モーセが天に召され、エフライム部族のヌンの子ヨシュアがこの民を導く指導者となりました。しかし、そこには大きなプレッシャーがのしかかりました。
その証拠に、神様はヨシュアの心中を察するかのように、語りかけています。
5-6節を見ると、「主があなたとともにいる。見捨てない。だから強くあれ、雄々しくあれ。」と語られています。7節でも、また9節でも繰り返し、「強くあれ、雄々しくあれ。」そして「恐れてはならない。」と神様からのことばが記録されています。
少しくどいぐらいに、神様が、ヨシュアに向かって「強く、雄々しくあるように、ともにいるから大丈夫!恐れるな!」と励ましていることがわかります。全知全能の神様が、これだけ何度も強調されているということは、ヨシュアの心には、恐れと不安があったのでしょうし、これからそういう場面が幾度もあるということでしょう。
そして、実際に5章において、エリコの城壁に戦いを挑む直前のヨシュアの姿がありますが、まさに恐れや緊張の中にいたことがわかります。
ちょうどその頃、今まで毎日、神様が備えてくださった「マナ」という糧が与えられなくなりました。12節を読むと、このカナンの地の産物を食べ始めたことによって、その翌日から「マナ」が止まったことが語られています。逆に言うと、もう引き返しても、荒野で生きていく術がなくなったということなので、進むしかないという状況です。
そこにはやはり、重圧があったことだろうと思います。いよいよ、前に進むしかない!しかし、目の前に立ちはだかっているのは、あの堅固な「エリコの城壁」です。
ヨシュアは、どうやって攻め落とそうかと思案し、緊張の中で過ごしていたことでしょう。そんな時に、突然、ヨシュアの目の前に一人の人物が立ちはだかりました。
13節にあるように、一人の人が「抜き身の剣」を手に持って彼の前方に立っていたのです。抜き身の剣ですから、臨戦態勢の姿であると言えるでしょう。ヨシュアはその人のもとに近づき、尋ねました。
「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」と。
冷静に穏やかに話している印象ですが、実際のニュアンスは「お前は誰だ?味方か?敵か?」といったニュアンスでしょう。
結局この人は何者だったのでしょう?14節 彼は言った「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ」と。なんと「主の軍」の将であると・・・それは、天使で構成される神の大軍勢の「大将軍」。
学者によっては、「受肉前のイエス様である可能性もある」と指摘する人もいます。ヨシュアは驚き、戸惑ったことでしょう。彼は急いでその場にひれ伏しています。しかも、「顔を地につけて伏し拝んだ」とさえ語られているほどです。神様の名代として来られた方に向かって「お前は味方か敵か?」と偉そうに言ってしまったのですから。
これはまさに、1章で神様がしきりにおっしゃっていた「恐れるな、雄々しくあれ、わたしがともにいる」とのことばから繋がっている内容です。ヨシュアは恐れ、怖気づき、緊張の中にあったので、目の前に現れた御使いさえ、敵か味方か?という枠の中でしか捉えられなくなっていたのです。
しかし、主は、「わたしはあなたとともにいて、あなたを見放さず、見捨てない」とおっしゃっていた、その通りに今ヨシュアの前にご自身の代理とも言える将軍を遣わしてくださったのです。
ですから、私たちも、主の御声によく聴いて、真理を見られるように目の曇りを取っていただく必要があるでしょう。その覆いが取り去られる時に初めて、主の用意された霊的な景色が見えて参ります。ヨシュアは、ひれ伏しながら尋ねました。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか」と質問しました。
どのような時でも、このヨシュアの姿勢は見倣うべき良いものです。恐れや不安で目や耳を閉ざしたくなる私たちですが、主のなさるみわざに目を閉じてはいけないし、主の語る声には心から耳を傾ける必要があります。
これに対する主の軍の将の答えは15節です。ヨシュアの期待した応えは、もっと別のものだったことでしょう。どのようにして戦いに勝利できるのかとか、勝利の約束を与えてくれるなどの答えを期待したかも知れません。
しかし、実にこれこそが、この時のヨシュアに最も必要な答えだったのです。
「ここは聖なる場所、ああなたの足の履物を脱ぎなさい。」とのことば。
それは、ここに主が臨んでおられるのだということです。これは主の戦いであり、主ご自身がここにおられるのに、あなたはまるで主がここにおられないかのように、己の力のみを頼みとしている。そして、それゆえに、恐れと不安、緊張にいるのではないか?と問われている。短い答えに示されている主のみこことは、こういうことです。
なぜ、あなたは主を見上げないのか。主の助けを求めないのか。なぜ、恐れるなと語ったわたしに信頼しないのか?これは「主の戦い」である!まずは、主の前であることを知れ!あなたの汚れの象徴である「履物」を脱ぎなさい。ここが聖なる神の御前であることを忘れてはいけない。
ここには、そんな主の語りかけがあるのではないでしょうか。
ヨシュアは目の前の戦いの恐怖や緊張ゆえに、わかっていたつもりのことを見失い、戦いにばかり気を取られていたのです。より大切なことは、主がここにおられるということ。主の声に聞くことでありました。
それは私たち自身にも当てはまることです。それぞれが毎日様々な戦いを通っています。よく、男性は家の外に7つの敵があって、いつも様々な敵と戦っているのだと言われますが、女性だってそうでしょう。職場の人間関係、様々な偏見やプレッシャー、人の評価、世間体、自分自身との戦い、欲望との戦い。色々なものがあります。
ただ、私たちが忘れてはいけないのは、主に贖われ、主のものとされた私たちの戦いは、どれも、すべて主が決して離れないでともに戦ってくださる「主の戦い」なのだということです。自分一人の戦いではありません。主の助けがそこにあるのです。イエス様という大将軍が私たちの前に立ち、戦ってくださるのです。