東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰサムエル記1-2章「子をささげたハンナ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/08/24

Ⅰサムエル記1-2章「子をささげたハンナ」

*** 8/24(水)祈祷会 説教概略 ***

Ⅰサムエル記1-2章「子をささげたハンナ」

 聖書人物シリーズ、今日はサムエル記のハンナという女性です。
 ハンナと言うと、熱心な祈りによって子を授かったという「祈りの人」というイメージがあるかも知れません。もちろん、それはその通りで、私たちもその姿に励ましを受けることでしょう。

 しかし、一方で彼女は熱心に祈っただけではなく、神様の前に誓ったことを誠実に守り、与えられた子を神様におささげし、それゆえにとても祝福された人でもあります。
 
 時代としては、混乱した士師記の時代の続きにあたります。

 士師記の終盤になると、「イスラエルには王がいなかった」という表現が繰り返し登場し、17:6では「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていたと語られています。こうした指導者なき混乱の時代に、最後の士師にあたるサムエルが生まれます。


1. ハンナの苦しみ、その祈り
 
 彼の母となるのがハンナでした。彼女はエルカナという男性と結婚していたものの、子ができずに悩んでいた人でした。また、このエルカナにはもう一人妻ペニンナがいて、彼女には子どもが与えられていたので、彼女との関係で悩み傷ついていました。

7節を参照ください。主の宮で「和解のささげ物」をした後に、その食卓にあずかるのですが、子どもたちと楽しそうに食べるもう一人の妻の姿を前に、ハンナは苦しくてその食事にあずかることはありませんでした。

その祝いの食事に手をつけられないままに、食事の時間が終わりました。9-10

9節 シロでの飲食が終わった後、ハンナは立ち上がった。ちょうどそのとき、祭司エリは主の神殿の門柱のそばで、椅子に座っていた。10節 ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主に祈った。 

 苦しみいら立つ日々でしたが、彼女はその思いを神様に祈りによってぶつけ、子を求めて祈ったのです。また、11節によれば、彼女は神様に誓願を立てて、もし、子を与えていただけるのならば、その子は一生の間、神様にお仕えする者としてささげますと誓っています。

11節 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」 

 この祈り、少し軽々しく感情任せでしてしまったのではないだろうか?

 よくよく考え、決断したのだろうか?

 個人的にはそんな想像をしてしまいます。

 あるいは、ここまで言えば主もこの祈りに聞いてくれるのではないかと、「苦肉の策」のように祈ってしまったのではないか。そんな心配も勝手にしておりました。

 ただ、主は、こうした人間の勇み足のような決断さえも、あるいは感情的な判断さえも、よくご存知で、最善をなしてくださる方であります。これは後に分かって参ります。

 12-13節では、彼女の祈りの様子があります。彼女は長く祈り、声を出さずに唇だけを動かし心で祈っていました。そのために、当時の祭司エリは、彼女がお酒に酔っているのではないかと思ったのでした。

 実に、この祭司エリは、正直、あまり霊的な人ではありませんでした。洞察力もなく、子育てにおいても成功しているとは言い難く、混乱した時代を象徴する「微妙な祭司(職業祭司)」といったイメージです。この場面でも、熱心に祈っている人を、酒に酔っていると見間違えています。どうにも霊的洞察力が見えない。鈍さを感じるのです。

 むしろ一般信徒であるハンナの方が、神様と向き合い、祈りの格闘をする人に見えます。祭司エリの気休めのようなことばが17節にありますが、それさえもハンナは信仰のうちに、主が彼を通してお語りになったものとして、感謝をもって受け止め、安心して帰り、食事をすることができました。

 それを思うと、牧師があまり信仰豊かでないとしても、信徒自身で恵まれることができるとも言えます。時によく分からない説教でさえ、そこから恵みをくみ取ることは十分可能なのです。牧師に依存しすぎないことは、ある意味健全な信仰でしょう。 

 18節にあるように、その顔はもう以前のようではありませんでした。それは祭司エリの気休めのことばの影響ではないでしょう。彼女が精いっぱい主に祈り、委ね切るほどに祈り尽くしたからでしょう。主のなさることにゆだねたゆえの平安です。



2. 誠実にささげる者への主の祝福

 そして、彼女は身ごもり男の子を産みました。ハンナは乳離れするまでは自分の元に置かせて欲しいと願い、神様もそれを責めるようなことはありませんでした。

 しかし、24節にあるように、いよいよ乳離れした時には、正式な手続きをもって主の家に出向き、幼いサムエルを神様のためにおささげしたのです。

彼らは子牛3頭もささげています。最も高価な動物であり、しかも3頭ですから、彼らの感謝の思いをそこに込めているのでしょう。貧しい者、生活が苦しい者は小さな動物でも良かったのですから、その感謝の心がよく現れていると言えます。

127-28節にハンナの姿勢が語られています。

ハンナと夫は、サムエルを主の手におゆだねし、神様に礼拝をささげています。神様が祈りに応え、かわいい子を与えてくださった事に感謝し、そして約束通りに誠実に我が子サムエルを神に仕える祭司として「出家させた」わけです。

とはいえ・・・

全く会えないわけではないにしても、今後は自由には会えません。ですから、乳離れしたばかりで・・・と思うと、親としても、子の立場としても悲しいことのように思えます。それこそ、誓願など立てなければ良かったのでは?とさえ思ったかも知れません。

けれど、驚かされたのは、ここに主のすばらしいみわざが起こっているということです。

 実にこの時のハンナの心情が、続く21-10節における祈りのことばの中に現わされています。それは喜びに満ちたものでした。1-10節を一緒に読んで味わいましょう。

 ・・・どうでしょうか。喜びに満ちて、主をほめたたえているのではないでしょうか。

 彼女は子を失ったとは考えず、主が顧みてくださった喜びにあふれ、また、約束通りに子を主に手にゆだねることができたゆえに、神様からの不思議な平安に満たされているのではないでしょうか。主が私に目を留め、救いを賜ったのだと。

 このような忠実な姿勢によって、彼女はさらに祝福を受けていきました。

幼いながらも主に仕える立場となったサムエルもまた、主のもとでまっすぐに育って参ります。


対照的に、212節にあるように、祭司エリの息子たちはよこしまで、欲深く、罪深い者たちでした。彼らは祭司でありながら、そのあまりにも罪深い歩みのゆえに滅んでいきます。

一方、サムエルは主にあって成長し、豊かに用いられて参ります。221節の後半に語られていますね。「少年サムエルは主のみもとで成長した。」 また、26節を見ていただくと、サムエルが人々からも神様からも大切にされ、ますます成長したとあります。親元を離れてさみしい時もあったかも知れませんが、彼は人々からも主からも愛され、祝福された幸せな日々を送っていたのです。

そして少し戻り、19節をご覧下さい。ハンナは年に1度、サムエルの成長に合わせて上着を作り、毎年ささげ物とともに持って来ていました。年に一度、この時に会うことができたのかも知れません。ハンナはこの後、どのような祝福を受けたのでしょうか。21節前半です。 主はハンナを顧み、彼女は身ごもって、三人の息子と二人の娘を産んだ。  

3人の息子、2人の娘を授かりました。神様から豊かに与えられたのです。私たちが主にささげる時、それで終わりではないのです。私たちの側でささげて、主が受けて終わりにはなりません。「主は人に借りを作らない」とある注解書にありました。「主は人に借りを作らない」本当にそうだと思います。人がどんなに献げたつもりでも、主からいただいている恵みに比べたら些細なものでしょう。それでも神様は、ささげられっぱなしで終わりにする方ではなく、必ず報いてくださいます。 

みことばを味わって参りました。祭司エリとその息子たちの姿が、ハンナとその子サムエルの「まっすぐな信仰者」としての姿と対照的ですよね。どの立場だから愛され重宝されるということではなく、置かれたところで主に誠実に生きることに、主は間違いなく報いてくださいます。 そして、ハンナはようやく与えられた我が子を主の手にゆだねましたが、それは不幸の始まりではなく、最も幸福な瞬間となりました。彼女の心には言いようもない喜びと賛美があふれました。人間的には「辛い別れ」のように思える時でも、主の手にゆだねることを通して、主にある平安と私たちの思いを超えた祝福が与えられるのです。

「主は人に借りを作らない」 これは真実です。




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