Ⅰサム記26章、Ⅱサム12章、詩篇32、55篇「主を求め続けたダビデ」
ダビデほど波乱万丈の生涯を送った人物はそう多くはないでしょう。聖書においてもダビデについての記事は、彼が生み出した詩篇なども含めればかなりの分量になります。単純にダビデという名前で検索をかけると、旧新約聖書両方で900回以上ヒットするほどです。
しかし、そうでありながら、なおダビデは聖書中でも最も尊敬され、愛される信仰者であると言えるでしょう。何よりも神様はダビデを愛し、赦し、彼を用いて多くのみわざをなさいました。そう考えると、神様が喜ばれる人というのは、私たちの価値観とは大きく異なるのではないかと思わされますね。
私たちはやはり、罪の少ない人、間違いを犯さない人が神様にも喜ばれる人だと思う傾向があると思います。ところが、主はどれだけ罪を犯さなかったかではなく、また、どれだけ奉仕をしたかでもなく、主を求め続ける人をご自身も喜ばれ、祝福のうちに用いてくださると分かります。
これほど罪深いダビデの子孫としてイエス様がお生まれになり、「ダビデの子イエス」とさえ表現されることには、神様の深い愛のご計画が示されています。イエス様は私たちの罪の現実の中にお生まれになり、そこに救いをもたらされたということです。人は誰もが多くの罪を持ち、多くの過ちを犯す存在なのです。
しかし、主はその罪を認めご自身を求める者たちに、何度でも赦しを与え、悔い改めの実りをもって用いてくださいます。限られた時間ですが、ダビデの歩みについてのみことばから、主のみこころを教えられて参りましょう。
ダビデはどんな人だったのでしょう?
1. 主のみこころを求めた人
ダビデはサウルのもとに仕えるものの、彼から妬まれ憎まれ命を狙われます。それゆえに、サウル王のもとを去り、逃げ続ける日々を送ります。そういう中で、何度か完全に無防備なサウルを殺すチャンスがありました。しかし、ダビデはそのたびごとに、主のみこころを大事にしています。
Ⅰサム26:9-11 のところでは、彼の部下がサウルを殺させてくれと頼みます。しかし、ダビデは主が油注がれた人だから、誰であっても絶対に手を下してはならないと言います。10節を読むと「主は必ず打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ。」ダビデは言っています。
サウル王の問題は誰が見ても明らかでした。ダビデが打ったとしても次の王に選ばれていることは知られていましたし、サウルが殺そうとしてくるので正当防衛とも言えたでしょう。
けれども、ダビデは自分の手で下すことをせず、主の手にゆだねたのです。正しくない。本当にふさわしくないのならば、主が打たれる。復讐は人間が自分勝手な判断でしてはならず、それは神の領域であること。自分の命の危険がある時でも、主のお心に目を向けています。
2.悔い改めの人
ダビデは多くの過ちを犯し、人を傷つけてしまった罪人です。間違いなく誰がどう見ても罪人です。最も大きな罪は、自分の家臣の妻と関係し、それがバレることを恐れその家臣を戦場の最前線で戦死させたことでしょう。
それは彼の人生の中でも最悪な時期の一つであったと言えます。姦淫の罪だけでなく、自分の罪を隠すために兵士の命までも奪ったのですから。この時、神様がダビデに語られたことの一部を味わいましょう。
Ⅱサム12:9-10 どうして、あなたは主のことばを蔑み、わたしの目に悪であることを行ったのか。あなたはヒッタイト人ウリヤを剣で殺し、彼の妻を奪って自分の妻にした。あなたが彼をアンモン人の剣で殺したのだ。今や剣は、とこしえまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしを蔑み、ヒッタイト人ウリヤの妻を奪い取り、自分の妻にしたからだ。』
神様はその行いが悪かったというだけでなく、その根本原因は主を蔑んだことにあると指摘されました。主が空気であるように(いないものとして)過ごしたことで、悪の道へと流れたのです。主がまるでいないかのようにして、自分の罪を隠すことだけに心が奪われてしまったのです。
後になってダビデはこの時の経験を詩篇にて歌っています。
32篇は、この事件を振り返った内容だと考えられます。
詩篇32:3 私が黙っていたとき私の骨は疲れきり私は一日中うめきました。32:4 昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。セラ
長い闇の日々。それは罪を犯した深刻さ以上に、罪を認めない苦しみ。神様の前に告白せず罪悪感だけが自分を押しつぶそうとするもの。本当に辛い日々です。しかし、5節にあるように、ダビデがようやく自分の罪を率直に主に打ち明け、悔い改めた時、主の赦しを受け取ったのです。
彼は他にも多くの過ちを犯しますが、それでも主を離れず、主に立ち返り続けました。
1-2節にこの詩篇の言いたいことがまとめられています。幸いな人とは、主の赦しを受けとった人。「その霊にあざむきがない人」です。それは罪も汚れも含めて、いつでも主の前に正直である人です。神様と何でも親しく語り合える人のことです。
実は、傷ついているのを隠して、誤魔化して、心では思えていないのに「すべて感謝です」と無理やりに振る舞うことは、決して良いことではないのです。
きよさを装い、立派な信仰者に見せることは主の前に正しくないのです。
神様は、その中身を知っていますから、この偽善を悲しまれます。
傷ついたことを隠すのではなく、またそれを当事者に言って復讐するのでもなく、すべてをご存知の神様に打ち明け、嘆き、叫び、主の癒しと慰めを求めたら良いのです。
主は、人にはできない不思議な慰めを与え、みこころを示してくださいます。後半、ダビデのことばが、変化していくのが分かります。
16-21節 ここでは、主を呼び求めるなら、主が救ってくださる、主が聞いてくださるとの告白になっている。そして、ダビデを傷つける者たちについては、神様ご自身が報いられると語られている。それは、彼らが神を恐れず、神に油注がれたダビデを苦しめているから。