東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 民数記25章1-13節「ねたむほどの愛」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2022/09/21

民数記25章1-13節「ねたむほどの愛」

 *** 9/18(日)主日礼拝 説教概略 ***

民数記251-13節「ねたむほどの愛」


 しばしば、親がとても厳しくて結婚をしようにも、結婚相手をなかなか紹介しにくいといったケースがあります。お父さんは娘の、お母さんは息子の結婚相手は、特に気になる傾向があるかも知れませんね。私もそういうところがある・・・かも知れません。

 ただ、それはなぜなのでしょうか?


 その子を大事に思うからです。愛するわが子に幸せになって欲しいのです。

 あまり口出ししない場合にも、実は内心では本当に色々なことを心配し、考え、その上で忍耐深く見守っているのではないでしょうか。タイトルの「ねたむほどの愛」というのは、他でもない神様のご愛を示すものです。

 出34:14には「あなたは、ほかの神を拝んではならない。主は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。」とあります。ご自分で「ねたみの神」と紹介する神様。興味深いですね。もしかしたら「え?神様ってねたむの?」と疑問を持つ方もいらっしゃると思います。ただ、このねたみは他の人の成功や人気を羨む「妬み」ではなく、浮気して罪に滅んでいく者に「こっちを向いて!」と訴える「新婚夫婦のやきもち」のようなもの純粋な愛からのものです。

 先ほどの子どもの結婚相手の話同様、無関が全くないなら、どうなってもいいはずです。でも、まさに大事で大切で、失いたくないし、幸せになって欲しいから、関心が「ありまくり」なので、「ねたむほどにあなたを恋い慕っている、愛している」と主は言われるのです。その愛の深さがよくわかるように「ねたみの神」と名乗ってくださいます。

 ご一緒に主のねたむほどに深いご愛について、教えられて参りましょう。



1.民の堕落、神のさばき 
  1-2節にこうあります。 

1節 イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた。2節 その娘たちが、自分たちの神々のいけにえの食事に民を招くと、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。  

 約束の地カナンを目指すイスラエルの民は、ヨルダン川の東側、モアブ草原に滞在していました。ヨルダン川の反対側にはあのエリコの町がある。ですから「カナンの地は目前!」という場所にいたことになります。

 そこでイスラエルの男性たちは、あろうことか、罪深い邪神を信仰するモアブ人の女性たちと性的に乱れた関係を持ち始めたのです(ある学者は、占い師バラムの策略と主張します)。

 このようして彼女たちの虜になると、信仰から離れて行くのはあっという間でした。モアブの女性たちは、バアル・ペオルという豊穣の邪神、偶像礼拝へと彼らを誘いました。ソロモン王も最初は神様に忠実でした。しかし、晩年に偶像礼拝に囚われたのは、異教の妻の影響でした。そういう意味では、教会をさぼりそうになっても「ほら、教会に行くよ!」とお尻を叩いて激励してくれる奥さん、旦那さんは良い伴侶ですね(笑)。

ところが、主を否定する異性とあってはむしろ神様から神の人を引き離してしまう危険がありました

3節にこうあります。こうしてイスラエルはバアル・ペオルとくびきをともにした。 

「くびきをともにする」というのは、異性との結びつきを意識して語られているものです。真の神様と相思相愛の夫婦のように歩んできたイスラエル。しかし今や、邪神バアル・ペオルに浮気をし、偽りの神と人生を共にする道を選んだのです。

ですから、3節の終わりにありますように、「主の怒りがイスラエルに対して燃え上がった」のです。神様の怒りが啓示され、死罪が宣告されました。

それで、6節にありますように、多くの民は涙していました。モーセとともに民は泣いていました。誰もが主のさばきを聞いて、恐れ涙し真摯に悔い改めようとしていたのです。この日、主のさばきを受け死んだ者は24千人であったと語られていますから、本当に深刻な状況です。

ところが・・・そんな状況にあって、なお平然と罪を犯すよう誘惑する者、また罪を犯し続ける者がありました。神のさばきがなされている厳粛な瞬間に、とりつかれたように罪に興じる姿に、祭司ピネハスは主に示され、この者たちを槍で刺し殺しました。



2. 神の心を、自分の心のようにして
 
これは残酷な行為にも見えます。何も槍で刺さなくても・・・と。その行為だけを切り取ってみれば、厳し過ぎる暴力的方法ではないかとさえ思われます。しかし、後の時代になって詩篇記者は、この出来事をこのように記しています。10630-31節 

31節 そのとき ピネハスが立ち 仲立ちをしたので 主の罰は終わった。
32節 このことは 代々にわたり永遠に 彼の義と認められた。 

彼の仲立ちのゆえに、より大きな神様のさばきが留められ、それが義と認められたと語られます。彼が暴走する者たちを止めなければ、イスラエルは目も当てられない程の大惨事になっていたことでしょう(そして、この男女はピネハスが死刑にしなくても、律法において死刑であり、神様のさばきによって滅んだことは言うまでもありません)。

そして、実際、神様はピネハスの心を知った上で、こうおっしゃいました。10-11節です。

10節 主はモーセに告げられた。 11節「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、イスラエルの子らに対するわたしの憤りを押しとどめた。彼がイスラエルの子らのただ中で、わたしのねたみを自分のねたみとしたからである。それでわたしは、わたしのねたみによって、イスラエルの子らを絶ち滅ぼすことはしなかった。 

祭司ピネハスは、むしろイスラエル全体を救うためにこうしたのだ。彼は神の憤りを押しとどめたのだと主は言われたのです。罪の虜となり滅びに向かう民を救うために、彼は「汚れ役」を買って出たということなのです。

愛する同胞を殺したいわけがありません。
もしかすると、ピネハスは亡くなった人の関係者から、憎まれたかも知れません。このような憎まれ役を誰が好んで引き受けるでしょうか。  

中国の「三国志」から生まれた諺で「泣いて馬謖を切る」というものがあります。馬謖とは武将の名前でして、蜀という国の大軍師:諸葛亮孔明の愛弟子でした。孔明が目をかけてきた有能な家臣。ところが、彼が戦場で命令違反をしたために、大敗北を喫してしまい多くの兵士が犠牲になりました。そのために、孔明はわが子のように可愛がってきたこの馬謖を、泣きながら処刑したのです(したいはずがありません)。ただ、それは、このような違反が見逃されることで、多くの人が滅ぶことがあってはならないからです。

ピネハスの行為は、これに似ていると感じます。罪のゆえに大勢が死んでいく状況。それに全くの無関心で平然と罪を犯し続ける勝手な者がいる。誰かが処罰しなければ多くの犠牲者を出し、滅びに向かったのです。

それゆえ神様は、ピネハスの心をご覧になり、彼は「神のねたみを自分のねたみ」としたのだと言われました。彼が神様と同じように心を痛めながら、罪ある者を押しとどめ、多くの者が滅ぶのを防いだからです。

最初に説明したように「神のねたみ」とは、神様の愛の深さをわかりやすく示すための表現です。特に夫婦の間の愛ゆえの「ねたみ」「やきもち」に近い。聖書では夫婦は一体となると教えられていますから、一体となった夫婦が引き裂かれるということは、心も体も半分に引き裂かれるような痛みを感じるのです。

神様はまるでご自身の伴侶のように、人間を愛されているのです。熱烈な愛です。ですから、自分が勝手に滅びるなら自業自得としても、「人を神から引き離す罪」には、特に激しくお怒りになります。

そして、神によって立てられた祭司たちは、主のお心を誰よりも人々に示す立場でした。

祭司たちは自分の身内が亡くなった時ですら「神様、なぜですか!?」悲しみを表立って現すことはしませんでしたそれは神様の最善がなされていることだと、他の誰よりも理解する立場であるからです。

祭司は神の愛にならい、神の怒りを理解し、神の悲しみを一緒に担います。だからこそ祭司を通して人々は神様を知る機会ともなったのです。それゆえに祭司ピネハスは、憎まれ役、汚れ役をも引き受けたのでした。


3. ピネハスの痛みを知る主

 神様は、彼その思いを見ておられたのです。12-13節です。

12節 それゆえ、言え。『見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。
13節 これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは、彼が神のねたみを自分のものとし、イスラエルの子らのために宥めを行ったからである。』」  

 ここでは「イスラエルの子らのために宥(なだ)め」を行ったとさえ語られています。

「宥め」とは罪に対する神の聖なる怒りを鎮めることです。

 彼はそれを行ったのです。宥めということばを聞くと、イエス・キリストの十字架が、神の怒りへの「宥め」となったことを想起させます。

 そして、主は12節で彼に「平和の契約を与える」とも言われました。イエス様は山上の説教で「平和を愛する者は幸いです」とは言いませんでした。「平和をつくる者は幸いです」と言われたのです。

 ピネハスは平和好きで終わらず、平和のために汚れ役、憎まれ役を引き受けました。犠牲がありました。しかし、主はその彼に平和の契約を与えると言われ、彼の子孫の祭司職を約束されているのです。

 人と関わらなければ、見せかけの平和はあるでしょう。事なかれ主義は、自分は平和かも知れません。でも、苦しむ人々に関わると不幸になるので、何もしません(ある種の自己中心)。

 でも、真の平和を築くためには、愛の犠牲が必要です。 

 愛とは何かと考えさせられます。見て見ぬふりは愛でしょうか。マザー・テレサの言う「愛の反対は、憎しみではなく、無関心である」とのことばが胸に迫ります。愛する人は傷つきます。イエス様ほど傷ついた方もいないでしょう。主は胸を痛め、傷つきながら、私たちに絶えず語りかけ顔をこちらに向けるのを待っていてくださる。関心が深いからこそ、傷つきもするのです。愛するからこそ注意もし、時に厳しいことも伝えるでしょう。

 神様はあなたを愛しています。こんなにも語っておられるのです。

 幸せになれるよう、お節介なほどに。

 この愛を受け止めていきたいのです。大切なひとり子さえ犠牲にするほど、あなたを愛しておられる。その愛を受け取っていきましょう。

それとともに、私たちもこの神様の愛をいただき、隣人への愛としていきたいのです。

 ピネハスは「わたしのねたみを、自分のねたみとした。」とありましたが、それはこの愛で、隣人を愛していくということです。それは嫌われることを恐れて、いい顔ばかりするものではありません。神様のみこころを自分の心として、人の顔色を恐れず、人の救いのために最善をしていくことでしょう。



教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *