東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅱテモ2章1-2節 「信頼できる者にゆだねる」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/07/20

Ⅱテモ2章1-2節 「信頼できる者にゆだねる」

*** 7/20(水)祈祷会 説教概略 *** 

Ⅱテモ21-2節 「信頼できる者にゆだねる」


 先週に引き続き、今日も聖書人物シリーズはお休みです。
 特に夏休みだからということではありませんが(笑)。

 昨日は関東南地区の牧師会が、久しぶりに対面の形で持たれました。また感染者が増えている中ですが、やはり対面ならではの交わりの良さというものを思わされます。そこで少し話題に出ていましたが、これまで奮闘して来られた先生方が次々と引退されつつあり、信徒もまた高齢化がますます進んでいるという話がありました。

 また、私も色々な方とのお交わりの中で、そんな悩みを伺ったりすることがあり、「どうしたら若い世代が育つのでしょうか?」と、そんな声はよく耳に入って参ります。

 この問題というのは、短い期間でどうにもできないもので、本当に地道にじっくりと取り組むべきものなので、即効性のある何かは正直ないですよね。


 ただ、基本的なことはいつも同じであって、聖書に語られている通りに忠実にするということが何よりの原則です。

 今日のみことばは、まだ30代ぐらいであった若い牧師テモテに、パウロが指導教本的に送った手紙の一部です。若いテモテに、早い段階から、自分で抱え込まず、他の人にどんどんゆだね、そうやって育てていくことを教えています。

 テモテは少し「弱さ」もあった人で、パウロは彼を気遣っています。1節に、恵みによって強くなりなさいと語られています。弱音を吐くこともあったのだろうと思います。そして、その際に、一人で抱え込むことの課題もパウロなりに見抜いていたのかも知れません。

 そして、2節です。

2節 多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。 この一文に、大切なことが集約されています。

 

1. 伝えていくということ

 最初に「多くの証人たちの前で」とありますが、多くの証人たちを通して、私から聞いたこと」と理解した方が文脈的にも、文法的にも自然な感じがします。特にテモテは、母や祖母から信仰継承されていますよね。パウロたちが教えたことを、テモテの祖母、母が聞き、またそれをテモテに教えて来たという面もあったのかも知れません。

そのようにして教えられ、聞いてきたこと真理を、今度はさらに自分の次の世代の人々、別の人々にゆだねていくのだと教えられています。神の家族、信仰の共同体は、こうやって一緒に教えを学び、さらに教わった者たちが次の人々に丁寧に伝え教えていく。その繰り返しの中で福音が広がり、次の世代が広がっていきます。

主の教えというものは、常に次の人々に伝えられるべき良きものだからです。例えば神様は、ヨルダン川を渡らせた時に、ヨルダン川の石を拾って、それを子どもたちや後の世代の者たちに伝えるよう言いました。ヨシュア記45-7節 をご一緒に開きましょう。
 
4:5 ヨシュアは彼らに言った。「あなたがたの神、主の箱の前、ヨルダン川の真ん中へ渡って行き、イスラエルの子らの部族の数に合わせて各自が石を一つ、その肩に担ぎなさい。

4:6 それがあなたがたの中で、しるしとなるようにするためだ。後になって、あなたがたの子どもたちが『この石はどういうものなのですか』と尋ねたとき、

4:7 あなたがたは彼らにこう言いなさい。『ヨルダン川の水が主の契約の箱の前でせき止められたのだ。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水はせき止められた。この石はイスラエルの子らにとって永久に記念となるのだ。』」  

もちろん、この時だけではありません。神様は、なさったみわざをその本人たちだけで終わらせないように教えました。記録を残し、記念として、繰り返し思い出し、伝えよと言われたのです。

それはこの件に限らず、様々な機会に教えられています。体験した恵みを、自分たちだけで終わらせてはならないのです。そして、それを聞いた者たちも、それで終わりではなく、さらに次の世代にその恵みを、その主のみわざを伝え続けていくのです。

7節の最後に「永久に記念となるのだ」と語られていますよね?
実際、これより3000年以上も後の時代の私たちにまで、この出来事が語り告げられています。ヨルダン川の濁流を堰き止めて、民を渡した主のみわざを私たちは皆知っているのです。


2.信頼できる人たちに 
 すべての人にゆだねよという事ではなく、やはり忠実で信頼できる人により多くをゆだねていくというのは、ある意味当然のことでしょう。

 聖書の教えの中に、小さなことに忠実な者にこそ、主はより大きく大切なものを任され、しかも報いも大きいということが教えられていますよね。

 手紙を託しても、きちんと届けてくれないような人には私たちも託したりしないでしょう。能力ではなくて、誠実に丁寧に、教えられたことをしっかりと実行する人、そして他の人にも伝える姿勢のある人に権限や責任を少しずつ分け与えていく。そういう意識が必要ですね。

 そう思う時に、私たちもまた、自分自身はゆだねられるべき「忠実な者」であるかどうか、「信頼される者」であるかどうか、それも考えさせられます。

 逆に言うと、頼まれゆだねられたということは、「信頼していただいた」という恵みでもあります。明らかに未熟な自分に、ゆだねて、「10」言いたいところを「1」しか言わない・・・そんな風に任された時、非常にありがたいと感じますし、それゆえに身が引き締まる思いもしました。

 ですから、奉仕は「させていただくものだ」と申し上げているのです。信頼、忠実だと認められるからこそ、任され、ゆだねられるのだということを忘れないようにしたいのです。

 

3.ゆだねなさい 
 教えられたことを他の人に「ゆだねなさい」とパウロは命じました。ある用語解説に、このようにありました。

「委ねる」は、物事の処理・決定・判断などのすべてを相手に全面的によりかかるような形でやってもらう意味。「任せる」よりも、相手にすべてを託してしまうという意味合いが強い。

 任せる以上に、相手にすべてを託すという意味が強いと言います。「ゆだねる」と訳された原語は、その人の前に置く、食事を配膳するなどの意味で使われることもあります。その人の前に配膳したならば、どれから食べようが、何かを残そうが、それはその人の自由ですよね。また、このことばは5千人の給食の場面で、食事を「配る」ということばに使われてもいます。「あなたが後継者だ!」と一人にゆだねなければならないという理由はありません。多くの人に自分がしてきたことを教え、ゆだねていくことで、それぞれが用いられ、福音が豊かに広がりますよね。

 この世の多くの人は、自分が手にした立場や名声、責任、権力を他の人にゆだねることをあまりしたがりません。「保身」ということばがあるように、できるだけ維持したいと考えます。しかし、キリスト者は、熱心に主のために働きたい者があれば、喜んで自分の奉仕や責任をその人に譲り、任せていける恵みがありますよね。

 そして、「ゆだねる」ということは、教えるべきことをきちんとよく教え、伝えたのならば、あとは「手を放して、その人の判断に任せる」ということも重要です。これは中々難しいことではあります。時に助けも必要ですし、責任をもって祈り、支えていく意識も必要でしょう。

 例えば、昨年度、当教会で研修を受けた先生がいました。その先生には私が知っている多くのことをお伝えしています。そして、今も定期的に連絡を取り合い、様々な疑問や相談に応じ、出し惜しみなく、助けになるであろうことは何でもお伝えしています。

 でも、一方で、私の方からあまり出しゃばって、「こうしなさい、ああしなさい」ということは、ほぼしないようにしています。距離があるので幸いしていますが(笑)。

「主にあってその人にゆだねる」ということは、「主にその人のことをお任せし、手放す」という面があるわけですね。大人扱いするということです。成長期の子どもたちも、大人として扱って初めて、自立した大人に育つわけですよね。いつまでも子ども扱いでは、反発だけが募って参ります。 

 教会の成長を考える時、ベテランから若手にどのようにゆだねていくのか。とても大切なテーマです。ベテランが消えてはいけません。最後まで支えなければ!

 でも、少しずつは若手に丁寧に伝え、ゆだねていく事を、私たちが学び続ける必要があるでしょう。



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