東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰサムエル記13-15章「人間の王サウル」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/09/02

Ⅰサムエル記13-15章「人間の王サウル」

*** 8/31(水)祈祷会 説教概略***

 Ⅰサムエル記13-15章「人間の王サウル」

聖書人物シリーズ、今日はイスラエル最初の王サウルについてです。サウル王は容姿端麗でしたが、出身部族はベニヤミン族で、イスラエル部族の中では一番末子の部族でした。神様は、一番若い部族を王にすることで、「王の謙遜」を求めたのかも知れません。

 「人間の王を立てる」という民の要請は、神様を王座から降ろすようなものでした。神様という最高の王がありながら、欠けの多い人間を王にすることから、様々な問題も生まれます。

 特に、その王の資質に左右されますよね。王には権力がありますから、みことばに従わない勝手な者であると国まるごと不幸にしてしまう・・・それは歴史が証明しています。

 さて、サウル王はどんな王だったのでしょうか。残念ながら彼はまさに、人間を王に立てることの問題を知らしめる存在となった人と言えます。もちろん、彼はイスラエルに大勝利をもたらし、軍事面では用いられました。ところが、聖書はそのよう部分にあまり関心を向けず、むしろ、彼の神への忠実さに目を向けています。神様が見ておられるのは能力や成果ではなく、誠実さ、忠実さ、神と人への愛です。

 彼のいくつかの大きな過ち(神に従わない姿勢)が聖書に記録され、後世に残されていることに、神様のみこころが示されています。主は私たちに何をお語りになっているのでしょうか。

 

1. 主のご命令を守らなかった(13:8-14)

8 サウルは、サムエルがいることになっている例祭まで、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。それで、兵たちはサウルから離れて散って行こうとした。 

 戦いを前にして、主へのささげ物をして備えをするのが、神の民の戦い方です。この戦いは「主の戦い」であるからです。そして、それができるのは祭司なるサムエルでした。ただ、約束の7日間待っても、まだサムエルが来なかったので、サウルは主のご命令を無視して、勝手に祭司の真似事をしてしまったのです。なんとその時、サムエルが到着したのです。11 サムエルは言った。「あなたは、何ということをしたのか。」サウルは答えた。「兵たちが私から離れて散って行こうとしていて、また、ペリシテ人がミクマスに集まっていたのに、あなたが毎年の例祭に来ていないのを見たからです。 12 今、ペリシテ人がギルガルにいる私に向かって下って来ようとしているのに、まだ私は主に嘆願していないと考え、あえて、全焼のささげ物を献げたのです。」 

12節最後の「あえて・・・献げたのです」の部分は、「必要に迫られ、やむなく」といった意味だと思われます。特に、強大な敵を前にして兵士が動揺し、去って行こうとする姿に、サウルは非常に焦り、これでは負けてしまうと考えたのでしょう。そういう意味では彼の言い分も分かります。人が去って行こうとするとき、なんとかしなければと焦って行動してしまう弱さ。空回りする気合がかえって人々の心を離れさせます。

牧師をしていると似たような事を感じます。ただ、それで焦って自分なりに良いと思う行動をして、うまくいった例(ためし)がありません。最初に言いました。これは「主の戦い」なのです。どんな理由であれ、神様のみこころを捨てての祝福はないのです。人が去って行くのが主のみこころなら、そこにも主の計画があると信じるのです。次の146節に対照的な表現があります。息子ヨナタンの信仰から出ている発言です。 6 ヨナタンは道具持ちの若者に言った。「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。おそらく、主がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」 軍が多くても、少なくても、神様が救ってくださるのに何ら影響を与えない。ヨナタンはそう言っています。サウルとヨナタンは正反対ですね。サウル王は、この不信仰な態度をサムエルから叱られ、主の命をとにかく守るべきなのだと1313-14節で繰り返していますね。

 

2.身勝手な判断で民を苦しめた(14:24以降) 


 サウル王の主のみこころを求めない姿勢はいつもありました。自分が良いと思う「こだわり」を考えなしにしてしまうのです。ただ、これが王の立場でなされると民がみな犠牲になっていきます。1424節です。 24 さて、その日、イスラエル人はひどく苦しんでいた。サウルは、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれよ」と言って、兵たちに誓わせていた。それで兵たちはだれも食物を口にしていなかったのであった。 とんでもない誓願を兵士たちにさせています。自分だけで勝手にやればいいのにと思います。こうして、兵士たちは空腹のままに戦わなければなりません。かえって不利です。神様に伺いを立てることもなく、いわば「思いつき」ですよね。私も皆さんに、「そうだ!3日間断食してから伝道集会しましょう!」と強いるならどうでしょう?? 王や治める立場の人、指導する立場の人には、本当に正しい判断が求められるのだと教えられますよね。実に、この教えと反対のことをしたのが、やはりサウルの息子ヨナタンでした。なぜ、この父からこんな良い信仰者が生まれたのか・・・これもまた主のなさる不思議です。ヨナタンは誰も戦場でハチミツに手を出さないのを見て、平然とそれを食べて英気を養いました。兵士が驚いて、あなたの父上の誓いがあって、今日兵士たちは疲れ切っていると訴えます。ヨナタンはまっすぐに答えました。29 ヨナタンは言った。「父はこの国を悩ませている。ほら、この蜜を少し口にしたので、私の目は輝いている。 そして、今日、そんな制限がなく、何でも食べることができたのなら、より多くのペリシテ人を倒すことができたであろうと正論を語りました。神様は論理的なお方です。この世界を見れば、秩序立てて造られ、非常に論理的な構造になっていることが分かります。食べなければお腹がすき、力が入らず、疲れるのです。論理性や合理性を欠いた盲目的な信仰は、かえって主のみこころから離れます。「真の神学は霊的である」。サウルに主にみこころを求める姿勢があり、兵士たちを愛する心があれば、このような勝手な誓願を強いることはなかったでしょう。私たちの「こだわり」・・・主のみこころでしょうか?

 

3.ダビデへの嫉妬と殺意 


 さて、他にもサウルの罪深い課題が語られています。3つめを挙げるならば、ダビデへの嫉妬と憎悪でしょう(殺意も)。次の王となるために主が選んだダビデでした。サウルが主のみこころを求めている王ならば、ダビデ王を認め、彼に色々と教え、そして自らの王権を主にあって後継者ダビデにゆだねるべきでした。

 でも、彼は王権を握りしめ、その栄誉に固執し、自分より人気が出たダビデに嫉妬しました。この問題は、私たちにとっても身近な問題ですね。後継者を育てゆだねるということ。本当に難しい課題です。まして、自分より有能に見える後継者、人気がある後継者が現れると内心穏やかではないということが起こります。

 なお、ダビデを命がけで守ったのもヨナタンでしたね。ヨナタンは主が喜ばれる道を、お父さんのすぐ近くで行い、ある意味彼の王政を陰ながら支えた人であったと言えるでしょう。それができたのは、なぜでしょう?主のみことばを大事にしていたからです。サムエルがサウルに伝えたことばを味わいましょう。

1522-23節 22 サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。23 従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」 

 サウルは主を退ける王となった、ゆえに・・・。

一方で、こうしてみると、サウル王はある意味人間らしい王に見えます。人が王になるということは、こういう事なのです。力がない時には、そもそも出来なかったので問題にならなかったケースでも、力を持つことで、できてしまう。王でなければ、祭司の立場を横取りしてしまうこともなかったし、王でなければ請願を強いる権力もなかった。王でなければ、神様が選んだダビデを追い詰めることも不可能でした。 力を持つ、立場を得るということは、それだけ責任が問われます。神様への忠実さもその分より問われるのです。

 皆さんも権威者です。牧師、親、祖父母、兄姉、職場で、部活で、委員会で。教会の牧師、役員、教会学校教師、様々な委員。その歩みすべてにおいて、主のみこころを求めましょう。



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