東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 第一ペテロ2章1-5節「霊的成長を求めて」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/08/30

第一ペテロ2章1-5節「霊的成長を求めて」

*** 8/28(日)主日礼拝 説教概略 ***

第一ペテロ2章1-5節「霊的成長を求めて」

 本日は、キリスト者の「霊性」についての話です。
 「霊的成長を求めて」というタイトルも、もしかしたら少し分かりにくいと感じる方もあるかも知れません。日本語ではどうしても「霊」といったことばが入ると途端によく分からなくなるという面があります。

 霊的とは、まず、非物質的な要素、見えない内的なものという面があります
 人間の成長ということを考える時、「心身ともに成長する」という表現があり、一つは肉体的な成長を指しますね。子どもから大人への成長。

 もう一方で、肉体ではない成長。心、精神、人格などの内なる成長があります。特に、神様との交わりのうちに、内なる人が成長していくことを「霊的成長」と言います

 そして、嬉しいことに、肉体的成長は20歳ぐらいでほぼ止まってしまいますが、霊的成長においては、生きている限り豊かに成長できると言えます。むしろ、キリストに生きる者は、年を重ねるごとに人格的な深み、味わい、豊かさ、あるいは美しさ等が増し加わっていくほどです。柔和で魅力的な人柄が培われていきます。

 それは本当に楽しみなことで、期待と希望が持てる、まさに福音の恵みではないでしょうか? 年を取ることが否定的な事ではないばかりか、年を数えることは「恵みを数えること」でさえあるというのは、キリスト者の強みですよね。

 普通、年を取ることは否定的なことに思われるでしょう。けれど、キリストにある者には豊かな希望があるのです。ですから、聖書は私たちにこう語ります。

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(伝道者12:1) 

 あなたの創造主を知った上で年を重ねるならば、それは恵みを積み重ね、霊的成長を味わいながら成熟していくことが可能です。ですから、まだまだ良くなることができる、その必要があると、成長を神様に期待し、熱心に求めていきたいと思います。


1.神との親密さ

 また、何よりも霊性とは、神様とどれだけ親密な友情を持って歩んでいるかという問題です。

 私は説教準備の時、いつもこれを自分に問いかけます。

 どれだけ調べたかも大切ですが、どれだけ主と語り合ったか? 神様のお心を理解するために、どれだけ主に聞き、語りかけ、すがりつくように教えを求め、格闘したか。

 何時間、何十時間、主と語り合えたか?

 そうした人の目に見えないプロセスにおいて、主なる神様と親しい時間をもって、一緒に備えてきた事がこの説教の背後になければ薄っぺらいものとなってしまうからです。

 皆さんは、先週、愛する神様とどれだけの時間を一緒に過ごされたでしょうか?

 いくつの主のことばに応え、その教えてくださったことを行ったでしょう。

 ある未信者さんが、LINEメッセージでみことばに語られ、決意してあることを実行なさったという証しを伺いました。その小さな主の語りかけに聞いて生きる事こそ、私たちキリスト者が日々大切にしたいものです。

  ご一緒に霊的成長を求めるということについて、その意義と方法、そこにある恵みを教えられて参りたいと思います。


2. 霊の乳(糧)を慕い求めよう
 今日のみことば。2節で早速、こう語られています。

2節 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。 

 生まれたばかりの乳飲み子は、1日に何回ぐらい、ミルクを飲むのでしょうか。個人差がかなりあるものの、平均で1日に6~8回ほどだそうです。私たちの食事の2倍以上ですね。赤ちゃんは常にお母さんを探し、ミルクを求めています。ですから、赤ちゃんの成長ってものすごく早いですよね。1年で体重が3倍にもなると言われます。

 それぐらい熱心に、霊の乳を慕い求めて成長してくださいと語られています。

 では「霊の乳(霊の糧)」とは何でしょうか?

 神様のみことばです。そして、神様から語られて、私たちも思いや考えをお伝えする。
 こうして神様と「語り合う親密な交わり」となります。

「親密な交わり」には、互いに親しく語り合い、ともに時間を過ごすことが必要不可欠ですよね。すぐ横にいるのに1週間一言も話さない。それで「親密」とは言わない。主の語りかけに聞き、祈りをもって思いや愛を伝えるのです。皆さんの神様との仲良し度、親密度はどれぐらいでしょうか?

先々週、味わった本の中に、ある神学生の証しが掲載されていました。その方は卒業式でそれを話されたそうです。ある試験の最中に、その問題で出された聖書のみことばに深い感動を覚えたそうです。そして、本当に心動かされ、しばらくペンを置いて神様を賛美せずにはいられなかったと。大切なはずの試験やその結果が、それほど大切でないと思えて後回しになるほど・・・ということですよね。(無事に合格されたようですが・・・)

この証しを伺って、私はとても嬉しい気持ちになりました試験そっちのけで、神様のすばらしさに感動し賛美している。試験をどうでもいいと思ったわけではないかも知れませんが、神様の愛に感動する時、そのような事がとても小さく思えます

私自身も、神学校でのある授業で、みことばに深く感動し、神様の愛の豊かさに感銘を受けたということがありました。その試験の際も論述試験で、感動を覚えたその個所の解釈が問題となっていました。私は試験中に賛美はしませんでしたが、正解を書こうとか点を取ろうとかよりも、ただ、自分自身の感動をひたすら書かせていただきました

主のすばらしさを書かずにはいられなかったと言ったらいいでしょうか。


3. 霊の糧を求める目的
 2節の後半には、「それによって成長し、救いを得るためです」と続きます。

 しかし、この手紙は、救われた人に宛てて書かれたものです。3節を見ていただいてもそれが分かりますよね。「あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。」と、既に主の交わりを持ち、主がいつくしみ深い方であることを味わい始めていることがわかります。

 でも、まだその奥まで味わえていないという事です。
 信じてはいるけれども、その真の豊かさ深さを味わえていないので、成長して味わえるようになってくださいと言う意味です。ですから、「救いを得るため」とありますが、「救いにある真の恵みを味わうため」と理解すると良いでしょう(直訳的にも「救いの中へと入って行くため」と訳せる。また、そのように訳す英語訳聖書もある)。

 「霊の乳」と表現されていることからも、まだ赤ちゃんクリスチャンである自覚を促しつつミルクを卒業するぐらいに成長することを期待していると言えるでしょう。そのようにして、やがて「奥深い様々な料理を味わえるように」と神様は願っているのです。


 若い頃には美味しいと思えなかったみことばが、ああ、深いな、慰められるなと感じられるようになります。かつては眠くなるだけだった箇所が、お気に入りのみことばになることもあります。厳しさ、苦さばかり感じていたみことばの中に、甘みややさしさを感じられるようになります。それは一つの霊的成長と言って良いでしょう。

 

4. 霊的成長は全人格的成長である

そして、霊的成長というのは、全人格的な成長です。生活のすべてにおいて変化をもたらすものであって、決して部分的なものではないのです。

ともすると私たちは、奉仕を色々となしていると、霊性が高まったように思ったり、知識や経験が増えるとそれ自体が霊的成長のように思ったりしがちです。特に役員、奏楽者、司会者等の人前に出てなす奉仕は、そのように思えてしまう誘惑があります。

しかし、むしろ、家で独りぼっちの自分、人が見ていないところでの自分の姿において、主の前にどうであるかが問われることなのです。

カナダのリージェント・カレッジで教えておられたユージン・ピーターソンは、「キリスト教の霊性とは、福音の全体を生き抜くことである。」と指摘しました。さらに「霊性はあなたの生活のすべての要素、つまり、子ども、配偶者、仕事、天気、財産、人間関係などを含み、そのすべてを信仰の行為として経験することである。」と言います。

生活のすべてを信仰の行為として経験していく、実に霊的成長とは、ぼんやりとしたものではなく、生活全体において福音が浸透し、行き渡って行くということです。 

最初、「天気」という部分が少し私の中で腑に落ちませんでした。ただ、今朝、天気が非常に悪くて一日中雨である予報を見た時に、祈らないではいられませんでした。礼拝に来られる皆さんの足が守られるように。また、午後には子どもたちのイベントがあるので、ぜひその時間帯に天気が守られるように・・・。

ただ、一方で雨も必要なもの。この日、この時に主が降らせるならば、それは多くの必要がそこにあるということもである。そんなことを考えたら、天気のことも信仰の行為として考え、受けとめ、経験していく大切な例であると気づかされました。

人前で信仰者らしく立派に振舞えることよりも、ジャージ姿でごみを捨てに行く時に、どういう人としてそこにいるのか・・・そういう事に福音が影響を与えている時に、霊的成長がなされていると言えるのかも知れません。


5節 あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。 

「霊のいけにえ」とは、「霊のささげもの」ということですが、それは何を意味するのでしょう?旧約聖書の時代は、自分たちが育ててきた家畜、それは財産でもありましたが、それらをささげました。けれども、それは「物資的なささげもの」ですよね。それに対して「霊のささげもの」とは、少なくとも物質的なものではありませんね。そして「神に喜ばれる」ものです。それは、神様への愛、神様との友情、神様との交わりを喜ぶ心です。礼拝の時だけでなく、生活全体の中で、人生全体において、神とともに生きる姿勢です。みことばを味わい楽しみ、祈りのうちに神と交わり、主のくださる恵みを日々感謝のうちに享受する歩み。

詩篇5117節にこうあります。神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心 と。「砕かれた霊(心)」とは、神の偉大さを心に刻んだ、神を恐れ敬う謙遜な心です。神ご自身を喜ぶ姿勢です。それこそ自分の利益になるから主を愛するのではなく、主が良いお方、すばらしいお方であり、私たちの造り主であるゆえに、この方を愛し、この方を賛美するのです。

4節でも「主のもとに来なさい」とありますように、遠いところから神様と交わるのではなく、それこそ密な距離感で神様と触れ合うようにして歩むのです。


終わりに
 
 神様との祈りを楽しんでいるでしょうか。語らいを楽しんでいるでしょうか。

 3度の食事のお祈りだけが祈りの時間ではなく、祈りながら仕事をし、主と対話しながら歩き、主のみことばに思いを馳せながら家事をする。「何を食べようか?神様、何がいいでしょう?」、「主よ、今日はどこに行きましょうか。主よ、今日は誰に話しましょうか。」 「主よ、少し疲れました。あなたの御手の中で安らがせてください。」  と、愛する主と片時でも離れることを惜しむ恋人のように、新婚の夫婦のように生きる。 この交わりこそが私たちを育てます。





 




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