Ⅰサムエル記1-2章「子をささげたハンナ」
7節を参照ください。主の宮で「和解のささげ物」をした後に、その食卓にあずかるのですが、子どもたちと楽しそうに食べるもう一人の妻の姿を前に、ハンナは苦しくてその食事にあずかることはありませんでした。
その祝いの食事に手をつけられないままに、食事の時間が終わりました。9-10節
12-13節では、彼女の祈りの様子があります。彼女は長く祈り、声を出さずに唇だけを動かし心で祈っていました。そのために、当時の祭司エリは、彼女がお酒に酔っているのではないかと思ったのでした。
実に、この祭司エリは、正直、あまり霊的な人ではありませんでした。洞察力もなく、子育てにおいても成功しているとは言い難く、混乱した時代を象徴する「微妙な祭司(職業祭司)」といったイメージです。この場面でも、熱心に祈っている人を、酒に酔っていると見間違えています。どうにも霊的洞察力が見えない。鈍さを感じるのです。
むしろ一般信徒であるハンナの方が、神様と向き合い、祈りの格闘をする人に見えます。祭司エリの気休めのようなことばが17節にありますが、それさえもハンナは信仰のうちに、主が彼を通してお語りになったものとして、感謝をもって受け止め、安心して帰り、食事をすることができました。
それを思うと、牧師があまり信仰豊かでないとしても、信徒自身で恵まれることができるとも言えます。時によく分からない説教でさえ、そこから恵みをくみ取ることは十分可能なのです。牧師に依存しすぎないことは、ある意味健全な信仰でしょう。
18節にあるように、その顔はもう以前のようではありませんでした。それは祭司エリの気休めのことばの影響ではないでしょう。彼女が精いっぱい主に祈り、委ね切るほどに祈り尽くしたからでしょう。主のなさることにゆだねたゆえの平安です。
しかし、24節にあるように、いよいよ乳離れした時には、正式な手続きをもって主の家に出向き、幼いサムエルを神様のためにおささげしたのです。
彼らは子牛3頭もささげています。最も高価な動物であり、しかも3頭ですから、彼らの感謝の思いをそこに込めているのでしょう。
1章27-28節にハンナの姿勢が語られています。
ハンナと夫は、サムエルを主の手におゆだねし、神様に礼拝をささげています。神様が祈りに応え、かわいい子を与えてくださった事に感謝し、そして約束通りに誠実に我が子サムエルを神に仕える祭司として「出家させた」わけです。
とはいえ・・・
全く会えないわけではないにしても、今後は自由には会えません。ですから、乳離れしたばかりで・・・と思うと、親としても、子の立場としても悲しいことのように思えます。それこそ、誓願など立てなければ良かったのでは?とさえ思ったかも知れません。
けれど、驚かされたのは、ここに主のすばらしいみわざが起こっているということです。
実にこの時のハンナの心情が、続く2章1-10節における祈りのことばの中に現わされています。それは喜びに満ちたものでした。1-10節を一緒に読んで味わいましょう。
・・・どうでしょうか。喜びに満ちて、主をほめたたえているのではないでしょうか。
彼女は子を失ったとは考えず、主が顧みてくださった喜びにあふれ、また、約束通りに子を主に手にゆだねることができたゆえに、神様からの不思議な平安に満たされているのではないでしょうか。主が私に目を留め、救いを賜ったのだと。
このような忠実な姿勢によって、彼女はさらに祝福を受けていきました。
幼いながらも主に仕える立場となったサムエルもまた、主のもとでまっすぐに育って参ります。
対照的に、2章12節にあるように、祭司エリの息子たちはよこしまで、欲深く、罪深い者たちでした。彼らは祭司でありながら、そのあまりにも罪深い歩みのゆえに滅んでいきます。
一方、サムエルは主にあって成長し、豊かに用いられて参ります。2章21節の後半に語られていますね。「少年サムエルは主のみもとで成長した。」 また、26節を見ていただくと、サムエルが人々からも神様からも大切にされ、ますます成長したとあります。親元を離れてさみしい時もあったかも知れませんが、彼は人々からも主からも愛され、祝福された幸せな日々を送っていたのです。
そして少し戻り、19節をご覧下さい。ハンナは年に1度、サムエルの成長に合わせて上着を作り、毎年ささげ物とともに持って来ていました。年に一度、この時に会うことができたのかも知れません。ハンナはこの後、どのような祝福を受けたのでしょうか。21節前半です。 主はハンナを顧み、彼女は身ごもって、三人の息子と二人の娘を産んだ。
3人の息子、2人の娘を授かりました。神様から豊かに与えられたのです。私たちが主にささげる時、それで終わりではないのです。私たちの側でささげて、主が受けて終わりにはなりません。「主は人に借りを作らない」とある注解書にありました。「主は人に借りを作らない」本当にそうだと思います。人がどんなに献げたつもりでも、主からいただいている恵みに比べたら些細なものでしょう。それでも神様は、ささげられっぱなしで終わりにする方ではなく、必ず報いてくださいます。
みことばを味わって参りました。祭司エリとその息子たちの姿が、ハンナとその子サムエルの「まっすぐな信仰者」としての姿と対照的ですよね。どの立場だから愛され重宝されるということではなく、置かれたところで主に誠実に生きることに、主は間違いなく報いてくださいます。 そして、ハンナはようやく与えられた我が子を主の手にゆだねましたが、それは不幸の始まりではなく、最も幸福な瞬間となりました。彼女の心には言いようもない喜びと賛美があふれました。人間的には「辛い別れ」のように思える時でも、主の手にゆだねることを通して、主にある平安と私たちの思いを超えた祝福が与えられるのです。