東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: Ⅰ列王記 17~19章「霊肉ともに、主によって養われたエリヤ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/09/22

Ⅰ列王記 17~19章「霊肉ともに、主によって養われたエリヤ」

*** 9/21(水)祈祷会 説教概略 *** 

Ⅰ列王記 1719章「霊肉ともに、主によって養われたエリヤ」

本日は預言者エリヤに目を留めつつ、そこに与えられた「神様の養い」に目を留め、励まされて参りたいと思います。預言者エリヤは、ギルアデという地に住むティシュベ人であり、イスラエルがとても堕落している時代に預言者として遣わされた人でした。

その堕落の元凶はイスラエルの王アハブと妻イゼベルにありました。彼らはバアルの神々を拝む偶像礼拝者となり、それどころか、主に仕える預言者たちを次々と殺していたほど凶悪でした。

そして、主はこの民に自分たちの過ちを示し、またご自身を現すために、「数年間、露も降りず、雨も降らない」という困難をお与えになります(17章1節

 

1. 先回りして備え、養ってくださる主


 もちろん、それは正しく歩むエリヤにとっても同じように困難な事でありました。しかし、主は17章3-4節にあるように、エリヤを養い守ってくださいました。 

3節 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
4節 あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」

ケリテ川のほとりで水が確保され、烏を用いて食べ物を運ばせるという不思議な神様の養いでした。6節によればこの烏は一羽ではなく、何羽もいまして、朝夕の2回、パンとお肉を運んできてくれたようです。

しかし、やがてこのケリテ川も雨が降らなかったので枯れて参ります。神様は、今度はシドンにあるツァレファテに行くようにとエリヤにお命じになりました。そこで一人のやもめが主の命を受けており、養ってくれることになっていたのです。

主は私たちより「先回り」をして、備えておられるお方だと分かります。しかも、烏は1羽ではありませんでした。数羽を用意され、また次には別の地にやもめを備えておられました。主は先んじて、エリヤに必要なものを備えておられたのです。

「まず神の国とその義を求めよ。そうすれば、これらの必要はみな与えられる」と主イエス様も言われました。

主の声に聞いて生きるなら、必要は与えられ続けます14

14 イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」 

主の声に従って、ツァレファテのやもめはエリヤをその家で養いました。そして、主は日照りが続く間、粉も油も尽きないようにしてくださったのです。また、主のおことばに従いエリヤとともに歩むことは彼女に家にとって最善でした。彼女の息子は大きな病でついに息を引き取りますが、なんとエリヤの祈りに応じた主によって、息を吹き返したのです。20-21

 20 彼は主に叫んで祈った。「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」21 そして、彼は三度その子の上に身を伏せて、主に叫んで祈った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」 

 主はこの祈りに聞かれ、その子を生き返らせました。これらの一連の出来事を通して、主がその御声に従う者を養い、生かしてくださる方であることがよく分かりますね。

 神学生の頃、教会からの献金以外の収入がない生活の中にありました。神学生の多くが、経済的必要を覚えながら祈り合って歩んでいました。けれども、ある人が「エリヤを養った烏は一羽ではない」と語ってくれました。気が付けば、あちらからも、こちらからも、必要な物が与えられる生活でした。「主は生きておられる!」と教えられた尊い時でした。エリヤはこの期間、生きておられる主の力あるみわざを経験し、この後の働きの訓練をいただいたのでしょう。


2.肉体を支え養ってくださる主 

 
 エリヤの歩みのハイライトを考えると、バアルの預言者たちとの対峙でしょう。祭壇の上のささげ物に、どちらの神から天の火が降り燃やし尽くすか。そのような真の神がっどちらかという戦いですが・・・

当然生けるまことの神、主の火が降り、エリヤが勝利しました。

バアルの預言者らは逮捕され処刑されたのです。


ところが、その後にこそ、エリヤはより大きな試練を通ることになりました。この事を知った王妃イゼベルが逆襲に出たからです。エリヤに使者を出し「明日までに必ず殺す!」という殺害予告をしたのです。

 これにより、エリヤは非常に恐れに驚くほどに落ち込みました

193-4節。 

3 彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、
4 自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」 

彼は逃亡し、ベエル・シェバの荒野、エニシダの木の陰に座り込み、自分の死を願ったのです。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください」と。

大勝利の後に、ふっと気がぬけたところを、足元をすくわれるかのように殺害予告が届き、一気に疲労が出たのでしょう。必死の戦いを経て、緊張が解けたところに、異様な疲れと恐れが襲い、うつ状態になったと考えられます。燃え尽きですね。そこで主は、まず眠りによる癒しと食べ物による癒しを与えられました。5-8節にかけてそれが語られています。

眠っていたエリヤを起こされた主は、パン菓子と水を与え、エリヤを癒されました。そしてまたエリヤは眠り、さらにまた主は水と飲み物を与え、力づけたのです。どんなに心が燃えていようとも、私たちはこの体が病んでしまえば力を失います。自身に余力がなければ、人を受け入れ助けることもできませんよね。しばしば、まじめな人ほど、休養を取ることが「怠慢」であると思いがちです。けれども、休むことは備えであるもあるのです。日曜日、仕事、家事、部活動などを休み主の前で安息の時を過ごすことは、新しい週への良い準備でもあるのではないでしょうか。


3. 霊性を養ってくださる主

 
 そして、主が癒し、また養ってくださったのは肉体だけではありません。

その心、その霊性を励まし養ってくださる主です。

肉体の疲れを取ったエリヤは、この後ホレブの山に行きましたが、そこにあるほら穴の中に身を潜めました。しかし、主は言われました。9節後半「エリヤよ、ここで何をしているのか」と。主は私たちに一方的にただ命じるのではなく、問いかけをもって考える機会をくださる優しいお方です。

強引にせず、私たちに「心探られる時」を与え、応答を待ってくださるのです。それは主の優しさ、主の忍耐です。そこには「もう、やっていられません!」という嘆きや叫びさえあるでしょう。でも、本当に主を信頼する者は、嘆きや叫びさえも主に訴えることができるのです。

それこそエリヤの応えは自己憐憫に満ちたものでした。熱心に主に仕えたのに、イスラエル人は神との契約を捨て、預言者たちを殺した。私だけしか残っていない。しかし、今や私のいのちも風前の灯なのだと。ほら穴に閉じこもり、心も引きこもりつつあったエリヤに、主は命じられました。11節。11 主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」 ほら穴に閉じこもっていないで、主の前に立ちなさいということでした。

11節の続き  するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。 12節  地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。 

 主が通り過ぎられ、激しい大風、地震、炎と相次いで大きな自然現象が起こりました。ただ、その中には主がおられなかったと語られています。ところが、その激しい自然現象の後に「かすかな細い声」がありました。エリヤはこの声を聞いてほら穴の外に出たのです。そこで「あなたは一人ではない」という主の語りかけを聞きました。7千人の預言者の仲間、そしてエリシャという後継者も備えられていたのです。やはり主は、先回りし備えておられる方ですね。

 かすかな主の声を聞く者となりたいと思わされます。時に、自己憐憫のほら穴に閉じこもり、耳をふさいでしまう私たちです。慌ただしさ、厳しさ、激しさの中で、それらに心奪われ、主のかすかな声を逃してしまう私たちです。しかし、主は肉体も心も、霊性も養ってくださるお方です。 体の必要も誰よりもご存知で、先回りして備え、その心に励ましをその霊に主の御霊を注いで力づけてくださいます。





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