東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: コロサイ3章5-17節「古きを脱ぎ、新しきを着る」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/10/03

コロサイ3章5-17節「古きを脱ぎ、新しきを着る」

*** 10/2(日)主日礼拝 説教概略 ***

コロサイ35-17節「古きを脱ぎ、新しきを着る」

 デフォーの小説「ロビンソン・クルーソー」のモデルは、セルカークという実在の人物でした。実際の彼は大酒飲みの荒くれ者でした。彼に対して我慢の限界に達した水夫たちが、彼を無人島に置き去りにしたというのが実話です。

 一人残されたセルカークは憤慨しましたが自業自得でした。しかし、自分の荷物をあさると、なんと聖書が出てきました。彼の母親がこっそり入れておいたのです。他にやることがないので、彼はひたすら聖書を読み続けました。

 そして月日がたち、彼が救出された時には、別人のように穏やかで落ち着いた人に変えられていたと言われています。かつての古いセルカークを知る人は本当に驚いたことでしょう。彼は全く新しい人生を始めていたのです。

 学生の頃、私を導いてくださった方も、友人がクリスチャンになり劇的に変化したことがキッカケで聖書を学び始めた方でした。留学してクリスチャンになって戻ってきた友人が、落ち着いた好青年になっていたことに衝撃を受けたそうです。

 妻の兄もまた大きく変わったと聞いています。カナダに行って救われ、また神学校まで行くに至りました。以前の義兄は人付き合いが嫌いで、昆虫や動物にしか興味がなかった。いつもイライラした感じだったと。ところが、カナダから戻って来た兄はすっかり変わり、明るくフレンドリーになっていたと言います。

 今お話しした皆さんは、別に変わらなければならないと思ったわけではないでしょう。「変わろう!」と必死に努力したわけでもないでしょう。

 ただ、キリストと出会い、聖書と出会い、その愛に包まれる中で自らの汚れを知らされ、謙虚にされ、感謝の心を与えられたのです。つまり、自分で変わったのではなく、神の御霊によって変えられて来たのです。

 イエス・キリストを信じる時、誰であっても新しく変えられていきます。古い自分を脱ぎ捨て、キリストにある新しい人を着るからです。それは自分らしさを失うことではなく、むしろ自分本来の個性や豊かさをもっとイキイキと輝かせていけるようになることです。
 この救いの恵みをみことばから教えられて参りましょう。

 

1. 古い人を脱ぎ捨てる

 
 今日のみことばの前半は、古い人を脱ぎ去ることを教えています。古い人とは、真理を知る前、愛を知る前の罪への解決を持たない人です。それは5節にあるような罪深い快楽の虜となっている状態です。悪魔は一見楽しそうに、幸せであるかのようにそれらを見せて誘惑し、その後ろに毒の塗られたトゲを隠しています。こうした罪の結果、6節にあるように神様の聖なる怒りが下り、罪を正しく罰せられるのです。けれども、神様はどんな罪人をも愛しておられます。滅びることなど決して望まないお方です。それゆえに、愛するひとり子のいのちさえ犠牲となさいました。信じる者が一切の罪を赦され、「神の子」とされるためです。コロサイの読者たちは、そのキリストを信じたのです。ですから7節のように「以前は」と過去形になっていますよね。 3:7 あなたがたも以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。 彼らは今や自らの罪深さを率直に受け止め、悔い改めたのです。そのようなあなたがただから、信じた瞬間で終わらせないで、歩みの全体においてキリストによる新しい歩みを続けるよう教えられているのです。8-9節前半。 3:8 しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。3:9 互いに偽りを言ってはいけません。 「しかし今は」と語り、7節の「以前は」ということばと明確に対比しています。もう以前のようではないのです。皆さんもそうです。

だから、今からは苦い罪に目を留めず、キリストを見つめてついて行くのだと言うのです。私は元々、かなりことばがキツイ人間です。中学時代は周囲に不良も多く、彼らと付き合いながら、また彼らと喧嘩もしましたし、自分でも荒れていたなぁと思い返します。生来の負けず嫌いも手伝って、特に口から出ることばは、汚いことばも多かったと思います。弱い犬ほどよく吠えると言いますが、まさに自分の中にある弱さを隠すために、強がって生きて来た私です。しかし、主を知ってから、強がる必要がなくなりました。むしろ、弱さを率直に受け止め、証しできる人こそ、本当の意味で強い人なのだと教えらえました。神様は、飾らずそのままの自分で生きるようにして下さいました。怒りや憎しみから解放して下さいました。平安のうちに歩めるように、みことばから教え育てて下さったのです。信じて何が起こっているのでしょうか。9後半-10

9後半 あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、10 新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。


2.新しい人を着る 
 
 では、具体的に新しい人を着るとはどういうことでしょうか。

 10節に「それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ」とあります。それは神様が本来意図されたイメージへと新しくされ続けていくということです。そして、本来神様が意図された人のあるべき姿の完全な姿が人の子(人の理想の姿)」と表現されるイエス様であります。ですから、信じた者たちがキリストの姿に変えられていくことは、神様が望まれた人の美しい姿へと変えられていくということです。

 「新しくされ続ける」と訳されていますように、私たちの「救い」というものは、継続的な恵みです。救われた瞬間が頂点で、「もう成長が止まりました、衰退します」というものではありません。「年をとって頑固になった、分からず屋になった」ではなく、「年を取ってイエス様にますます似て来たね」と言われる者でありたいですね。

 そして「真の知識に至る」とあります。同じコロサイ19でも、同じ「知識」ということばが用いられています。開いてみましょう。ここでは「神のみこころについての知識」と訳されています。意味しているところは同じものでしょう。つまり、イエス様の姿に近づくということは、神様のみこころの知識を得る者となるということです。

主のみこころの深さ豊かさを本当の意味で味わい知る者となるということです。


今日の3章に戻りましょう。11節をご覧ください。そこにあるように、これは何の差別もなく、すべての人に与えられる平等な恵みです。キリストがどんな背景の人にも、どんな民族・部族であろうと、信じるならすべての人のうちに住んでくださいます。

先日、学生時代にお世話になった日本キャンパスクルセードの60周年集会がオンラインでなされ、私は出席できませんでしたが、妻が出席しました。その集合写真を見せてもらいましたが、懐かしい顔ぶれもありました。しかし、ある事に気づき嬉しくなりました。
それは本当に国際色豊かであったからです。色々な国の方々、肌の色も少しずつ違う。世代も違います。でも、同じイエス様を通して一つとされ、同じ画面に笑顔で映っているのです。嬉しく思いました。

この世界では、民族の違い、歴史の違い、肌の色の違いで、お互いに異質な者と見なし、恐れを抱き、しばしば争いが起こっていますよね。ロシアとウクライナで起こっていることに本当に胸が痛みます。なぜ、そこまでして争わなければならないのか・・・。

しかし、同じキリストにある者は、肉の思いを超えます。過去のしがらみから解放され、見た目の違いも歴史の問題も超えることができます。キリストにあって誰もが赦された者として、互いに赦し合って生きるようにと召されているからです。

太平洋戦争の折、一人の米国人の若い女性姿が、ある日本兵を救いに導きました。彼女は敵国の日本人捕虜たちに本当に優しく接し、手厚く看護してくれたのでした。なぜ、彼女がそこまでしてくれたのか?? 実は彼女の両親は宣教師でした。そしてフィリピンで宣教していた時に、日本兵にスパイの疑いをかけられ殺されてしまったのです。そこまで聞くと、ますます、「なぜ?日本人を助ける?」と疑問は深まります。

実は、彼女自身も最初は憎しみと怒りに囚われていたそうです。けれども、両親が殺される直前の30分の話に心を留めた時に、変えられていきました。彼女の両親は殺される前に、日本兵に30分だけ聖書と祈りの時間をくださいと頼んだのでした。
この時間にどのようなみことばが示され、どう祈ったのかはわかりません。けれど、娘さんは両親が、その間に両親がみことばから愛を示され、日本兵の赦しと救いを祈ったに違いないと思うに至ったのです。「あなたの敵を愛しなさい。迫害する者のために祈りなさい。」主のみこころが示されたに違いないからです。

それでこの娘さんも、両親と同じように主のみこころに立ちたいと願い、日本兵に優しく愛をもって接したのでした。このような出来事を知り、後にある特攻兵が主イエス様を信じたということでした。

12-14節に目を留めましょう。

12 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。 13 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。 14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。 

ここにあるような深い慈愛や寛容、また赦し合う心。今の世界に本当に必要なものではないかと思わされます。それが神に召された者、この愛を知った者の歩む道です。 

15節、16節でも続けて語られます。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」、「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。」と。

キリストの平和とキリストのことばが私のうちに豊かに満ちていたら、隣にいる人々をどれほど幸せにできるかと思わされます。私たちは、つい、隣のこの人が変わってくれさえすればと願います。しかし、主のみこころは、「まずあなたが変えられなさい」ということです。私たちの心にキリストの平和とキリストのことばが満ちるようになることです。

神様はあなたが変えられ、マシになったから愛してくださったのでしょうか。そうではありませんね。罪に汚れたままのあなたを愛し、それゆえにイエス様が罪の身代わりとなってくださいました。 

「私たちが変わったから愛されたのではなく、愛されているから変えられてきたのです。」

 主に愛された者、愛されている者だからこそ、キリストの平和、キリストのことばを住まわせることができ、隣人を愛することができるのです。

 最後に、17節のみことばを読みましょう。

17 ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。 

 ことばも行いも、主イエスの名においてなしなさい。こんな時、イエス様なら何を語るのか。こんな時、イエス様ならどうなさるのか。かつての私には想像すらできなかったでしょう。

 けれど、変えられ知る者となったのです。そして、そのように歩めるように、キリストの心(御霊)が私たちのうちに与えられています。

 「自分には無理だ」とどこかで思っているのではないでしょうか。しかし、その「無理だ」という古い考えをこそ脱ぎ捨て、キリストはさせてくださると信じる新しきを着て、歩んでいきませんか。


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