第一ペテロ2章1-5節「霊的成長を求めて」
ご一緒に霊的成長を求めるということについて、その意義と方法、そこにある恵みを教えられて参りたいと思います。
先々週、味わった本の中に、ある神学生の証しが掲載されていました。その方は卒業式でそれを話されたそうです。ある試験の最中に、その問題で出された聖書のみことばに深い感動を覚えたそうです。そして、本当に心動かされ、しばらくペンを置いて神様を賛美せずにはいられなかったと。大切なはずの試験やその結果が、それほど大切でないと思えて後回しになるほど・・・ということですよね。(無事に合格されたようですが・・・)
この証しを伺って、私はとても嬉しい気持ちになりました。試験そっちのけで、神様のすばらしさに感動し賛美している。試験をどうでもいいと思ったわけではないかも知れませんが、神様の愛に感動する時、そのような事がとても小さく思えます。
私自身も、神学校でのある授業で、みことばに深く感動し、神様の愛の豊かさに感銘を受けたということがありました。その試験の際も論述試験で、感動を覚えたその個所の解釈が問題となっていました。私は試験中に賛美はしませんでしたが、正解を書こうとか点を取ろうとかよりも、ただ、自分自身の感動をひたすら書かせていただきました。
主のすばらしさを書かずにはいられなかったと言ったらいいでしょうか。
「霊の乳」と表現されていることからも、まだ赤ちゃんクリスチャンである自覚を促しつつ、ミルクを卒業するぐらいに成長することを期待していると言えるでしょう。そのようにして、やがて「奥深い様々な料理を味わえるように」と神様は願っているのです。
若い頃には美味しいと思えなかったみことばが、ああ、深いな、慰められるなと感じられるようになります。かつては眠くなるだけだった箇所が、お気に入りのみことばになることもあります。厳しさ、苦さばかり感じていたみことばの中に、甘みややさしさを感じられるようになります。それは一つの霊的成長と言って良いでしょう。
そして、霊的成長というのは、全人格的な成長です。生活のすべてにおいて変化をもたらすものであって、決して部分的なものではないのです。
ともすると私たちは、奉仕を色々となしていると、霊性が高まったように思ったり、知識や経験が増えるとそれ自体が霊的成長のように思ったりしがちです。特に役員、奏楽者、司会者等の人前に出てなす奉仕は、そのように思えてしまう誘惑があります。
しかし、むしろ、家で独りぼっちの自分、人が見ていないところでの自分の姿において、主の前にどうであるかが問われることなのです。
カナダのリージェント・カレッジで教えておられたユージン・ピーターソンは、「キリスト教の霊性とは、福音の全体を生き抜くことである。」と指摘しました。さらに「霊性はあなたの生活のすべての要素、つまり、子ども、配偶者、仕事、天気、財産、人間関係などを含み、そのすべてを信仰の行為として経験することである。」と言います。
生活のすべてを信仰の行為として経験していく、実に霊的成長とは、ぼんやりとしたものではなく、生活全体において福音が浸透し、行き渡って行くということです。
最初、「天気」という部分が少し私の中で腑に落ちませんでした。ただ、今朝、天気が非常に悪くて一日中雨である予報を見た時に、祈らないではいられませんでした。礼拝に来られる皆さんの足が守られるように。また、午後には子どもたちのイベントがあるので、ぜひその時間帯に天気が守られるように・・・。
ただ、一方で雨も必要なもの。この日、この時に主が降らせるならば、それは多くの必要がそこにあるということもである。そんなことを考えたら、天気のことも信仰の行為として考え、受けとめ、経験していく大切な例であると気づかされました。
人前で信仰者らしく立派に振舞えることよりも、ジャージ姿でごみを捨てに行く時に、どういう人としてそこにいるのか・・・そういう事に福音が影響を与えている時に、霊的成長がなされていると言えるのかも知れません。
5節 あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。
「霊のいけにえ」とは、「霊のささげもの」ということですが、それは何を意味するのでしょう?旧約聖書の時代は、自分たちが育ててきた家畜、それは財産でもありましたが、それらをささげました。けれども、それは「物資的なささげもの」ですよね。それに対して「霊のささげもの」とは、少なくとも物質的なものではありませんね。そして「神に喜ばれる」ものです。それは、神様への愛、神様との友情、神様との交わりを喜ぶ心です。礼拝の時だけでなく、生活全体の中で、人生全体において、神とともに生きる姿勢です。みことばを味わい楽しみ、祈りのうちに神と交わり、主のくださる恵みを日々感謝のうちに享受する歩み。
詩篇51篇17節にこうあります。神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心 と。「砕かれた霊(心)」とは、神の偉大さを心に刻んだ、神を恐れ敬う謙遜な心です。神ご自身を喜ぶ姿勢です。それこそ自分の利益になるから主を愛するのではなく、主が良いお方、すばらしいお方であり、私たちの造り主であるゆえに、この方を愛し、この方を賛美するのです。
4節でも「主のもとに来なさい」とありますように、遠いところから神様と交わるのではなく、それこそ密な距離感で神様と触れ合うようにして歩むのです。