東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 民数記18章1-7節「ともに主に仕えるために」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/07/04

民数記18章1-7節「ともに主に仕えるために」

 *** 7/3(日)主日礼拝 説教概略 ***

民数記181-7節「ともに主に仕えるために」

 「賜物ゲーム」というものを何度かしたことがあります。その人の賜物だと思うところを互いに言い合うゲームです。賜物とは、神様から各自に与えられている才能、個性。神様からの贈り物です。神様はすべての人にそのような賜物を与えてくださっているのですが、なかなか自覚できないことも多い。そして時に人と比べてしまい、自分には何もないと思い、賜物豊かな人を羨ましく思ってしまうこともあるでしょう。

 しかし、賜物は互いの益のため、互いに仕え合うため、主の栄光を現すために、神様が各人に与えてくださったものです。賜物がない人はいません。

 ですから、他の人に与えられているものを欲しがるのではなく、神様があなたに「これが最善だよ」と与えてくださった賜物を自分も周囲も感謝して受け止めることが大切です。それが、ともに神様に仕え、世界に仕えていくために大切なチームワークとなります。

本日のみことば、7節の中にも「わたしはあなたがたの祭司職の奉仕を賜物として与える。」と語られています。祭司のお仕事は天からの賜物として、神様が定めた人にゆだねられたものでした。

ですから、神様のお決めになったことを喜んで受け入れ、祭司のために祈り協力するということが求められたのです。ところが、先の16章にありましたが、祭司職を妬ましく思って反乱を起こす者もいたのです。大祭司として神様によって選ばれたアロンへの嫉妬と、神の主権を軽んじる高慢の問題でしたよね。その後、イスラエルの民全体でも、モーセやアロンに不満をぶつけることが起こりました。

 こうした状況にあって、神様は、もう一度アロンの家系こそが、神の定めた賜物として、祭司職が任されたのだということを教えられました。

 17章では、目に見える「しるし」で確認されました。その見える方法とは、イスラエルの12部族から、それぞれの族長の杖を出させて、12本の杖を神の契約の箱の前に置かせるのです。

 そして、神様が選んだ杖だけが(つまり祭司の杖だけが)・・・どうなったのでしょう?

1.「わたしは、つぇ~杖(強ぇ~杖)だ」と話し始めた。 
2.杖が長くなった(如意棒?) 
3.杖から芽が出て、花を咲かせ、実を実らせた 

 正解は3です。

 アロンの杖だけが芽を出しました。彼の家系こそ祭司なのだと主が示されたのです。ちなみに、178節を見ていただくと、この杖はアーモンドの木から出来ていると分かります。なお、アーモンドはバラ科サクラ属の植物で、サクラによく似た花を咲かせます。

このように、神様がはっきり分かる形で、アロンたち一族を祭司として皆に示して見せたのです。そして、祭司だけが聖なる幕屋の奉仕に携わることが許されたのです。こうした神様の定めた権威や秩序を皆が尊んで、良い協力関係によって神に仕え、世界に仕えていけるように、祭司の長であるアロンに神様がお語りになったのが今日の18章です。

 

1.隣人を過ちから守るために 


 まず、神様がアロンにおっしゃったことは、隣人を過ちから守るために、責任をもって祭司職が尊びなさいということです。それを侵害して民が滅ぶようなことがないように。祭司自らが、その職を重んじることで示す必要がありました。

 そう思うと牧師の働きも、牧師自らがその働きをまず尊んで重んじることから始めないといけないと、改めて教えられます。1節で主はこう言われていますね。

1節 そこで、主はアロンに言われた。「あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所に関わる咎を負わなければならない。また、あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちは、あなたがたの祭司職に関わる咎を負わなければならない。 

 アロンの家系の者たちは、「神の聖所に関わる咎」と「祭司職に関わる咎」を負わなければならない。そう語られています。「咎を負う」というのは、簡単に言うと「その責任を負う」ということです。

 神の聖所と祭司職に関しては、そこで何かあれば祭司がその責めを負うということでした。例えば、資格のない誰かが聖なる器具に触れて罪を犯すようなことがあれば、アロンたち祭司の責任が問われたと言うことです。ですから、祭司たちは、民が不用意に聖なるものに触れて滅びることがないよう、しっかりと教え見守る責任もあったのです。

 3節を見ていただくと(祭司ではない)レビ人たちが聖なる用具と祭壇には近づいてはいけないと注意がされています。また、4節では資格のない者が近づいて罪を犯さないようにということが教えられています。7節でも同様に繰り返されています。

 祭司職を守るということは、人々を滅びから守り、聖なる神礼拝を維持するために大切な教えでした。ですから、実は民が様々な不平不満を抱く場合も、また彼らの様々な罪深い問題も、祭司は「彼らが悪いんです。彼らの自己責任です」と言って、他人事で済ませてはいけない立場であったと言えます。彼らを正しく教え導く責任がありましたし、それでも問題を起こした場合には「私の指導も不十分だった」と振り返り、一緒に涙しながら主に祈る愛が求められたのです。

これは私たちの交わりや一緒に奉仕していく上でも、大切な考え方であると思います。

第一に、「我流」でするのではなく、みことばからその姿勢やその意義を一緒に謙虚に学び合っていく必要がありますよね。「わかったつもり」の我流が危ないのです。主ご自身や教師から「教えられやすい器でありたい」と思います。第二に、それでも失敗をしたり、罪を犯したりしてしまった場合に、それを「その人が悪い」だけで終わらせないことです。その人の弱さを自分の弱さのように受け止め、とりなして祈る姿勢を互いに持つ者でありたいと願います。これこそ、イエス・キリストのうちに見られる愛ですよね。他人事ではなく、ご自分が身代わりとなって罪の報いを受けながら、「父よ。彼らの罪をお赦しください」と祈られました。愛は他人事にしないのです。互いの破れを繕い合う交わりによって、主にお仕えしていきたいですよね。

 

2.同じチームの人々を感謝する姿勢 

 
 もう一つ、ここで語られていることは、謙虚さをもって、同じチームの人々を感謝する姿勢です。選ばれた祭司たちにも、もしかしたら「私たちは特別だ。優れているんだ。」という思い上がりがあったかもしれません。

 もし、そんな姿勢があるならば、人々の妬みを引き起こす要因にもなりかねませんね。それではお互いの関係性が悪くなってしまいます。

 神様はこの課題についてご存知ですから、配慮をもってアロンに語られたのでしょう。6節を見ていただけるでしょうか。 

6節 今ここに、わたしは、あなたがたの同族レビ人をイスラエルの子らの中から取り、会見の天幕の奉仕をするために主に献げられた者として、あなたがたへの贈り物とする。 

 「贈り物(英:gift)」ということばが心に留まりました。祭司にとって、彼らのもとで仕えるレビ人は、単なる「部下」や「家来」ではないのだということです。彼らはチームの仲間であり、神様からの「贈り物」として祭司のもとで一緒に仕えるよう召された大切なひとりひとりなのです。
 
 神様からの「贈り物」ですから、ないがしろにしたり、傷つけたりするようなことがあれば、それこそ祭司の罪が問われます。彼らを愛し、彼らの奉仕に感謝し、彼らを守り、何かあれば祭司が責任を取るのです。

 少し戻り、2節や4節では「彼らがあなたに連なり」、ともに神に仕えるということが教えられています。「連なる」と語られているように、祭司だけが主に仕えるのではなく、彼らレビ人たちがその指導のもとで、一緒に連なって参与していくのです。

 ですから、この人たちの助けなしには、祭司の働きは成り立たないのです。確かに、祭司しか触れてはいけないもの、扱えないものがある。祭司だけができることがあります。けれど、その一方で祭司だけでは決してできない働きなのです。きっちりと役割が区分けされながらも、それぞれの役割を果たすことで、一緒に神様への良い礼拝が生まれていくのです。ですから、互いの存在への尊敬と感謝が必要です。

 私たちはどうでしょうか?主に喜ばれる良いチームでしょうか?

 牧師だけで良い礼拝はできません。司会者と奏楽者だけでもできません。また、実は奉仕と名の付く人々だけでも成り立ちません。聴衆のひとりひとりも、ともに祈り、ともに賛美し、一生懸命説教を聞き、喜びをもって献金をささげ、互いの存在を主にあって喜び合うことで、主への良きささげ物となるのです。

 「連なって」とあったように、皆が「繋がり連なって」、お互いの存在が神様からの贈り物なのだと知って、喜び合う中で、皆の賜物が良きささげ物となります。

 私も体調が悪い時もあれば、説教準備が思うようにいかない時もあります。そんな時、皆さんの祈りの援軍にどれほど支えらえていることでしょうか。見えないその祈りのわざ、陰での様々な準備も主の前に覚えられ、互いに連なる糸としてつながっているのです。

 ある学生クリスチャンの全国カンファレンスで招かれてご奉仕したときのことです。集会前の奉仕者の祈りの時がありましたが、とても良い良い雰囲気だったことを覚えています。しかし、最後の夜の集会で、奉仕者たちは緊張や恐れもありました。けれど、皆で手を繋いで心を込めて一緒に祈りました。互いにつながる時、破れをカバーし合える交わりとなります。

 一人では祈れない時があります。先日、持たれた牧師の集まりでのことです。私は行けませんでしたが、お話を伺いました。一人の先生が突如具合が悪くなり救急搬送されました。大動脈解離だったそうです。非常に危険な状況になりましたが、そこにいた牧師たちが皆一斉にその先生のためにお祈りしたそうです。

 当の本人は意識を失っている間や、手術中は祈ることができないですよね?でも、主にあって繋がっている者たちが、祈ってくれるのです。この祈りの中で、驚くほど手術が上手く行き、今は一般病棟に移っているとのことです。

 

 神様は今日、あなたに語っておられます。

 隣人を過ちから守る愛の大切さです。妬みが起こる時、妬んだ者が悪いのは確かですが、妬みを引き起こさないように配慮する愛も必要なのです。誘惑に陥らないよう支える姿勢です。そして、仮に罪を犯してしまった場合にも、他人事としないこと。その人のためにともに祈る者となりたいと思います。そして、チームとして、互いの存在を神様からの贈り物として感謝し合いましょう。互いの賜物を尊び喜び、破れを繕い合うチームとして、主なる神様とこの世界に仕えて行きたいと思います。



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