東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰサムエル記14~20章「神にも人にも愛されたヨナタン」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/09/10

Ⅰサムエル記14~20章「神にも人にも愛されたヨナタン」

 *** 9/7(水)祈祷会 説教概略 ***

Ⅰサムエル記14~20章「神にも人にも愛されたヨナタン」

ヨナタンは聖書人物の中でも割と人気がある人物ではないでしょうか。英語読みでは「ジョナサン」で、人名にもよく使われますし、ファミリーレストランでも「ジョナサン」というお店がありますよね。そのヨナタンの性格、その信仰のあり方は「純粋でまっすぐ」と言ったら良いでしょうか。それゆえに、人々からも愛された信仰者です。

 サウル王が兵士の減少を恐れて神様のみこころを損なってしまった一方で、ヨナタンはまっすぐに神様のみこころを求めていました主が味方してくれるのならば、自分たちの人数が多かろうと、少なかろうと関係ないと言いいました。

Ⅰサムエル146節 ヨナタンは道具持ちの若者に言った。「さあ、この無割礼の者どもの先陣のところへ渡って行こう。おそらく、主がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」 

ヨナタンのこの信仰は、本当に実直で、言行一致な真実な歩み、勇敢な歩みですよね。そして、よく考えたら、ヨナタンと二人だけで飛び込んだ若者も相当に勇敢な人物ですよね。

7節にこうあります。 
7 道具持ちは言った。「何でも、お心のままになさってください。さあ、お進みください。私も一緒に参ります。お心のままに。」 

ここにヨナタンに対する信頼が見られます。道具持ちをここまで信頼させ、従わせられるヨナタンの人柄が垣間見えるようです。そして、人柄だけでなく、そこにある主をまっすぐに信じるヨナタンの信仰を彼は見ていたのかも知れません。

神に信頼してまっすぐ歩む人は、人としても魅力的であり、周囲の人々に安心や励まし、また感動をもたらすものです。強い人は確かに人の行動を動かしますが、心や魂から動かせる人は主のみこころにまっすぐな人ではないでしょうか。

そして、実際に彼らのこの奇襲は成功し、たった2人で20人を打ち取りました。わずか20人と思うかも知れませんが、これが勝利への大きな一歩となったことが記されています。15節です。 

15 そして陣営にも野にも、すべての兵のうちに恐れが起こった。先陣の者、略奪隊さえ恐れおののいた。地は震え、非常な恐れとなった。 

あなたが信仰をもって一歩を踏み出す時、それがごく些細な出来事だとしても、主に従った一歩がもたらす影響は決して小さくはないのだと知ってください。それを証しして欲しいのです。私たちが自分で思う以上に、他の人を勇気づけ、励ましとなるものなのです。

 ヨナタンのまっすぐさは、先週も触れましたが、サウルの自分勝手な誓願の押し付けの時によく現れていました。サウル王は夕方、敵に復讐を果たすまで誰も食べ物を口にしてはならないという命令を出したのでした。

ヨナタンは、これを最初、知らずに平然と食べたのですが、兵士からサウルの誓願について聞かされてもなお「いや、父が間違っている」と言って、むしろ食べるべきだと主張したのです。それはイスラエル忠の兵士を苦しめていたからです。やがて、サウルはヨナタンがこの誓願を破って蜜を食べたことを知り、息子に死刑宣告をします。ところが、なんと・・・多くの民がこれに反対したのです。

1445節 民はサウルに言った。「この大勝利をイスラエルにもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。絶対にそんなことはあり得ません。主は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。今日、あの方は神とともにこれをなさったのです。」こうして民がヨナタンを救ったので、彼は死ななかった。

民がヨナタンを守ってくれました。誓願の命令の時は、王の命令に背く人はいませんでした。王を恐れてのことでしょう。ところが、ヨナタンが殺されそうになると、その民は、ヨナタンのために勇気を出して死刑に反対したのです。

それは、ヨナタンが主の前に正しいことをしたからであり、また、民を守るため、兵士たちを助けるために王の命令に背いたからでした。人々はちゃんとそれを見ていたのです。「今日、あの方は神とともにこれをなさったのです」とのことばが、民の口から出ています。それはヨナタンの生きざまが、証しとなっているということですよね。

 私たちも「私は神とともに歩んでいます」と自分で口にするだけではなく、他の方々が私たちを見て、あの人はいつも主とともに歩んでいる!そう言っていただけるような歩みをしたいものですね。こうして、神にまっすぐに純粋に生きる人は、人からも愛されます。人がついて来るわけです・・・その意味ではサウル王よりも、息子ヨナタンの方が王としての資質が備わった人だったように思われます。ただ、ヨナタンは王位を継ぎませんでした。彼は王位を喜んで放棄し、それをダビデに捧げる姿勢を貫きました。なぜ、王子という立場であったヨナタンが、喜んで王位をダビデに捧げたのか?

 まさに、それこそヨナタンが神様に対してまっすぐな人だったからです。ダビデが神様から次の王として選ばれた、油注がれたと聞いて、信仰をもって受け入れていたのです。このヨナタンの歩みにおいて外せないのは、このダビデとの友情です。

18:1 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛した。 

結びついたという部分は、裁縫に使われる「編み込まれる」という意味の言葉が使われています。そして受身形ですので、「ヨナタンの心が、ダビデの心に結びつけられた」と理解できるかと思います。誰によってか?「神様によって」です。ヨナタンの意志はもちろんですが、神様がくださった出会いによって二人が友として結び合わされたのだということです。「神の受身形」と言っていいでしょう。

しかも、ヨナタンの方がダビデよりだいぶ年上だったと考えられています。年齢差を超えて、王子という立場にも固執せずに、対等な友として歩んだのです。それは、主によって良い友情を与えられたということです。ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛したとありますから、イエス様が教えられた「愛」にも通じますね。そして、ヨナタンはダビデと友情のゆえに「契約」を結びます。友としての誓い、約束です。3-4節 

18:3 ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。18:4 ヨナタンは着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。 

王子であるヨナタンが、自分の愛用の装備をささげるということは、「自分の王位を明け渡して、あなたこそ王です!」とのメッセージであろうと考えられます。実際、ヨナタンは一度も自分の王位を主張せず、いつでもダビデの味方となって、彼を支えていました。そして、ダビデもまたヨナタンを友として愛し、慕いました。

 実に、この二人がなぜ、こんなにお互いを尊敬しあえたのか??それは、この二人がどちらも主をまっすぐに信じる人だったからです。そして、この二人の間に主がおられたからです。ヨナタンがダビデに語ったことばの中に以下のものがあります。

20:23 私とあなたが交わしたことばについては、主が私とあなたの間の永遠の証人です。」
 
いつでも主が二人の真ん中におられ、互いのことば、約束の永遠の証人が主であると言うのです。夫婦関係において、神様を中心として夫と妻とが結び合わされる正三角形だと言われます。ともに主を見上げ、いつでも主がその中心におられる夫婦の関係が本当に守られていくものだと。

しかし、これは友情においても同じなのです。友も人間同士ですから、ケンカをしたり、傷つけあったり、時に裏切ってしまうようなこともあり得るのです。それがいつまでも続く良い友情となるためには、主がその真ん中におられる。そういう関係を築くことです。友情も、神様によって与えられる恩寵なのですよね。

ヨナタンはこうして、いつでも主を求め、人との関係においてもその間に主を置いたので、良い関係を保てたと言えるでしょう。 ダビデはヨナタンとの「主にある友情」を持っていたので、ヨナタンの死後も彼の子孫を保護するという約束を果たします。主が永遠の証人だからです。
 私たちもまっすぐな信仰をって歩み、人との関係においても祝福をいただきましょう。



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