*** 10/9(日)主日礼拝 説教概略 ***
民数記26章「荒野の40年を経て」
2015年の国連で「SDGs」というものが採択されました。これは「持続可能な開発目標」と訳されます。具体的には2030年までの15年をかけて、「持続可能な世界」の実現を目指すものです。そのために世界規模で取り組んで行こうとするもの。
目の前のこと、短期的なことばかりに終始する時代です。こうして継続して取り組むことは、今の時代に最も必要なことかも知れませんね。
しかし、これは、教会にこそ必要なことかも知れません。
集う人々が流動的なのが教会です。人や世代も替(代)わります。あるいは場所や建物も変わります。それでも、同じキリストを信じる信仰が変わらないこと。みことばにある希望、永遠の愛がそこにあり続けること。それが大切ではないでしょうか。
教会の良し悪しは、もしかしたら牧師やリーダーたちが交代した時に、より明確にわかるものなのかも知れません。この点については、民数記は主のみこころをよく示しています。まさにモーセからヨシュアに指導者が代わっていく時代です。世代が大きく交代します。住む地も変わります。
それでも主の民は同じ信仰を保ち、神とともに歩み続けました。
特に、今日は荒野での40年が経過した後、その歩みを振り返る機会となった場面です。
「40年もの時が経過したからこそわかる主の恵み」について教えられていきます。
この26章では神様によって人口調査をせよとの命令が下りました。1-2節
1節 この主の罰の後のことであった。主はモーセと祭司アロンの子エルアザルに告げられた。2節 「イスラエルの全会衆について、一族ごとに、二十歳以上で、イスラエルで戦に出ることができる者すべての頭数を調べなさい。」
ちなみにこれは荒野に入って2回目の調査でした。では、1回目はいつでしょう?荒野に来たばかり、つまり40年前でした。1章でなされたものです。20歳以上の男子という条件も全く同じでした。
ただし、人口調査については、間違った動機でなされることも後に起こりました。それはダビデ王の時代でした。ダビデが自分の力を誇りたいという動機で、軍事力を数え上げたのです。それは神様のみこころを損なう行為でした。
詩篇20篇7節にこうあります。「ある者は戦車(いくさぐるま)を ある者は馬を求める。しかし私たちは 私たちの神 主の御名を呼び求める。」と。
ある人々は武力を、力を誇ります。戦力を安心材料にします。それは「自分の力」を誇り、むなしい物を拠り所とする不信仰でありました。私たちもともすると陥る課題です。自分の能力や財産を誇るために数え上げる時、「神様の恵みであること」を見失う危険があります。
ですから、数える時には神様の恵みを数えるためでありたいと思うのです。
「誇るなら主を誇れ」と聖書は語ります。
この民数記の人口調査は、まさに神様の恵みを数えるための調査でした。
51節に今回のカウントの全体数が記されています。
51節 以上が、イスラエルの子らの登録された者で、六十万一千七百三十人であった。
現在の成人男子の合計は「60万1730人」でした。これは40年前と比べて、ほぼ同程度で推移していることが分かります(おそらく女性、子、年配者も同程度)。
砂漠のような荒野です。過酷な40年間でした。衛生面では大きな問題があったでしょう。赤ちゃんやお年寄り、体の弱い人に厳しい環境。それに加え、様々な罪で滅んだ者たちもいました。それを考えれば、ほぼ同じ数字を維持している自体、奇跡ではないでしょうか。主のあわれみ、主の守りです。具体的な数字という揺るがぬ根拠をもって、人々は主の恵みを知り、感謝したのではないでしょうか?
では、部族ごとはどうでしょうか。40年間でどのように変化したのでしょう。
5-50節でその具体的な人口調査が記されています。
これについては、それを一覧表にしましたので参照くださればと思います。
部族ごとに40年前と40年後、ビフォー・アフターの人口を比較しています。
一番右がその差し引き人数で、プラスになっている部族もあれば、マイナスになっている部族もあります。
マイナスになっている部族が5部族ほどあります。
シメオン族は特に3分の1近い数字になってしまっています。もしかしたら、直前25章のバアル・ペオル事件の影響がかも知れません。その罪の渦中にいたジムリという男性がシメオン族でした。神のさばきが宣告されても平然と罪を犯し続け、祭司ピネハスによって死刑にされた人です。多くの関係者が滅んだ可能性があります。
他にもルベン族の人口減少は、16章の「コラの反乱」の影響かも知れません。こうして振り返る時、その罪のゆえに減少した部族があることを皆で確認できたことでしょう。主の前で謙虚に悔い改めつつ生きることを教えられたに違いありません。減少しなかった部族も、私たちは優秀だと高ぶるなら愚かでしょう。
異なる部族とはいえ、同じ主の民・同胞です。わが事のように胸を痛める人も多かったのではないでしょうか(また、そうであるべきです)。現代の教会もその視点に立つべきでしょう。自分たちの教会さえ良ければという発想は、少しも聖書的ではありません。
教会がキリストのからだであると言う時、世界中のすべての教会を指します。
こうした振り返りは大切ですよね。宣教が大きく進むリバイバルは、実は「悔い改めから始まる」と言います。神学校時代に舟木信先生から教えていただきました。本当にそうだと思います。
私自身もこんな経験があります。学生時代にアメリカにステイした時のこと。現地のクリスチャン学生のリーダーズ・キャンプに参加しました。そこで、彼らが涙ながらに罪を悔い改め、互いに祈り合う姿に教えられたのです。真のリーダーたちは自分たちを誇り、隣人を上から目線で責める者ではありません。自らの罪深さに涙し、隣人の弱さのために自分のことのように祈る者です。
一方で増加した部族は7部族あります。マナセ族やアシェル族は増加率も大きいですね。イエス様の生まれるユダはそこまで増えていません。意外に目立たない部族が増えていたりするような印象もあります。そして、人口調査には、土地の割当の目的もありました。
52-54節です。
52節 主はモーセに告げられた。53節 「これらの者たちに、その名の数にしたがって、地を相続地として割り当てなければならない。54節 大きい部族にはその相続地を大きくし、小さい部族にはその相続地を小さくしなければならない。それぞれ登録された者に応じて、その相続地は与えられる。
人数が異なるのに同じ広さでは不公平です。そのためにも部族ごとに現在の人数を確認したのです。
これは、忠実に歩む者には、主がさらに大きなものを任せてくださるとのイエス様の教えの通りでもあります。ルカ19章17節にこうあります。
主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』
小さなことに忠実な者に、神様はより大きな事をお任せになります。40年の試練の時代に豊かにされた部族は、まさに長期間に渡って忠実であったと認められたのです。ゆえにより広い地を委ねられました。
私たちも「1-2年は勢いで燃えていたけど、尻つぼみです」ではなく、持続可能な忠実さを目指したいですよね。そういう人に主は、より豊かなものを委ねてくださるのです。
なお、先に触れたように目立たない部族でも祝福されています。主がしっかりと見ていてくださるのです。目立つ者が評価されるのではありません。見えないところで忠実になさっている人に、主は必ず報いて下さいます。
福音自由教会の信徒の手引きに良いことが書いてあります。教会の中に目立たない奉仕をする人が生まれることは、教会の成長だと言うのです。誰に言われなくてもゴミを拾う人、散らかっているものを整理する人、壊れているものを直す人。そういう信徒が育つと豊かにされると。自分の信徒時代を振り返ると「神様ごめんなさい」「皆さんごめんなさい」と言わざるを得ません。でも、主が隠れたところのわざを見て、しっかりと報いて下さることを本当にありがたいことだなと思います。
3点目は世代交代の中で気づかされる恵みです。63-65節です。
63節 以上が、エリコをのぞむヨルダン川のほとりのモアブの草原で、モーセと祭司エルアザルがイスラエルの子らを登録したときに登録された者たちである。64節 しかし、この中には、シナイの荒野でモーセと祭司アロンがイスラエルの子らを登録したときに登録された者は、一人もいなかった。65節 それは主がかつて彼らについて、「彼らは必ず荒野で死ぬ」と言われたからである。彼らのうち、ただエフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかには、だれも残っていなかった。
以前に登録された成人たちは、カレブとヨシュアを除いて既に生涯を終えていました。それは、神様の大切なご命令に背き、安息の地に入るのを拒否したからでした。それでも荒野において長らく生かされたことは神様の優しさです。
ただ、こうして世代交代が起こりました。
カナダに訪れた折に、こんな話を聞きました。それは、時折起こる山火事は基本的には急いで消さず、自然に鎮火するのを待つそうです。なぜなら、これによって、古い樹木が燃えて森が活性化するからです。世代が代わり、人が入れ替わる。それは決して悪いことではありません。
そこにも主のみこころがあり、新しい者たちが活躍できるようになるのです。同時に、ここには別の驚くべき恵みがあります。世代が大きく変わっても、同じ信仰が貫かれていることです。同じ目的に向かって前進しているということです。
人が入れ替わる。世代が代わる。それでもなお同じ主を信じる民がそこにいるのです。主のみこころの教会とは何か?教会の成功とは何か?という問いにあえて答えるのなら、「たとえ顔触れが変わっても、なお、そこにキリストの教会としてあり続けていること」と言えるのかも知れません。
長い年月自体が一つの試金石です。
この教会も30周年を迎えます。30年で2回移転し、こうして土地と新会堂まで主からいただきました。人も代わり年も取り、あるいは新たな命が生まれ、ある人々は天に召されました。けれど、ここにある信仰は継承され、多くの新しい人々が導かれています。
宣教大会の報告のために調べていてあることに気づきました(それこそ、自分たちを誇るようなことがないよう謙虚さを忘れずにですが・・・)。
実にこの3年半の間に、近隣の小学生たちがたくさん教会に来てくれたのです。ある学年では、一度でも新会堂に来た子が既に30名ほどになり、学年の3分の1以上になります。3人に1人がサンライズチャペルに来てくれたのです。これは20年前には難しかったし、10年前でも無理だったでしょう。30年の時を経て練られ、成熟し、世代交代しながらも信仰が継承されてきた故です。
苦しい時も辛い時も通ります。人が減少する時もあります。経済的に厳しい時もありました。それでも、主を信じて歩み続ける中に、主は御手を置いてくださいました。
弱い私たちを見捨てず、小さな者に目を留めて下さいました。主の前に誇れる力は私たちにはありません。
しかし、こんなにも良くしてくださった主を誇ることができるのはなんと幸いでしょう。