東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 士師記6-7章「臆病者のギデオン」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/07/06

士師記6-7章「臆病者のギデオン」

 *** 7/6(水)祈祷会 説教概略 ***

士師記6-7章「臆病者のギデオン」

本日はギデオンの歩みに目を留め、そこにある主の救いのご計画をみことばから教えられたいと思います。ギデオンについて、しばしば「勇士ギデオン」と呼ばれることがあります。しかし、実際のギデオンは勇士どころかむしろ臆病者であったのでは?と思われます。

そんな臆病者のギデオンが、神様により頼み、その御力を体験していく中で「主にある勇士」とされていくわけです。つまり、臆病な彼を勇士となして勝利させてくださったのは神様ご自身です。ゆえに、臆病者であることが悪いことではなく、その弱さを自覚して、主のみわざの現れる機会とするならば、弱さでさえ主にあって誇ることができるのです。

ギデオンの時代は、ミディアン人が非常に強く、イスラエルはその前で劣勢を強いられていました。彼が士師として召し出される時の様子が11節にあります。ギデオンは当時、ぶどうの踏み場で小麦を打っていました。ぶどうの踏み場は、以前の訳では「酒ぶね」で、少し深さがある(60センチ程度)囲いでした。

彼はミディアン人から隠れるために、そこで小麦を打っていたのです。
と言うのも、ミディアン人たちは、小麦の収穫の時期を狙って襲って来るからでした。そういう意味でも、ギデオンは特別な人ではなく、皆と同じようにコソコソと隠れながら生活していた一人でした。

 その彼に主の使いが現れ言いました。
 12節です。主の使いが彼に現れて言った。「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる」 

 「力ある勇士よ」と呼ばれていますね。ここから「勇士ギデオン」というタイトルが生まれて来るのでしょう。ただし、先に言いましたように、主に従うことを通して、臆病で弱いギデオンが勇士のように勝利者となっていくという意図でしょう。

 実際、ギデオンに関する記録では、ギデオンの勇敢さよりも、ひたすら主の力による勝利であることが強調されているからです。14節でも、主が彼にこのように言います。

「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

 これに対してギデオンの答えはやはり弱さを感じるものです。15節 

ギデオンは言った。「ああ、主よ。どうすれば私はイスラエルを救えるのでしょうか。ご存知のように、私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私は父の家で一番若いのです。」 

 ギデオンは自らの現実を見る時に、どこにそんな強さ、力があるのか分かりませんでした。自分はマナセ族の中で最も弱い氏族に属している。しかも、自分の家の中でもギデオンは一番の年下であると言うのです。彼は自分の立場、弱さをよくわきまえていたと言えます。ただ、これに対して一つの明確な答えが既にここで語られます。

16節 主はギデオンに言われた。「わたしはあなたとともにいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つ。」と。

 ギデオンをあえて勇士と呼び、あなたのその力で救うのだと言われたのは「主の力がともにあるから」でした。あなたの「その力」とは、主に拠り頼む力でした。彼が「自分の弱さをよく知っているからこそ、神様により頼むことができる」という力だったのです。

 ただし、ギデオンは臆病で、慎重です。17節を見ると、彼は「もし私がみこころにかなうのでしたら」と前置きした上で、あなたが主であるという「しるし」を見せて欲しいと願います。しかし、それを主はお叱りになるのではなく、その弱さに寄り添うようにして、ご自身を現わしギデオンを励ましてくださったのです。

ところが、ギデオンはしるしを見ると途端に怖くなりました。22節です。
自分の目で主を見てしまった。主の使いを顔と顔とを合わせて見てしまった。神様ご自身であることをしるしをもって示して欲しいと頼んだのはギデオンだったのに、いざ、その通りにしてもらったら、今度は恐怖が彼を襲ったのです。

 なんだか分かる気がします。自分の方から神様に奇跡やしるしを祈り求めておきながら、実際にそれが起こると、驚き戸惑う私たちでもあります。ギデオンは目の前の人が主の使いであるとわかり、不遜な自分は主の前で滅んでしまうのでは?と恐れたのです。

 主はそのような恐れに対しても、安心せよ。あなたは死なないと教えてくださいました。ただし、こちらはより健全な恐れですよね。

 その夜、主は早速、ギデオンを整えるために、彼の父親の家のバアルの祭壇を壊し、アシェラ像を切り倒すよう命じました。まずは身近なところから悔い改めが始まり、それが大きな主の働きへと進展していくものです。「リバイバルは悔い改めから始まる」と聞いたのを思い出します。


27節でギデオンが早速その命令に従ったことがわかります。ただし、ここでも「彼は父の家の者や、町の人々を恐れたので昼間ではなく、夜にそれを実行したと語られています。こうやって見ても、彼は元々、特別勇敢な人というわけではなく、むしろ臆病、怖がりで、慎重な人であったと考えられますね。

 でも、そのような人だからこそ、主の力がそこによく見えるようになるのです。それにしても、ギデオンの父親が偶像を所有していたことに、当時の堕落具合がよく現れていますよね。それでも、ギデオンがこうして信仰に立つことによって、父ヨアシュも目を覚ましたいきます。

 町の人々が偶像を破壊したギデオンを「殺せ!」と父親のもとに押しかけてきました。しかし、父ヨアシュは、バアルが力ある本物の神だと言うなら、自分で争い勝利すればいいと主張しました。こうして、このエピソードから32節にあるように、ギデオンには「エルバアル」という呼び名がつけられるようになりました。直訳的には「バアルは争え」ということですが、「バアルが神ならば、自分の力で争い勝利するがいい」といった意味が込められていました。もちろん、実際には何の力もないので、皮肉ったことばです。


 この後、ギデオンは神様からいよいよミディアン・アマレク連合軍を相手することになっていきます。34節に、主の霊がギデオンを覆い、彼の吹く角笛によって彼のもとに軍隊が集められていきます。弱さを覆う主の御霊の力がここでも現れていますね。Ⅱテモテ1:7「神は私たちに臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」とあります。臆病の霊ではなく、力ある御霊、同時に愛と慎み(謙虚さ、自らをわきまえる姿勢)をくださる御霊です。

いよいよ、戦いが始ろうした時。主は不思議なことをギデオンに告げました。72節です。なんと、相手の方がずっと兵が多いにも関わらず、「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので」勝利を与えないと言われたのです。なんと不思議な話でしょうか。

同じ2節に、その理由があります。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。と。神様が最も忌み嫌われることは、繰り返し罪を犯す弱さではありません。神をあがめず自分をあがめてしまう「高慢」です。これは神を求めなくなるので最悪なのです。そうならないために、兵を減らすようにと主は言われました。恐れていて士気の低い者を帰らせ、3節を見ると、せっかく32千人いたのに、22千人が帰り、残り1万人になってしまいました。

ですが・・・さらに4節では、「兵はまだ多すぎる」と主は言われ、結局300人まで減らされていきます。12節によれば、敵方は「いなごのように大勢」(つまり、災害時のイナゴの大群のように大勢)。さらに、「らくだ」を騎兵としていたようですが、そのらくだの数も海辺の砂のようで数えきれないほどでした。それに対してイスラエル軍は、わずか300人。もう奇跡なしに勝利はありえない。神様に本気で、とことんより頼むしかない状況に主はされたのです。こういう事が私たちの人生でも起こり得ます。

 しかし、主は豊かに働かれ、ギデオンを夢を用いて励ましつつ、勝利をもたらされました。彼は工夫をしながら、夜襲をかけ見事勝利していきます。

 ただ、22節を見落としてはいけません。「主は陣営全体にわたって同士討ちが起こるようにされたので・・・」彼らは逃げ出して行ったのです。これなしに勝利はあり得なかったでしょう。


 私はかつて「勇士ギデオン」と捉えていました。そう言われていたからです。けれど、実際に改めてみことばから聞くと、彼を勇士たらしめたのは、徹底して主であるということを知ります。

 むしろ、肉の彼自身は弱くて臆病な普通の人でした。そして、軍が集まってきたのに、主はあえてそれを減らさせ、さらにギデオンを弱い状況に置かれました

 それは主の力が現れるためです。あえて弱くされている・・・そう感じる時、主がそこにおられるのです。

 神様が私たちに弱さを与えるのは、主の力が現れる前触れなのです。

 主を知るためなのです。

 その時に、臆病な自分を正直に認め、主に拠り頼む者となりましょう。その人こそ、後になって主にある信仰の勇士だと語られるでしょう。




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