民数記21章4-9節「仰ぎ見れば生きる」
さて、コロナの苦しみの中で、この苦しみが取り除かれるようにと祈りました。
しかし、苦しみはそう簡単には消えません。今でも、だるさや咳など症状は残っていますし、コロナの後遺症は長い人はいつまでも残ると言われますから、いつになったら完全に抜けるのか?わかりません。
でも、「それがあるからダメだ」ということでもありません。私たちは弱さや痛みが取り除かれる事こそが救いだと考えがちですが、そうではないこともあるのです。
それらがあっても、絶望せず、倒れず、人の弱さを思い知りながら、学びながら、痛みや苦しみとともに生きて行く道もあります。
苦しみがなければ、私たちは主を求めなくなるやも知れません。試練がなければ、静かに少しずつ私たちの信仰は弱るかも知れません。
私が神様との交わりを深めることができたのも、自身が非常につらい経験をし、孤独が深まっていた時であったからです。本日のみことばにおいても、苦しみそのものがなくなるのではなく、苦しい中でも主を見上げれば生きるという神の救いがあったことを知ることができます。
4-5節に目を留めましょう。
4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回しようとして、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中で我慢ができなくなり、5 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」
イスラエルの民はエドムの地を迂回しようとして、荒野の長い道のりを移動していたようです。その疲労もピークに達したのでしょうか。ついに「我慢できなくなり」、再び不平不満をもって神様とモーセに逆らいました。
神様がくださっていたマナという恵みの食べ物であっても、「みじめな食べ物」として飽き飽きしたというのです。
ただ、そもそも約束の地に入ることを拒んだのは誰なのでしょうか?
神様は「豊かな食べ物があるから、約束の地へ進みなさい」と命じておられましたよね。しかし、この民はそれを拒んだ結果、荒野でマナを食べる生活を続けていたのです。
そして、歴史上、しばらく後に、実際にこの地に入ると、カナンの地の収穫物で過ごすようになり、マナも止まりました。それを考えると、みじめな食べ物で生きる道を選んだのは、他でもない自分たち自身でした。
これは新約聖書の「放蕩息子のたとえ」でも見られるテーマですね。父のもとにはご馳走があったのに、父に反発して家出をして、自分の望む通りにした結果、貧しく苦しい日々となったのです。自分の好き勝手なふるまいをして、結果恵みから遠ざかったのです。
同時に、神様がくださるマナについて、少なくともモーセは「みじめな食べ物」だと言ったことは一度もありません。感謝して受ける時、こんなに栄養バランスもあるありがたい糧はなかったと言えるでしょう。
彼らの反抗的な態度はさらにひどくなっていたのかも知れません。だからでしょうか。神様は、今回。最初から厳しい対応をなさっているように感じます。6節です。
6節 そこで主は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。
「燃える蛇」と訳されていますが、英語訳では「燃える蛇」と訳すものもあれば、「猛毒の蛇、まむし」と訳すものや「死をもたらす蛇」と訳すものもあります。
はっきり言えることは、この蛇には死に至る猛毒があって、噛まれてそのままでいると死んでしまうというものでありました。これには民も恐れ、自分たちの罪を認め、助けを求めています。7節です。
7節 民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
彼ら自身もはっきりと神様を非難したと認めていますよね。いつでも大切なことは、過ちを犯したとしても、それを正当化しないで素直に認めて行くことですよね。
それで、彼らが考えた助かる方法、彼らが願った救済方法は何だったのでしょうか?
7節でこうありました。
「どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう主に祈ってください。」
いつでも私たちの助けを求める祈りは、こうした祈りではないでしょうか?
つまり、「自分たちにとって問題となっている存在を取り除いて欲しい」という願いです。
どうしても人間の発想はこれです。とにかく目の前のその問題さえなくなれば解決すると考えがちですよね。
でも、それだと何も解決していないのではないでしょうか。
そもそもなぜ、この毒蛇の事件は起こったのでしたか??
神様に対して民が反逆したからですよね。毒蛇をさっさと取り除く奇跡では、この後どうなりますか? また少し経つと文句を言い始めるでしょう。また形ばかり悔い改めて、取り除いてもらっての繰り返し。何の成長もありません。
問題の本質は何でしょうか?
神様を求める姿勢の欠如です。神を信頼して仰ぎ見る姿勢がないことですよね。
以前、南地区の修養会で東方教会の神学について学びました。その中で触れられていたかは忘れてしまいましたが、東方教会の罪の考え方に、「神様を求める姿勢の欠如」ということがあると聞いたことがあります。
神様を求めようとしない、神様から離れて行く姿勢こそが問題であると。
逆に、ダビデ王などを見ればわかりますが、どんなに罪深く弱くても、彼は神様の前に出ようとしました。苦しみに合うにしても、神様の御手の中で苦しみたいと彼は言いました。その姿勢が神の目に良しとされていたのです。神様から離れることこそ、真の不幸である。私たちはそのことを受け止める必要があるのです。
ゆえに、神様は蛇を取り去る方法を救いとはしなかったのです!!
では、主はどうしたのでしょうか?
8-9節でこのように語られていますよね。
8節 すると主はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」
9節 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。
神様のくださった救いの道は、青銅によって燃える蛇を作り、それを高く掲げ、そして、蛇にいくら噛まれようと、これを仰ぎ見さえすれば人は生きることができるというものでした。
蛇を消して欲しいと願った人間でしたが、神様のみこころは違ったのです。
それだと痛みを過ぎるとまた、神様に求めなくなりますから。
ですから、蛇が消えるのではなく、蛇がいても、神様に求めるならば生きるという道を示されたのです。神の救いを仰ぎ見て生かされる道です。
そして、神様が与えられた救いの道の方が、はるかに私たちの現実に即しているのではないでしょうか。私たちの人生は毒のない人生ではないということです。
病気、災害、事故のない世界ではないのです。
それらの多くは人間の罪がもたらしていることもまた事実です。このような罪の世にあって、様々な試練が消えてなくなるのではなく、試練や困難がある中で、神様に求めることで救われていく道。それが主の救いのご計画でありました。
この出来事はヨハネの福音書の中で、イエス様自身が引用し、ご自身こそいつでも仰ぎ見るべき救いの旗印であることをお示しになりました。ヨハネ3章14-16節
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
16節は有名なみことばですが、その直前に今日の出来事がイエス様によって引用されているのです。荒野において、青銅の蛇を見上げた民が、例え猛毒の蛇に噛まれてもそこから回復でき、生かされたように・・・
人生の荒野を旅するすべての人が、主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見る時、神との交わりを回復させていただくことができます。それによって、人は生きるのです。
私たちは、十字架を繰り返し仰ぎ見ながら、罪の赦しと不信仰からの回復をいただき、主の癒しの中で生きていくのです。
しばしば、罪の毒に満ちたこの世界で、悪しき力にむしばまれます。その毒牙に噛まれ苦しむでしょう。それらがなくなればどんなにか楽になるか?と思います。
しかし、私たちはこの闇の中で輝くようにと召されているのです。闇がなくなるのではなく、暗闇の中であっても、光である方をしっかりと仰ぎ見て生きるように召されているのです。時につまずき、疲れますが、完全に倒されることはありません。主イエス様が十字架において勝利を取られたからです。
私たちの教会も、今、私たち家族をはじめ、コロナや様々な体調不良などで欠席が多く、奉仕者も不足し、大変な状況ではあります。でも、私たちはその中で十字架の主を見上げることを決してやめません。そこに「救い」があるからです。そこから真の慰めと癒しが与えられるからです。つまずき倒れますが、また立ち上がることができます。