*** 9/28(水)祈祷会 説教概略 ***
第二列王記5章 「ナアマンの救いに関わった人々」
アラムの王の軍団長・将軍にナアマンという人物がいました。
1節によると、彼は主君に重んじられ、尊敬されていた人物でした。その続きに彼が主君から重んじられ、尊敬されていた理由が語られています。
それは「主が以前に、彼を通してアラムに勝利を与えたからであった」とあります。
アラムはまだ力のない国でしたが、イスラエルを最悪な状況に導いたアハブ王を打ち取っており、その時の将軍がナアマンだったのではないかと考えられます。アハブ王の悪政を止めたのがナアマン将軍だとすると興味深いことです。
ナアマンが信じる前から、神様が介入されていたということです。私たちの救いについても振り返ってみると、信じるその瞬間だけ主が働かれたということではありませんでした。それよりもずっと前から、主はご計画をもって備え、導いておられたのです。
2節 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から一人の若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていた。
3節 彼女は女主人に言った。「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」
彼女は、アラム軍がイスラエルの地を略奪した時に、奴隷として連れて来られ、ナアマン将軍の奥さんに仕えていました。そしてこの少女は、ナアマン将軍の病を見て「イスラエルの預言者ならきっと治してくださる」と進言したのです。
この女性が憎しみや怒りに支配されず、このような不幸な状況下にあっても、主の前に正しいことをしようとする姿勢に教えられます。彼女のこの一言もまた、ナアマンの救いの道備えとなりました。彼女の置かれた立場は厳しく、ともすると声に耳を傾けてもらえないような低い立場でしょう。でも、主がそこに置かれ、大切な役目を与えておられたのです。
こうして、ナアマンは預言者エリシャのもとに導かれます。彼がエリシャの家を訪れると、エリシャは使者を彼に遣わして言わせました。
10節 エリシャは、彼に使者を遣わして言った。「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」
エリシャ本人は出て来ず、その使者がエリシャのことばを伝えました。ここでも名も記されていない者がナアマンに関わっています。これに対してナアマンは激怒しました。預言者本人が出て来なかったからです。内容もヨルダン川で7回洗うだけ!という単純さです。
11節 しかしナアマンは激怒して去り、そして言った。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。
彼は自分の期待したものとあまりにも違っていたので頭に来たのです。確かに、この世的に考えれば、難病と言われる病がヨルダン川で洗ったぐらいで良くなるなんて信じがたいですよね。預言者が癒しの儀式を開いて、あれこれやってくれたら、「ありがたい感じ」がしますし、治るような気がするのです。
しかし、預言者エリシャは、神様のみわざであることを疑いなく現すために儀式によらず、人間の手によらず、普通なら何も起こらないはずの方法を指示したのです。人間が好む方法ではなく、あり得ないような方法によって癒されるからこそ、神様の救いの力を知ることになるのです。
実に、イエス様の十字架こそ、その最たるものではないでしょうか。人を救うのに、無残に十字架刑で神の御子が殺されるという方法を主はなさったのです。誰が想像したでしょうか。しかも「ただ信じるだけ」です。
ナアマンに求められたことも、信じてその通り実行するという「信仰(信頼)」でした。単純だからこそ、純粋な信仰が求められました。
しもべたちの説得によって、ナアマンはバカげていると思いながらも、ヨルダン川で7回体を洗いました。すると14節にあるように、癒され元通りにきれいになったのです。ナアマンはこの経験によってイスラエルの神こそがまことの神であると知ったと告白しています。15節にこうあります。
15節 ナアマンはその一行の者すべてを連れて神の人のところに引き返して来て、彼の前に立って言った。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」
さらに彼は、感謝を表すためにエリシャに贈り物をしようとしますが、預言者エリシャは断固としてこれを受け取りません。
16節 神の人は言った。「私が仕えている主は生きておられます。私は決して受け取りません。」ナアマンは、受け取らせようとしてしきりに勧めたが、神の人は断った。
これは神様のことをまだよく分かっていないナアマンに、この救いが人のわざではなく、主のみわざであることを強調したかったゆえでしょう。それでナアマンは別の提案をしています。17節
信仰において未熟な赤ちゃんであるナアマンです。彼なりに主に従おうと思ったのでしょう。その姿勢はこの後の18節のことばにも現れています。
18節 どうか、主が次のことについてしもべをお赦しくださいますように。私の主君がリンモンの神殿に入って、そこでひれ伏すために私の手を頼みにします。それで私もリンモンの神殿でひれ伏します。私がリンモンの神殿でひれ伏すとき、どうか、主がこのことについてしもべをお赦しくださいますように。」
ナアマンは立場的に、主君の礼拝を横で補佐する責任がありました。どうかそれを赦して欲しいと言いました。エリシャは「それで良い」とは言いませんでした。また「ダメだ」とも言いませんでした。ただ「安心して行きなさい」とだけ伝えました。
偶像礼拝に関わることになるので、避けるべき事だけれども、主への一歩を踏み出したばかりのナアマン将軍の精一杯を受けとめ、やがて成長し偶像礼拝から完全に離れて行くことを願ってのことでしょう。
一人の人のために様々な人を通してお語りになり、試練も病さえも用いてお救いになるのです。私たちもその同じ主の救いの働きのために召されている一人一人です。私たちはそのチームです。賜物も違いますし、世代も民族も背景も異なる私たちです。時にお互いに接点がない人とも主にあって、同じ人の救いのチームに入れられていることもあります。後になって分かった時には、新たな感動さえ生まれます。
一人の人の救いのために、それぞれの置かれているところで救いを願って自分のできることをさせていただく時、こうして一人の人が救われていくのです。