東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ピリピ1章12-26節 「生きるにしても死ぬにしても」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2022/07/14

ピリピ1章12-26節 「生きるにしても死ぬにしても」

 *** 7/13(水)祈祷会 説教概略 ***

ピリピ112-26節 「生きるにしても死ぬにしても」


今日は聖書人物シリーズお休みです。
「働き方改革」ということばがありますが、牧師や牧師夫人こそ、取り組むべき課題かも知れません。心理の専門家からは、大変ストレスの多い職業と言われています。また、どのようなお仕事にしても、期待や支援が多いものほど、嬉しくもあるけれど重荷やプレッシャーも大きいと言えるかと思うのです。多くの人から祈られ、支援されているということは本当に感謝な恵みであります。ただ、一方で期待や支援が多いということは、それがそのまま重荷となることもあると思うわけです。

 私自身も、今まで自分の体調のことで思うようにいかないことはありましたが、妻は割と元気であまり体調を崩さない人なので、今回は少し思わされるところがあります。つい私たちは多くの労を取ることができている方が安心します。逆に自分が思うように出来ていないと、不安を覚える面がありますよね。

 とある牧師が、ひどく体調を崩された時のこと。牧師館が教会の上にあり、皆さんが下の階で集会をしている中、自分はその上で寝ていた。そのことがとても辛くて、歯がゆい思いをしたという話を聞いたことがあります。自分は何をしているんだろう・・・そんな思いを持ち、責めてしまうということです。

 私たちは、人の期待をありがたく頂戴しながらも、ただ主の前にあることをもっと大切にしたいと思うのです。

 

本日のみことばに目を向けると、パウロという人が自身にかかる期待や攻撃から自由にされて、ただ主にあって労することを喜んでいた姿に教えられます

いや、労することさえできない状況にあっても、主にあって喜んでいた姿と言った方がいいかも知れません。

パウロはキリスト宣教のゆえに、投獄されました。彼はこの手紙を牢獄から書いているのです。檻の中にいたということではなく、いくらかの自由はあったと言われます。それにしても、常に監視され、自由に出かけられないわけです。

つまり、パウロは自分でも何も積極的に行動できない状態に置かれていたことは確かでしょう。そして、その事を知って、かえって心燃やされて宣教に励む者もあれば、パウロを苦しめようと、党派心から宣教をする者もいたとのことです。17節にありますね

17節 ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。 

通常ならば、何もできずにいる自分の姿に落ち込むことでしょう。自分が立ち止まっている間に、ライバル心を燃やす者たちが、どんどん新しい働きを進めていく。そんな姿を聞いて焦りを覚えたり、「自分は何をしているんだろう」と自分を責めたりすることがあるでしょう。何も出来ない時というのは、メンタル的にもきついものです。ただ、パウロは18節でこう言っていますね。

しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです。これからも喜ぶでしょう。 

「それが何だと言うのでしょう」との訳は印象的ですね。パウロは自分がどんな状態にあろうと、キリストの福音が前進するなら、それを自分の喜びとするのだと「決めている」のです。喜びの基準を定めたのですよね。だから・・・このように語ることができました。

20節 私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。

 21節 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。

 死ぬにしても、私のその死を通してキリストがあがめられる。死ぬことさえ益とされてしまう!そんな神の福音の力であると言います。つまり、死んでこの世からいなくなってさえ、その死を通して神の栄光が現れる。死を通してでさえ、神は働かれ益とされる。そうであるならば、辛うじてでも、生きていれば、尚のこと実を結んでいけるのです。 

22節にあるように、「しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。と悩んでいるのです。

 分かりますでしょうか。

 悩んでいるポイントが私たちの考えるそれとは、大きく違っているように思います。牢屋に入れられ、何もできない日々に悩んでいるのではありません。何もできない自分を尻目に、自分を苦しめようと競争心で宣教している者たちを見て、悩んでいるのではありません。用いられなくて自分の存在意義が薄いと感じて悩んでいるのではないのです。

生きていても御霊によって実を結び、人々を励ますことができちゃうから素晴らしいし嬉しい!一方で殉教して死をもって証しすることも、多くの弟子たちの闘志に火がついて、栄光を現すことになっちゃうし。イエス様と永遠に過ごせる幸せは最高だし!どっちにしても、すばらしい神の恵みがある・・・さぁ、どうしよう??? と悩んでいるのです。

23節 私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。

24節 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。

神にとらわれた者として、どう生きても神の力が働かれる!という「幸いな悩み」なのです。 率直に言うと、自分の素直な願いは、さっさと世を去ってキリストとともに過ごすことだ!さっさと天国へ!という発想。その方が楽だし望ましい!!(23節)しかし、あなたがたのことを考えるとね・・・生き残ってあなたたちと交わりを持ち続け、励まし一緒に頑張る方があなたがたに必要なことだよね?(24節) というわけです。

 そう考えると、神様はまだ私を牢獄の中で終わらせないでしょうね。死なせないのでしょうね。あなたがたと交わり、宣教協力していくことになるでしょうね!!と、パウロは確信していると言っています。

 

 そんなパウロの信仰、発想です。教えられますね。

 「死」ですら栄光を現せてしまうのが、キリスト者である。そうであれば、生きてさえいれば、何にもできないような環境に置かれても主のお役に立てるのです。

御霊が住んでいるだけで、豊かに実らせてしまう。死んで何もできなくなることすら益となるなら、生きていくらかでも主のために、小さいと思える事でもできるのならば、実りをもたらすことができる。

 ここに立つならば、弱さのうちに何もできない時にも、私たちは嘆く必要がないのではないでしょうか。無力さを覚えても・・・主はそこに働かれる。「死」という最も無力な状態でさえ、主は益とされるのですから!

 福音の恵み、神とともに歩む人生はなんと幸いなことでしょうか。

 どっちも悪いので悩むのではなく、どう転んでも「良い」ので悩んでしまうのです。

 会堂建設を祈る中で主にあって楽にしていただけた経験。それは、会堂が建ったら、そこにすばらしい栄光が現れる。でも、会堂を建てず、旧会堂で歩んだとしても、そこにも多くの豊かな恵みがある。どちらであろうと、大切なことは私たちが主とともに生きることだと教えられた時です。「神様、どっちでも大丈夫なのですね。」と、どちらにも恵みがあるのだ!と思えた時に、楽になり、逆に良い会堂の備えができたのだと思います。

 生きるにしても、死ぬにしても、そこに神の恵みがあふれているできるにしても、できないにしても、主の豊かな恵みがある。ここに立ちましょう。



教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *