東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 民数記27章1-11節「熱意ある求め」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/10/26

民数記27章1-11節「熱意ある求め」

 *** 10/23(日) 主日礼拝 説教概略 ***

民数記27章1-11節「熱意ある求め」

 「三顧の礼」ということばがあります。三国志の故事成語です。劉備玄徳という国主が、天下泰平のために軍師として諸葛亮孔明を迎えたいと思い3度もお願いに行ったのです。諸葛亮孔明は、その本気度を見るために3度の礼を見守っていたのではないでしょうか(なお、三顧の礼は、必ずしも3回ではなく何度もという意図があります)。

 教育ということを考えても、本人が求めていないのに、先回りして気をきかせ、「こうしてあげよう」「ああしてあげよう」というのは、あまり良いことではありません。過保護、過干渉ですね。自主性が育ちませんし、何より、熱心に求めて得たものと違い、願いもせずに与えられたものは大切にできないものです。

 ですから、本人が熱意をもって求めることは、実はその人自身のためにも大切なことなのです。私も子どもたちが、何度もしつこくお願いしてくることは、本気なのだと知って、それに応じてあげることを考えたものです。

 今日の場面も、神様はすべきだとわかっておられることを、あえてなさっていなかったと思われます。神様は、人の方から求めてくるのを待っておられ、「あなたがたの言い分はもっともだ、ではそうしよう」と答えてくださったのです。神様は熱心に求めて来るなら、良きものをもって応じたいと願っておられます。たとえ、どんな闇にあろうとも、求めるなら、愛の光のうちに救い出してくださいます。祝福をくださるのです。


1-2節によると、マナセ族のツェロフハデの5人の娘たちが、モーセと祭司エルアザルにあることを熱心に訴えたと語られています。この5人の姉妹たちの訴えとは、一体どのようなものだったのでしょうか。3-4節にその内容が語られています。 

3節 「私たちの父は荒野で死にました。父は、コラの仲間と一緒になって、主に逆らったあの仲間たちには加わらず、自分の罪過によって死んだのです。しかし、父には息子がいませんでした。
4節 息子がいなかったからといって、なぜ私たちの父の名がその氏族の間から削られるのでしょうか。私たちにも、父の兄弟たちの間で所有地を与えてください。」 

簡単に言うと、父の名を氏族から消されるのはおかしい!約束の地において私たちにも所有地を与えて欲しい!という訴えでした。父には息子がおらず娘ばかりだからと言って、土地の分配から漏れるのはおかしいということです。彼女たちにとっては死活問題です。なくては生活に困ります。必死に求めていたのでしょう。

これに対してモーセはどう応じたのでしょうか。モーセには二つの選択肢がありました。自分の経験・考えで判断するという選択肢と、主に差し出すという選択肢です。モーセはどうしたでしょうか。

5節 そこでモーセは、彼女たちの訴えを主の前に差し出した。

モーセは当時120才ほどです。ベテラン中のベテランです。それでも自分の経験に頼らず、神様にこの訴えを差し出しました。最善の答えは神様から来るという信頼があったからです。こうしてモーセがこの訴えを主の前に差すと、神様はお答えになりました。 

7節 「ツェロフハデの娘たちの言い分はもっともだ。あなたは必ず彼女たちに、その父の兄弟たちの間で、相続の所有地を与えよ。彼女たちに、その父の相続地を渡せ。 

神様はこの訴えに対してその「言い分はもっともだ」と応じてくださったのです。それは「正しい、その通りだ」という意味です。そして、「必ず彼女たちに相続地を与えよ」ともおっしゃいました。さらには、9節に「もし娘もいないときには、その人の兄弟に与えよ」と、家庭の様々な状況に合わせて示してくださいました。

しかし、神様が彼女たちに言われるまで、この正しい事に気づかなかったはずがありません。主はこのような熱意ある求めを待っておられたと思うのです。

このところから、私たちはもっと神様に求めて良い、求めるべきなのだと教えられます。しばしば私たちは、この祈りは聞かれないだろうと自分で判断します。けれど、お決めになるのは神様です。あきらめて祈らないのではなく、どんなことでも主に祈り求めてはどうでしょうか?それが神様に信頼するということですよね。

私たちの今の住居は祈りのうちに与えられたものでした。当時住んでいたアパートはリーズナブルな方でしたが、スペース的にも経済面でも厳しい状況でした。その時に公営の住宅を祈り求め、抽選に応募したのです。16倍という倍率でした。難しいかなと思われました。

しかし祈りました。皆さんも祈ってくださいました。それこそ死活問題!祈りの結果、なんと1回目で抽選に当たったのです。ある方はまるで自分の事のように喜んでくださいました。それは一緒に祈り求めてくださっていたからでしょう。

おかげで経済的にも守られ働きに集中できたのはとても大きかったです。もちろん贅沢や罪のための祈りは聞かれないでしょう。神様が喜ばれる動機で祈り求めるのが最善です。しかし、与えるかどうか判断されるのは主です。だからまずは祈りましょう。

「私にもっと財を任せてください!そうすれば、私はもっと愛の働きにそれを用いますから!」

「私の賜物をもっと豊かにしてください!それであなたの栄光を現しますから!」

「良い伴侶を与えてください!家族みんなでイエス様を賛美しますから!」と。


同じ求めるにしても、主のみこころに沿って求めるなら、なお熱心に確信をもって祈ることができますよね? 

この5人の娘たちはお行儀よく消極的に黙って受け入れることもできたでしょう。当時の社会では女性は黙っているようにとの風潮は強かったでしょう。けれど、彼女たちは主の約束の相続地がぜひとも欲しい!なければ困る!と主張しました。恐れずまっすぐに神の約束の地を求めました。

その結果、どうでしょうか。神様はこれを取り上げてくださったのです!それに加え、より大切なことは、神様がくださる約束の地を、非常に良いものと考えていたということです。祝福をくださるのは主である。私たちの幸いはこの方のところにあると考えたのです。 


 創世記に登場するヤコブは、人の姿を取られた神様と取っ組み合いの格闘をしました。そして足の関節が外れたにも関わらず、なお「私を祝福してくださらなければ、あなたを帰らせません!」としがみついたのです。神様は、こうした一見厚かましく求める人々を嫌われるのでしょうか。悪代官のように「下がれ!下がれ!頭が高い!」と退けられるのでしょうか。そうではありません。ヤコブを主は祝福されました。神の民を代表する名前「イスラエル」を与えたほどです。そこには「神と戦った人」という意味があります。イスラエルは、神様と向き合い、格闘するかのように必死に祈り求め、そうして恵みと祝福を受けた民なのです

 新約聖書でも同様です。イエス様は熱心に求める者に応え、その信仰を喜ばれました。ある病の女性は、群衆に取り囲まれているイエス様にしがみつき、着物の端に触れました!ある異邦人の母親は「子犬でもテーブルのおこぼれに与ります!」と、自分を子犬に例えて食い下がり求めました。ある盲人は、弟子が何度止めても「イエス様!私をあわれんでください!」と大声で叫び求めました。

彼らはみな、イエス様をなりふり構わず求めたゆえに、癒しと救いを受けたのです。 

 私たちは主に求め食い下がることがあるでしょうか。イエス様にしがみついているでしょうか。すぐに諦めるとてもお行儀がいい優等生かも知れません。しかし、それは逆に「熱意がない」とも言えるのではないでしょうか。

 ゆえに、恵みや祝福を得られずにいるのかも知れません。

 実はこの女性たちの部族は、40年間の荒野の歩みで最も人口が増加したマナセ族でした。マナセ族が祝福され、成長したのは、このように主の祝福を求める姿勢があったからかも知れません。

 しかも、3によれば、彼女たちのお父さんは自分の罪過によって死んだと自覚しています。引け目を感じて、求めてはいけないのではと思ってもおかしくありません。

 しかし、彼女たちは姉妹5人でやってきて、4節最後にあるように「私たちにも、与えてください」と明確に訴えました。「良かったらお願いします」とか「与えていただければ嬉しい」ではありません。「与えてください」と求めました。

 ゆえに主は「彼女たちの言い分はもっともだ」と応じられたのです。

 神様は本気で求める者を無視されません。

 どんなに罪深い者の言葉の足りない祈りでも!

 本気で求めるなら、良きものをくださるのです。

 マタイ77-11を開きましょう。イエス様の教えは、まさにそれを示しておられます。

7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
9 あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。
10 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。
11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。  

 最愛の子イエス様をも与えてくださった父なる神様です。あなたが懸命に祈り求めるのに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。最初からあきらめていませんか。主と格闘していますか。イエス様にしがみついていますか。神様は求める者に石ではなくパンを。それも美味しいパンを与えてくださるのです。



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