民数記20章1-13節「メリバの水」
元首相の狙撃事件とそれに伴い、ある宗教団体との関わりが報道される日々です。そして、そのような中で人間の教祖がまるで神のような権限を持ち、誰も逆らえなくなることが、いかに恐ろしいことかと思わされます。
「人間が神のようになろうとすること」は、いつでもとても罪深いことで危険です。それは聖書が繰り返し警告している問題ですが、歴史の中でもたびたび起こって来たことでもあり、カルト団体、新興宗教などで実際に起こった例もあります。
1. 民の罪(反乱、再び)
2節 そこには、会衆のための水がなかった。彼らは集まってモーセとアロンに逆らった。3節 民はモーセと争って言った。「ああ、われわれの兄弟たちが主の前で死んだとき、われわれも死んでいたらよかったのに。
40年経っても、同じようなことをずっと繰り返してきたのだな・・・と感じます。彼らは「こんなに苦しむなら、さっさと死んでいたら良かったのに」とさえ言っているのです。
確かに荒野と呼ばれる場所ですから、非常に過酷なことは確かです。それでも、モーセとアロンとしたら、40年経ってもこうして不平・不満ばかりを言われるのでは、たまったものではないと思うのです。
5節の彼らのことばでは、食べ物、飲み物のことが不満の大きな原因になっていることが分かります。40年も荒野で生かされて来て、尚、食べ物、飲み物の文句を続けているのです。
そして、こうした民の不平不満、反乱が起こった時、モーセとアロンは決まってこのようにしていました。6節です。
6節 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れた。
そうです。彼らはいつでも主の前にひれ伏し、主のみこころを求めました。この姿勢は本当にすばらしいもので、見習いたいですよね。主は彼らに一つの道を示されました。8節に主のことばがあります。
8節
「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」
彼らはこの命令に応じて、主の前から杖を取り、民を召集しました。ただし、今回は民だけでの問題ではなく、むしろモーセとアロンの問題が隠されることなく語られています。聖書はモーセでさえも、神格化したり、罪なき者とはしていないのです。
2.モーセとアロンの罪
11節 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
一見何も問題がなさそうに見えます。ただ、12節にこうあります。
12節 しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
なんとモーセとアロンは、主なる神様を信頼せず、会衆の前において、主が聖なる方であることを現わさなかった・・・と語られているのです。一体、どういうことなのでしょうか?
第一に、10節のモーセのことばに、問題がよく現れています。
10節「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
誰よりも謙遜な人と言われたモーセです。しかし、彼のことばとは思えないほどの傲慢なことばです。
「反逆者たちよ、なぜ、この岩から我々が水を出してやらなければいけないのか!」と、非常に怒りとともに、上から目線な言い分です。
ここで、水を出して与えているのは誰なのでしょうか? 神様ですよね。
それなのに、「我々が」と・・・まるで自分たちが神になったかのように、言っているのです。「主のしもべ」でありながら、怒りに任せて、まるで自分たちを神のようにしてしまった。これは神様に対する最大の不信仰でした。
何より、神さまは8節の最後で語られていましたね。「彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」と。水は民の不信仰をさばくために出すのではなく、彼らとその家畜に水を飲ませるためでした。むしろ、神様のあわれみを示すものでした。
ところが、モーセらは怒りに囚われて、不信仰な者どもよ、見てみろ!水が出すぞ!と言わんばかりに、彼らをギャフンと言わせる目的で、これをしてしまった印象。結果として、これは神の聖さを現わすどころか、神のみこころを歪めて伝えてしまっているのです。
これは私自身、他人事ではないなと思わされます。人を救ってくださるのも、人を成長させてくださるのも神様なのに、どこかで自分がしたかのように思い上がり、「こんなにしてあげているのに」と、思い通りにならないことに苛立つ事が、決してないとは言えません。
私たちには主のあわれみ深さを真似ることが、簡単にはできないのです。こんなにも自分勝手な民でありながら、なお主は水を欠かさず与え、食べ物を与え続けられたのですから。
第二に、彼のこの後の行動にも不信仰な行動がありました。11節にありますが、モーセは彼の杖で二度も岩を打っています。
神様は「杖で打ちなさい」と言ったでしょうか。8節によれば、「岩に命じれば岩が水を出す」と主は言っておられます。ですから、ただ命じれば良かったのです。
それを、あえてパフォーマンスのごとく岩を打ってしまった。しかも二度。そこにも「自分がやったのだ!」という思いが現れているのではないでしょうか。主のことばに不忠実になると、結局自分のやり方、自分の個人的思いが出過ぎてしまいます。
実は、過去に、出エジプト記17章で、ホレブの岩を一度だけ杖で打って水を出すという出来事があったのです。モーセには、その経験がありました。ゆえに、自分の経験に頼ったと言う面もあるでしょう。
神様よりも、過去の自分の経験、思い込みを重んじたのです。しかし、その過去の出来事では、神様が杖で「その岩を打て」とハッキリ命じておられたのです。ですから、いつでも大切なことは、その時その時に、主の声にまっすぐに聴くということですよね。人は、傲慢になるほどに、神のことばも人の忠告も聞かなくなっていきますよね。
3. 罪の結果
13節 これがメリバの水である。イスラエルの子らが主と争った場所であり、主はご自分が聖であることを彼らのうちに示されたのである。
メリバとは「争う」という意味のことばです。モーセとアロンも含めて、この民が神様と争ったゆえに、この世代の者たちが約束の地カナンに入ることを許されなかった一つのしるしです。
少し後の20章の23節以下を見ていただくと、メリバの水のことで主の命令に逆らったゆえに、アロンがカナンの地へは入ることができずに天に召されたことが語られています。モーセも同様で、申命記32章において、全く同じ理由にてカナンの地には入れず天に召されていくことが語られています。
モーセとアロンという優れた人材でさえも、やはり人は罪ある人間なのです。
特にモーセとアロンに関して言えば、これは一見厳しいさばきに思えます。この民の中では誰よりも忍耐深く主に従ってきました。民のために何度、主の前にひれ伏して、とりなしてきたことでしょうか。彼らの信仰とその忍耐は、誰よりも主が喜び、覚えておられます。すばらしい信仰の生涯でした。そして、同情の余地があるとするならば、彼らは「こんなに忍耐深く導いてきたのに、不満ばかりぶつけられる」という「痛み」が、「大きな傷」となっていて、つい感情的、支配的態度に出てしまったということがあると思います。それはよくわかる気がしますね。
実に、権威主義的になってしまった人の背景には、こうした「過去の大きな傷」が関係していることが少なくありません。反乱できないほどの強い支配関係を築けば、逆らう者が減って傷つかないで済むからです。
ただ、これが人間の弱さ、限界なのです。どれだけ反逆、反抗されても、なお赦し愛し続けるなどというのは、神様にしかできないことなのですよね。だから、私たちは、できないのだと率直に認め、ホンモノの神様だけを恐れあがめるべきなのです。
人が「自分を神にする」という罪は、本当に危険なもので、民全体を偽りのものに導いてしまいます。指導者だからこそ、厳しく問われるのです。聖書では教師はより厳しいさばきを受けると語られています。それはそうです。それによって、民が倒れるのか、立って前に進めるのか、少なくない影響があるのですから。
そして、それを考えるならば、むしろモーセとアロンのこの大きな罪への報いが、カナンの地に入れないという事で済んだという事実は、これもまた、神様の大きなあわれみであると思わされます。モーセらの地上での生涯はカナンの地を前に終わります。
しかし、主は彼らの魂をご自分のもとに招かれ、終わりの時に、「真の安息の地」=天の御国へと大歓迎で入れてくださることは疑いないことです。そこに「大きな希望」がありますよね。私たちは神である方のみを神とし、恐れ敬い、この方を愛し従っていくことを通して、この罪からともに守られたいのです。
申命記6:4-6 6:4 聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。6:5 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。6:6 私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。