうことに熱心なのでしょうか?

 3節にこうあります。

2:3 このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。

 このキリストの中に(うちに)、まことの知恵と知識が宝物のように詰まっているからです。これは、実体験にて皆さんも経験されているのではないかと思います。私自身、クリスチャンになってから、景色が変わったことを経験しました。信じた瞬間ではなく、信じてしばらく歩んでから、特にキリストにあって試練を通ることによって、見えるものが変わったなと感じました。

 かつては強いことが良いことだと思っていました。しかし、キリストを知ってから、弱さの中にキリストの力が現れることを知って、そこに価値を見出すことができるようになりました。あるいは、先週の礼拝で語られたように、「今与えられているものに満足し、感謝して生きる」ことは、どんなにか豊かな知恵、知識でしょうか。逆にこのような知恵を得ていれば、どんな境遇にあっても満ち足りることができるのですから、最強ですよね。

 聖書学者のマシュー・ヘンリーは、ある時、強盗に財布を盗まれました。彼はその日の日記にこう記しています。「今日は感謝な日だった。まずは強盗に遭ったのは初めてであり、今まで守られてきたことを感謝する。次に財布は盗まれたが、命は奪われなかったことに感謝する。更に全財産を盗られたが、その額はたいしたものではなかったことに感謝する。最後に自分は強盗に遭ったのであって、自分が強盗をしたのではないことに感謝する。」

 さすがに財布を盗まれたらショックですが、それでもただ不幸な日だと嘆くのではなく、その中でさえ神の守りや計画を覚えることができる。キリストにある者には、神の知恵、その知識によって世界を見ることができるのですから、豊かに歩めるのです。

キリストを知ることこそ、この世界において、豊かに喜んで生きていける秘訣なのだと分かります。困難さえも喜べる知恵とは、なんと大いなるものでしょうか。


ところが、このキリストを知るのを妨げるものがありました。


2.妨げる力 ・・・「まことしやかな議論」「空しいだましごとの哲学」

  パウロや使徒たちは、妨げる力との戦いに悩み、また苦闘してきたのです。

 神様はすべての人がご自分の御子を知って、天の御国に入って欲しいと願っています。しかし、悪魔は反対に、とにかく御子イエス様を信じさせないように妨げてきます。

 4節にこうあります。

4 私がこう言うのは、まことしやかな議論によって、だれもあなたがたを惑わすことのないようにするためです。 

 「まことしやかな議論」というのは、「もっともらしい説得力のある話」ですが、気が付いたらイエス様から遠く離れたところに導かれている教えです。「ウンウン、なるほど!」と耳障りがいいかも知れませんが、ついて行ったその先は、イエス様からほど遠い場所で、いつの間にかサタンの虜にされています。

 8節にもこうありますね。 

8節 あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。 

 ここを読むと、コロサイの教会の人々やその周辺地域に、もっともらしい哲学的思想が広がっていたことが想定できます。可能性として「グノーシス主義」という思想が当時流行っていました。特に、肉体や物質に悪が宿っているので、私たちは不幸で悲惨なので、霊や魂が肉体や物質から解放されれば善となるという発想です

 当時の人々には斬新で魅力的な思想に思えたのかも知れません。しかし、聖書が言っていることから上手に引き離してしまう異端です。 


 ここでパウロは、「だれかの捕らわれの身にならないように」と語られています。

 「だれか」とは、「だれなのか」と言うと、後半に「それは人間の言い伝えによるもの」とか「この世のもろもろの霊によるもの」と説明されています。

 時に人が作った様々な偽りの宗教、偶像、迷信、占い、風水などに縛られ、その虜になることがあるでしょう。それはまことの生ける神から遠く離れているどころか、この世の様々な悪霊によるものであり、その背後にはサタンがいるわけです。この世界にはそういったものがあふれています。

 例えば、風水でこちらは方角が悪いなどと言われると、気味が悪いので従ってしまう。それが誰かの利益になります。うまく利用され、お金を巻き上げられる「捕らわれの身」。そうしたまやかしの中に神の救いはありません。

 それは「捕らわれの身になっているだけ」です。しかし、9節でパウロは明確に伝えています。

9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。 

 キリストのうちにこそ、神のご性質が満ちている。そこにこそ、救いを与えてくださる神様の姿があるのだと。


3.キリストのうちに根ざす


パウロはこのような惑わしを良く知り、そこから人々を守りキリストへと導くために、教えています。7節です。 

キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。 

感謝ができない日々は辛いものです。実際、先週話したコラの反乱のような、自分の置かれた立場に不平、不満ばかりとなってしまう誘惑が私たちにはあります。ただ、感謝にあふれる人になる方法がここに明確に教えられているのです。

 キリストのうちに根ざし、建てられ、確かな信仰を持って歩むことが、感謝にあふれる人生のために必要なことです。そうなりたいですよね。「キリストのうちに根ざし」とは・・・ 

 キリストの中に根を深~く植え付けがっしりと彼の中に固定しなさいということ。

 そうして、頑丈で確かな土台の上に建てられ成長させていただきなさい。そのようにして、あふれるほどに感謝する者になりなっていくようにと言うのです。建物も見える外見の部分よりも、その基礎、土台がどれほどしっかりしているかがより重要です。試練の嵐が来ても、思い煩いの台風にあっても、ゆるぎない土台がその建物を支えます。

 もし、私たちがすぐに揺さぶられる歩みをしているとするならば、上辺や外側の行為ではなく、どこに根を植え付けているのか?どれぐらい深く根を張っているのかを点検する必要があるでしょう。

 「感謝の力」という実りをキリストから力をいただいて授けていただけることになります。苦しい時、悲しい時にこそ、「感謝の力」が主から注がれて来るのです。

6節 このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。



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